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一、ハナクソ

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 県立竹前西高等学校は県内でもトップクラスの進学校で、一つの学年に三百六十人の生徒がおり、それが九つのクラスに分けられている。
 四月も終わりに差しかかり、入学したころの緊張感はもうほとんど新入生たちの間にはなくなり、部活や趣味で気の合う仲間たちの集まりが出来上がっていた。しかしどのような集団においても、周りに馴染むことができず孤立してしまう者は存在する。三組の丹下もその一人に数えられるのは間違いない。
 彼は百六十センチに届くか届かないかぐらい小柄で、体躯もがっちりとはしておらず、図書館で本を読んでばかりいるような少年のそれであった。周りの人たちがどの部活に入ろうか悩んでいるのを見て、彼も同じ悩みに耽っていた。彼はもちろん運動部に入って汗水流す気はなく、何か文化系の部活に入って暇でも潰そうかと考えていた。
 しかし彼は特にこれといった趣味を持っておらず、どの部活も彼に興味を抱かせるものではなかった。これは彼がクラスの中に溶け込むことができない一因でもあった。彼はそれに薄々感づいてはいたが、それすらどうでもよかった。部活の最終決定日は五月二日でもう残り一週間もなかったが、なるようになるさ、と彼は思っていた。



 ある日のこと。
 四時限目が終わり、昼休みの時間になった。
 他のクラスと同じように、三組では友達同士で机を寄せ合い、弁当をつつきながら俺んちではどうだの、昨日のテレビはどうだのと喋っていた。
 当然その輪の中に丹下はいなかった。
 というより三組の中自体に彼はいなかった。
 彼は不登校児にでもなってしまったのだろうか?……



 校内を四角く縁取った中庭では、アブラナの黄色い花が陽の光を浴び、風に揺られて煌いている。その一角にある購買では、激しいパンの争奪戦が行われていた。二、三年生たちは新入生たちの若々しいパワーに圧倒され、入学したころの自分を思い出し年をとったなあと心の中で嘆いたかどうかは知らないが、劣勢に追い込まれていた。
 そこから中庭を挟んで対角線上にある武道場は、うってかわって厳粛な静けさを湛えていた。中には脱ぎ置かれた剣道着の面がいくつか立っている。そのうちの一つとにらめっこするかのように、校舎の渡り廊下に座ってひとり弁当を食べている丹下がいた。
 思い切って剣道部にでも入ってみたらどうだろうか? 彼はふとこんな考えを思いついた。
 大声を上げて、ぶかぶかの剣道着を着て、大きな竹刀を振り回す自分……
 そんな噴出しそうにもならないイメージを頭の中に浮かべて、そんなものを想起させるような自分の体の小ささを呪った。



 ふと、渡り廊下の先にある自販機の方を見やる。そこには髪を首の辺りまで無造作に伸ばした、明らかに校則違反の男がコーヒーを買っていた。その男はいつも十二時半を過ぎると自販機でコーヒーを買うことを丹下は知っていた。そしてその後、ふらりふらりと歩きながらこちらにやってきて購買で買ってきたパンを食べ始めることも。
 丹下はこの男に、ある親近感を感じていた。他人の目などまったく興味がない、と言わんばかりのその髪型に。地球の重力にすら敵愾心を抱いているようなその歩き方に。パンをずっと見つめてはふと思い出したかのように噛りつく、そのだらしない食べ方に。親近感というよりはむしろ、畏敬の念に近かったかもしれない。



 丹下は弁当に入っていた最後の玉子焼きを食べ終えると、特にすることもないので彼の悪癖の一つであるハナクソほじりを始めた。彼は物心ついた時からこれをやっている。
「おい、汚いな……」男は言った。
 彼はびっくりした。それは突然男が話しかけてきたからだけではなく、男に張り合おうとふてくされた態度を自分がとっていたことに対する驚きでもあった。
「ごめん」
 と丹下は言った。
(どうして自分はこの男に対してこのような対抗心を持ったのだろうか? それは彼があまりにも他人に関心がないからだ。そこで自分は彼の関心を引くためにあんなことをしたんだろう)
 丹下は自問自答をした。
(しかし、自分に関心を持ってくれたということは、お互いがお互いに興味があるということではないだろうか? わざわざ賑やかなクラスから離れてこんな寂しげなところで飯を貪る理由を知りたい、と思うのは当然だろう。誰だってそうだ)
 彼はそう結論づけた。そしてちょっとその男と話をしてみたいと思った。



「ちょっと」丹下は男に向かって言った。「何年生?」
 男はゆっくりと顔を彼の方に向けて答えた。
「一年生。お前もか?」
「うん、まあ」
 丹下は感心していた。高校生活に期待を抱いて入学してきたはずの新入生がこんな無気力な、ふてくされたオーラを出せるなんて。自分のことは棚に上げてそう思った。
「名前はなんていうん?」
「篠原」
 男はそう答えた。
「何組?」
「一組」
「何でこんなトコで飯食っとるん? クラスにおらずに」
「多分お前と同じ。あの声が耳に障るんだ」
 丹下は篠原を質問攻めにしたが、彼は嫌な顔ひとつもせずそれに答えた。ひょっとすると嫌な顔をするのさえ面倒くさかったのかもしれないが。
 そして話は、部活の話になった。
「部活とかもう決めた?」
「いや、まだ。でも気になるのが一つあるな」
 篠原は続けて言った。
「バドミントン部。あれなら経験者も少ないだろうし、高校からでもやっていけそうな気がする。俺中学のとき帰宅部だったし」
 なるほど、バドミントンか。丹下はそう思った。
 すると篠原は言った。
「なあ、一緒にバドミントン部の見学に行かん? 俺まだ行ったことがなくて」
 見学するという選択肢は彼にとっての新たな発見だった。何の部活にも興味のなかった彼は、見学にすら行っていなかったのだ。
「いいよ」丹下はそう答えた。
 見学するくらいなら別にいいだろう、やりたくないならきっぱりとやりたくないと言えばいいだけの話だから。彼はそう思った。
「それじゃ、今日の放課後一組の前で待っとるから」
 パンを食べ終えた篠原はそう言うと立ち上がり、またふらりふらりと歩き出し、渡り廊下の先に消えていった。



 そろそろ一時になる。
 昼食を食べ終えた生徒たちが体育館や運動場に出てくるピークの時間帯で、武道場の裏にある運動場から上がってくる声も大きくなってきた。
 丹下はその声に鬱屈としながら、またひとりハナクソほじりを再開する。足元のタンポポの花のあたりに蠢くダンゴムシめがけて、彼は指でハナクソをピンと弾いた。
 その弾は見事一匹のダンゴムシに命中し、身の危険を感じたのか、きれいに丸くなってしまった。
 それはまるで黒光りする大きなハナクソのようだった。


 
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