私は現在十九歳。顔の皮膚に重い火傷を負っており、外出が思う様に行かない。それは小学校の頃の事だった。当時五年生だった私は、理科の実験中、私とは別のクラスメイトが、火のついたマッチに向けてアルコールランプを傾けた時、そこから漏れたアルコールに引火し、爆発した。それでその時、側に立っていた私に燃え移ってしまったのだ。
その時、首と、頬の片側に、今でも消えない焼け跡が刻み付けられた。当時は、百日以上も入院させられ、あの時の事は思い出したくない話だ。だが、今、現実に、その時の事故が今の私の生活と密接に関わっている事は否定しようが無く、醜形恐怖から不安障害を引き起こし、人付き合いがままならない生活を送っている。
幸いな事に、父も、母も、元気に健在で、私達は同居しており、彼等は私が事故に遭った時の慰謝料(市に、千五百万円の損害賠償金を支払って貰ったのだ)と言う、金銭的な、家族への生活費の貢献が、少なからずは出来たであろう事もあり、優しく対応して貰えたし、何より、父も母も、昔から友達の様に接してくれ、母などは福祉関係のボランティアに強い関心を抱く、弱者に労わりの目を向けられる人だったし、父は昔も今も優しく、休日には三人でドライブに行く事も多い。
しかし、単純問題として、私自身が、自分の思った様に外界へ足を伸ばすのが、現在の自分の心境からすると難しく、そう、事故に遭ってから、私は次第に塞ぎこみ、中学ではほとんど不登校児になってしまったし、その頃が一番酷かったが、聞きもしないのに他人が私の事を悪く噂している様な錯覚が強まり、今でこそ避難口が見つかったから良い物の、当時は本当に生きているのが嫌だった。
それはそれとして、その、私の避難口と言うのが、本だった。本の中には、文字だけが生きており、他人の外見を、ビジュアルを見せられ、自分は美しくないのに、他人の、自分に無い綺麗な部分を見なければならないと言う、不愉快さを味遭わなくて良いからだ。文字ならば、自分の思った通りに受け取り、消化出来る。そう言う意味で、文字の世界とは、一見、テレビや映画、漫画にビジュアル的に劣った、古い文化の様に一般的に見られがちかと思うが、そうではないのだ。文字だからこそ、他人の作った世界観を、「直」で、解釈する事が出来る。私はそう思っている。
さて、その様な経緯で、私は他の同級生達が中学や高校生活を享受している最中に、家に引き篭もりがちになり、勉強は疎かになり、本ばかり読み、偏った価値観の塊になってしまった様に思う。その所為があってか、精神科へ通うだけでも、大変な苦痛を伴った。簡単に言ってしまえば、先生の一挙一動が、気になってしょうがない。いつも、科には父や母に連れ立って貰って行って居たが、その度に自分と他人の外見を比べてしまい、体が小刻みに震えてしまうのだった。
ところで、この話はそういう事を言う為の物では無い。そういう状況の人間が、より広く、多くの文学に出会いたいと言う気持ちが、止まりを見せようとしないので、それはおそらく、自分自身が、過去の文豪達の作品を読み耽るに付け、自分も同じ様に、何か散文作りをして、発表してみたいと言う気持ちが有ったからなのだと思う。其れな物で、私は、昔から図書館、それも、都心に有る様な大きく、一日中浸って居られる様な本の空間に憧れていた。
しかし、それと同じ位に、外へ出て、他人と比べられる事に人一倍恐怖感も有ったので、それは、現時点では、一人では難しい。しかし、この先、父も母も、彼等の命は有限では無い。それを考えると、いつかは私一人で生きていかなければ、私一人で社会と関わっていかなければならないのだろう。ただ、不幸中の幸いか、まだ未成年なので、両親からはそれ程、将来の事を強く諭される事は無い。ただ、それは逆に言えば一人娘なのだから、本心から言えば、嫁の貰い手が果たして見つかるのか、と言った、心配の裏返しなので有ろう。
それはこちらとしても遠まわしに感じてはいるが、ただ、現実問題として、とても今はそんな事を考える余裕は生まれない。それよりも、如何に現実逃避して、文学の世界に耽るか、と言う事ばかり考えてしまう。
こんな事を考えていた。私は事故には遭って居なくて、外見は他の一般人の方達と何も変らない。在学中に心を動かされる傑作文学に出会い、人生の方針を決定付ける。それで、学校へ行っても図書室へ足繁く通い、そこに在る沢山の書物達との出会いを果たす。それだけでは飽き足らなくなり、卒業した頃には自分でも書き始め、更に、少し離れた大きな図書館へも通う様になる。いや、大学生になって、大学の図書館を使う様になると言うのはどうだろう。行った事は無いが、とても大きな所だと言う話だし、そこで教授レベルの人達が研究を行っているのだろうから、アマチュアレベルならば、充分な資料価値を見出せるのでは無いだろうか。
私は現在、この様な、もう一人の自分の、理想的な生活を描く事に、小さな喜びを感じている。いつか、形は違えど、願いが叶う日が来る事を祈って。