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『第三章 夜の帳を降ろして』

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「さ、何を話す?難しいのはもう無しね。」
「うん、じゃあ、そうだな…」
男は右手を口に当て視線をそらす。
空はもう半分まで夜がやってきている。
「君の話を、聞かせてくれよ。」
「あたしの話?」
「うん。どうして、こんなところに一人できたの?」
「それは…」
アヤは少し考えてから、『まあいいか』という感じで話し始めた。
「お母さんがね、いなくなっちゃって。」
「お母さんが?」
「そう。ある日突然。」
「突然?」
「うん。」
「書置きとかは無かったの?それとも事故とか…」
「ううん。突然ね、何にも言わずにいなくなっちゃったんだ。」
「そっか…そんな様子はなかったの?」
「そんな様子?ああ、ええ、前日まではいつも通りのお母さんだったわ。」
「へえ…」
「お父さんともすっごく仲良しでね。お父さん、今もお母さんをさがしに行ってるの。思い当るところは、もうすっかりさがしちゃったんだけどね。」

ざ………ざ………

「それで、海に?」
「そう。陳腐でしょ?思わず着いた時に笑っちゃったもん。」
「確かに、落ち込んだ時に海なんてベタだね。」
「ほんと。でも、思ったよりすっきりした。風が冷たいせいかな?」
「かもね。」

ざ………ざ………

「暗くなってきたね。」
「うん。ほら、あそこで空が半分になってる。」
「ほんとだ。あっちは夜で、こっちはまだ明るい。」
「うん。今日は天気がいいから、星が良く見えそうだ。」
「もうけっこう見えてるわ。でも、ちょっと月が眩しすぎるね。」
「うん。けど、真っ暗より良いよ。」
「暗いのは嫌い?」
「そりゃね。」
「幽霊なのに?」
「幽霊でも真っ暗は怖いんです。」
「変なの。」
「変じゃないさ。」
「もう。」

ざ………ざ………

「月ってさ。」
「うん?」
「月って、太陽の光を反射して、光ってるのよね?」
「ああ、そうだよ。他の星も、地球だってそうさ。」
「なのに、あんなにきれい。」
「なのに、って?」
「ううん、何となく言ってみただけ。」
「そっか…」

ざ………ざ………

「月は鏡じゃないからさ。」
「え?」
「確かに月は太陽に照らされて輝いているけど、君がきれいって言う月の姿は、何かを映したものじゃ無い。それは、月本来の美しさなんだよ。」
「でも…月って近くで見るとでこぼこよ?」
「それでも。」
「それでも?」
「そう。」

ざ………ざ………

「すっかり暗くなっちゃったね。」
「帰らなくて大丈夫?」
「うん大丈夫。どうせ、誰もいないし。」
「でも、お母さんが見つかっているかも。」
「帰って欲しい?」
「あ…いや、そういう意味じゃ無くて…」

ざ………ざ………

「何か、思い出したりしない?」
「え…」
男は記憶を無くしたことさえ忘れていたのか、質問の意味がすぐに理解できなかったようだ。
「名前とか。年齢くらいはさ。」
「ああ…そうだな…」
男は膝に置いていた右手を口にあてた。
どうやら考える時の癖らしい。
「あ…」
「何?何か思い出した?」
「うん。」
「教えて。何を思い出したの?」
「僕は…僕の職業は、音楽家だ。」
「オンガクカ?」
「そう、音楽家。」
「オンガクカって…ピアニストとか?それとも歌手?作曲家?」
「そこまでは思い出せない。とにかく音楽に関係する仕事である事は間違いないと、思う。」
「ならオンガクカって表現は変よ。」
「どうして?」
「だって、船頭さんだって歌を歌うわ。」

ざ………ざ………

「また…何か思い出したら教えてね…」
「う、うん、わかった。」

空は艶やかに黒く、風はいつの間にか止んでいた。
5

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