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『第十七章 愛と死 前編』

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「お待たせ。」

由香の声に、草汰ははっと我にかえる。
時刻は午前5時半。
まさか来るとは思っていなかった為、さっきまでぼうっと突っ立っていた草汰の頭の中は、かき回されたようにぐるぐると乱れた。

昨夜、草汰は眠る事ができず、いてもたってもいられずに4時前にはもう駅前に来てしまった。
まだ暗い駅前には人影は無く、時折通り過ぎるトラックのライトとエンジン音に、寝不足の頭が痛んだ。

由香との待ち合わせは5時。
いや、待ち合わせというには一方的過ぎただろう。
草汰はまた後悔の念にかられる。
何故あんな事を言ったのか?
何故ただ愚痴を聞くだけでいられなかったのか?
考える時間だけはたくさんあった。
しかし、一時間が過ぎ約束の時間になると、不思議と草汰の思考は落ち着き始めた。
朝の冷たい空気のせいか、爽やかな気分でさえあった。
(とにかく、待とう)
そうして腹をくくった矢先に由香が訪れたのである。
草汰は今日は夜までここにいるつもりだった。
仕事は、生まれて始めて無断欠勤するつもりだった。

「おはようございます。」
カラカラになった喉で精一杯明るく挨拶をした。
「おはよう。」
由香は少しうつむき加減にこたえた。
泣いているようにも、笑っているようにも見える。
大きめのバッグを抱きかかえるように持っていた。
「持ちますよ。」
「ありがとう。」
草汰は手ぶらだったので、由香の荷物を預かった。
見た目よりずっと軽い。
ふと由香の手を見ると、今日は指輪をしていないようだった。
「さ、どこに連れてってくれるの?」
「え?」
質問の意味がわからず、草汰は馬鹿みたいに口を開けた。
その顔が可笑しかったのか、由香は思わず吹き出した。
「なぁに?誘っておいて、行き先も考えて無かったの?」
「す、すいません。」
正直行き先などまったく念頭に無かったので、草汰は慌てて頭を下げた。
それがまた可笑しいのか、由香はクスクスと笑った。
「しょうがないわねぇ。」
「すいません。」
草汰は水飲み鳥のようにペコペコとした。
「もう。いいわよ。それじゃあ何処に行く?電車なら、始発はもう出てるわね。」
この駅の始発電車は、上りは5時12分発だ。
それに乗る人たちで、5時を過ぎる少し前から駅前には人影がちらほらと見えていた。
「そうですね…何処がいいですか?」
「え?…そうねぇ…」
由香は眉間に皺をよせ首を傾げた。
『自分が決めるべきだったか』と草汰は今日何十回目かの後悔をした。
「海がいいわ。」
「海ですか?」
真冬に海という発想が無かったので、草汰は思わず聞き返した。
「そう、海。冬の海なんて、なかなか行く機会無いもの。」
「わかりました。ではご案内します。」
「あら頼もしい。よろしくお願いね。」
ここぞとばかりに胸を張り、歩き出した草汰の手を由香はそっと掴んだ。
『何だか全てが作り物みたいだ』と、どちらとも無く思った。



「海なんて久しぶり。」
はしゃぐように由香は言った。
「僕も久しぶりです。小さい頃はよく行きましたけど。」
「うち…あたしもよく行ったなぁ。夏は毎年。」
ホームの端に並んで立ち、二人は何気ない会話をした。
話題は海の思い出、魚の話、水族館に行った事などで、由香は決して家族の話はしなかった。
いつもは家族の話ばかりだったから、それが草汰には新鮮だったし、哀しくもあった。

早くも混み始めた上りのホームと違って、二人のいる下りのホームには人はあまりいなかった。
人混みも、目立つのも嫌だったから、どちらにせよ好ましい状況では無い。
周りには自分たちはどう見えているのだろう?
四十代の女性と二十代の男。
親子には見えないだろうし、不倫にしては堂々とし過ぎているかも知れない。
そもそも自分たちの関係は、何と呼ぶものだろうと草汰はふと思った。
由香は何も気にしていない風に笑う。
いつも通りの笑顔なのが、草汰の胸を締め付けた。

電車に乗ってからは一転して、二人はどちらとも無く黙り込んでしまった。
話をすればするほど、家族の話題になりそうな雰囲気だったからだ。
草汰にはよくわからなかったが、それが家庭を持つという事なのかも知れない。
席には並んで座ったが、さすがにもう手は繋がなかった。
草汰はぼんやり外を眺めながら『お腹空いたな』などと関係の無い事ばかり考えていた。



「さむっ。」
30分ほど電車に揺られ、二人は海辺の町へとやってきた。
風が強い。
由香はコートの襟を立てた。
「海の匂いがするね。」
「はい。」
まだ明けない夜の端を、二人は歩き出した。
草汰が目指すのは、駅から海沿いの道を歩いて15分程のところにある場所。
砂浜では無いが、大きな岩もあまり無く散策するには良いだろう。
道路からも見えず、そんなに人もこないので今日の二人にはうってつけだ。
草汰はその場所に昔、父と一緒に何度か来た事があった。
父は海の生物が好きで、小さい頃はよく磯遊びをしたものだった。
「あ、夜明けね。」
由香が指差す方、海の向こうに朝日が顔を出し始めている。
空は明るくなりだしたが、まだ円い月も見える。
人通りが無いのと相まって、まるで異世界に迷い込んだ気分だった。
「ここから近いの?」
由香が草汰の顔を覗き込む様にたずねる。
今日の由香には、草汰は不思議と照れなかった。
「あ、はい。もうすぐ着きます。」
「砂浜?」
「いえ、違います…けど足場は悪く無いですよ。」
「良かった。今日ちょっと踵がある靴履いて来ちゃったから、砂浜だと歩きにくいなって思ってたのよ。」
「そっか…良かった。」
「あ。」
ほっとして笑う草汰の隣で、由香はクスクスと笑った。
「どうかしましたか?」
「ううん、ごめんね。」
由香は可笑しそうに目を細める。
何か変な事を言ったかと、草汰は少し不安になった。
「創くんって、よく『そっか』って言うよね。口癖?」
「え?」
確かに草汰は『そっか』と言うのが口癖であった。
仕事中などよく独り言のように『そっかそっか』と呟いてしまう。
しかし由香の前では気をつけて、なるべく言わない様にしていたつもりだったのだが、ついつい言ってしまっていたらしい。
「すいません。」
「何で謝るのよ。あたしこそ笑っちゃってごめんね。」
「いえ…」
「あのね。」
由香がふいに立ち止まった。
草汰も二三歩先で立ち止まり、そして振り返る。
一瞬の沈黙の後、由香は小さく震えながら、こう言った。
「うちの旦那も…『そっか』って口癖なの。」
笑って言う由香の目から、涙が一粒零れる。
それは朝日に輝いて、キラキラと輝いた。
「あ、あら、ごめんなさい。」
「いえ…」
慌てて涙を拭く由香に、草汰はかける言葉が見つからなかった。
「…哀しい、ですか?」
だから頭に思い浮かんだ言葉を、そのまま口にしてしまった。
由香はその言葉に、笑顔でこたえた。
「ううん。哀しくないわ。ただ、泣いているだけ。」
そう言って由香は草汰に駆け寄った。
「さ、行きましょ?立ち止まると寒いわ。」
「はい…」
結局草汰は何も言えず、目的地に着くまで、明るく振る舞う由香にそっけない返事しか返すことが出来なかった。
冷たい潮風が頬に刺さる。
海は、少し荒れている様だった。

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