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2.「今は」

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 一度、体が宙を浮いた様な感覚を味わった気がする。いや、気のせいなのだろうが、例え
ば遺伝子組換えの食べ物が安全だと言われても、どうしても気になってしまうのは、人間の
性なのだろう。それがどう作用するのかは分かっても、原理を理解できなければ、怖いものは
怖いということだ。
 目を覚ますと、そこは白かった。無垢な色でも、心を不安にさせる。
 なんだ、目が見えなくなったのか?、手は動く、手はかざせるか? かざせた、なんだ白い
のは天井か。
 体になにか突っ張った感触があると、目を右手に向けた。細々としたチューブが、無理に
引っ張られているせいで、それを支えているテープが乾いた音を上げていた。
「ああっ、引っ張っちゃだめですよ」
 ナースが驚いた表情で、僕の方へ寄り添ってきた。
「ナースは古いか…。今は看護士か。はは、古典的だな…」
 ずっと気を失っていたというのに、いまだにおぼろげな視界は、まだ寝足りないということ
なのだろうか、それとも麻酔がまだ残っているのだろうか。必死に考えたが、そんなことも眠気
にさえぎられ、なぜ眠いのかを反芻したまま、泥のような眠りについた。

 次に目覚めたとき、視界は少し煤けていた。手もかざしてみる、チューブもない。どうやら、
別の場所へ運ばれてきたらしい。もうすぐ目覚めることが分かっていたのか、頭がいやに茂った
医者が、不敵な笑みを浮かべてやってくる。なにが嬉しくて、なにが幸せで笑っているのだろうか。
丁度、男の胸にはプレートが付けられ、「徳田」と書かれていた。徳田先生か――。
「おめでとう。君は手術に成功したよ」
「手術?」
 僕は医者に聞き返す。体の中にでもメスを入れたのか? そりゃそうだろう、自殺したのだから。
「工学的な手術だよ。そうか、君が怪我をしたときはまだ、この技術が確立されていなかったか…
そうか」
 徳田は、『山』という字を描いたような天然パーマだった。そんなことはどうでもいいが、
その人相だけで、少しは時間を潰せそうだった。しかし、今は笑っていられるほど通常じゃない。
疑問が、頭の中から溢れんばかりに、もこもこと這い上がってくる。もしも、口からそれを
アウトプットしなければ、舌を噛み千切ってしまいそうな勢いだった。そんな勇気はあるはず
もないが…。
 疑問は2つ。自殺を図ったのに、なぜ生きているんだ。服毒自殺で完全に死んだはずだ。
その手元にあるカードを徳田に突きつける。
「俺、どうなったんですか? なんで、ここにいいるんですか?」
 徳田は口をつむる。そして、窓の外へ目を写し、なかなか切ない顔を見せる。だが決して口は
割らないのが見えた。
「もう夏だね…。ビールがおいしい季節だよ。こう見えても、もう一日中働きぱなしで、くたくた
だよ。ああ、勤務の後の一杯が早く飲みたい」
「夏…? 僕が死んだのは冬だったような…」
 堪忍したのか、それとも喋っていい情報だったのかは分からない。ただ、ぽつりと「いわゆる
植物状態だったんだよ」と、悲しそうな、しかし長い下まつげと、成長の早いあごひげがそれを
あまり感じさせない。
 しかし、困った。誤算だ。いままで黄泉の世界にいると思っていたら、まさか現実世界の範疇
だったとは。

 しばらくして、兄貴だけがやってきた。
「おおよかったなあ。本当によかった……」 
 最後に見たときよりも、かなり年をとっていた。童顔な兄だから、それは仕方ないのだが、
昔は黒々としていた紙にツヤがなくなっているような気がする。顔も、シワが濃くなった。
 いろいろと聞きたいことは山ほどあったが、どうせ答えてくれないのだろう、そう割り切って、
ただひたすら親類との再会に気持ちを奮わせた。
「お前が自殺を図ってから5年経ったんだぞ」
「5年……」

 その時間の重みを知るよりも、はやく感じたかった。
 この世界がいま、どうなっているのか。そして、なぜ生きているのか。その謎を知ってしま
えば、自分は絶対に今のままではいられないだろう。しかし、知識欲というのは抑えきれない。
だからこそ、人は、人間は「死んだ」と思った人間まで蘇らせることができたのだろう。
 僕の考えは、ズレていた。それは違和感となって、まざまざと、心に浮き上がってくる。昔
の人間が未来にタイムスリップしたような、違和感。いや不具合。
 5年は重い。



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