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第一回 中華料理店〈ファーアン〉

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 電車の中で、思ってしまう。
 ちらちらと顔や腕やスカートなんかを見ながら、思ってしまう。
「!」
 目の前の女子高生の、瞳が動いた。別に悪いこともしていないのに、ビクついてしまった。
(…若いなぁ)
 思ってしまう。
 通勤の、電車の中で。



21才



第一回 中華料理店〈ファーアン〉



 怒鳴り声。
 そう、いつもの。
「おい、クロ! クロぉっ!!」
 ――人を、ペットかなにかみたいに呼ぶんじゃねぇよ……!
「なんですか」
 若林、というオッサン。この店の料理人の中で一番声のデカイ、五番目に偉いヤツ。
 俺は、下から二番目。
「坊ちゃんは、皿洗いも満足にできないんか?」
 今度は坊主呼ばわりだ。
 この若林、実際美味いメシをこさえる。
 それなのに、五番目。年も一番食っているのにだ。
 きっと、若い頃、暴力団にでもいたのだと、思っている。
 だから、出世が遅い。この口調と、ドスの利いた声だ。そうなんだろう。
 皿を持っている。俺の役目は主に調理場内の雑務で、皿洗いも勿論俺のくだらない種々の仕事の
一つ。
 キレイじゃないか。何の文句があるんだ?
「これがどうかしたんですか」
「あぁ!?」
 どうかしたのかって訊いてんだよクソオヤジ。
「…ここを見てくれよ、ここをな」
 若林は勝手に呆れているようだ。知ったことじゃない。
「小さく、油カスのこびり付きが残っていないかい? クロよ」
「はあ」
 若林の指差す部分を凝視するが、やはり何の跡もない。言い掛かりだ、と確信した。別に珍しい
ことじゃない。大人は――特に、神経がらせん状に曲がりくねってしまった類の、一番手の付けら
れないタイプの“おとな”は――異常に我儘になる。
 協調はしない。
 譲歩もしない。
 格下には辛く当たり。
 格上には尻尾を振る――まあ、出世できない男だから、尻尾は上手く振れんのかもしれないが。
 とにかく、自分の過ごしやすい、自分だけの快適空間を形成し、それを維持するのには、何の苦
労も厭わないのが、俺の今まで見てきたおとなである。俺はどうやら、オッサンにとっては自分の
テリトリーを侵害する物、として、認識されている。
 オッサン。あんたに言ってやりてぇ。
 それは、俺にとっても、同じことだ――と。
 脳が凝り固まって、想像力が欠如しているから、そんなことは思いつきもしないのかな?
「…やっぱりキレ――」
 言葉を言い切らないうち、頭部に衝撃が走る。
 若林の太い腕と、固い拳が、俺の頬を打ち抜いた。
 痛みは感じない。ただ衝撃と、舌を貫いた犬歯に伝う、鉄分の味。
 怒りは湧かない。湧くとして、もっと後のことだ。だが、その時は、酷いことになる。
「俺の欲しい答えが、もう勤めて三年目にもなんのに、分からんのか?」
 お前も分かれよ。“それ”を……俺が何より言いたくないってことを。
「何も言わずに謝って! そして洗い直せばいいんじゃねぇかよ!!」
 うるせえ!!
 …若林は、皿を置いた。
「洗い直して、持ってこい。俺がいいというまで、洗うんだよ。永遠にな」

 七月。この店……〈ファーアン〉で働き始めてから、もう三年目になるのだ。
 俺は、一度も調理場で包丁を握ったことがない。とにかく、ガキでも出来る雑用ばかりで、日々
が過ぎていった。
 …ガキ。
 俺はガキなんだろうか。
 ガキじゃない、というなら……ガキと、そうじゃない境界とは、何なのだろう。
 それが分からないまま二十歳になり、そして、九月には二十一になる。
 なって、しまう。
 なってしまうのに、俺は、独りぼっちのとこで皿洗いをしてる。
 そんなときに、部屋の外で、小さく音がする。
 音とは、靴音とか、服が建物と擦れる……そんな微細なモノ。
「…ともみちゃん?」
 言うと、音が途端に大きくなる。
「えへへ……勘が鋭いねえ、黒田さん」
 彼女は――佐原ともみは、たまにこの、滅多に人のこない地下に現れる。そのときにこうして人
と出くわすと、決まって今しているみたいな、バツの悪い笑顔を見せて誤魔化すのだという。


第二回に続く
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