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第十七話「冷めたパスタ」

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 当たり前のように日常はそこに転がっていた。転がっていた筈だった。ほんの少しの非日常的な出来事と隣り合うようにして。
 けれども、それは扉を開いた時に崩れ去ったような気がした。ああ僕はとうとう境目をまたいでしまったのかと思った。ぼんやりと浮遊する意識の中で、目の前にずしりと居座る現実と目を合わせ、それでもただ目を回す思考に困惑する。
「君が、川西彩香と“最期”に会ったらしい明良くんだね?」
 渋い色合いのコートを着た中年男性と、隣にくっつくようにして僕を見つめる若い男性が、手帳を取り出す。黒く、中央に紋の入った長細い手帳を。
「少し、お話を良いかな」
 それは、彼女が死んだと言う紛れもない証拠のような気がした。

   ――アンダンテ&スタッカート
   ――第十七話

「――それで、君は彼女と別れた。と」
「はい」
 別にこう言った時は拒否することもできたような記憶はあった。けれども、僕は何故か丁寧に彼ら二人を招くとわざわざお茶を出し、そうして向かい合うようにして座って事情を説明していた。
 心のどこかで全てを打ち明けてしまいたいという気持ちがあったのかもしれない。
「よければ、どんな会話をしたのか聞かせてもらえないかな?」
「その前に、一つだけいいですか?」
 中年男性は若干薄くなり頭皮の見える頭に手を当ててから、少し渋い顔をしながら頷いた。
「川西彩香は、どんな最期だったんですか?」
 単純に、本当に単純な疑問だった。いつも通りの誘拐事件ではなく、僕と会った直後の死亡。僕には何故だか、それがとても関連しているようには思えなかった。
「こればかりは……」
「知れないと、多分僕は現実を受け入れられないと思うんです」
 嫌でも受け入れなくてはならない。そうでもしなければこの出来事はずっと宙に浮いたままだ。僕はきっととても面倒くさい思考をしているということは分かっているし、目の前の刑事二人にとってもこれほど面倒な聴取相手はいないだろうと思った。
 でも、蹴り落として欲しかった。
 容赦なく、お前の友人は、親友は死んだのだとはっきりと言って欲しかった。
「……彼女の遺体に関して、一つ見つかっていないものがあるんです」
 ただただ口を濁らせる中年男性の横で、若い男性は静かにそう言った。中年は少し驚いたような、苦しい表情をしてから顔を伏せる。
「これは、できれば口外はしないで欲しい」
 僕は頷く。
「頭部が、どこを探しても無いんだよ」
 その言葉に僕は、ただ茫然とした。脳裏に浮かんだ彩香の顔が、次々に塗りつぶされ消えていく。ああもうこの顔は現実には存在しないのだとじわりと実感が身体に沁み込んでいく。ぬるま湯につかっているような、熱いのか寒いのかよくわからない感覚。
 とうとう何一つとして受け答えを行わなくなった僕を見て、彼らは諦めたようであった。それとなくどこかへそのまま聴取に連れて行かれるのかと思っていたし、その覚悟もしていたのだが、行う必要がない、彼を調べたとしても実のある情報はないだろうと判断されたようだった。
「また、改めて伺います」
 中年はそう言うと軽く礼をして、それから扉を閉めた。
 静寂がやってきた。僕はドアノブを暫く見つめ、それから少しして冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、ベッドに腰かける。
 ぶらりぶらりと缶を揺らす。ラベルは光を孕むと鈍く輝き、そして僕の顔を小さく写した。まともな鏡ではない為輪郭や明度ははっきりしていないが、それでも十分に酷い顔だと思えた。今の僕は死んでいる。
 プルを空けると、思い切り缶をあおった。

   ―――――

 ギイ、と扉の開いた音で目が覚めた。そういえば鍵は閉めていなかった気がする。
目が覚めた筈なのに、意識がはっきりしない。視界は船にでも揺られているかのように回っているし、手足もぼんやりとしていて、まるでゴムのようだった。動かそうとしてもだらんと力なく床に落ちてしまう。
 そういえば僕は初めベッドにいた筈なのだが、何故今冷たい床の上にいるのだろうかと暫く考えてみるが、記憶が戻ってくる気配もなく、これ以上思考を無理に巡らせると薄らと僕の内側で蠢く悪寒が口から飛び出てしまう気がしたのですぐに辞めて扉の方に目だけを動かした。
「貴方、こんなに飲める人だったの?」
 入ってきた人物はそう言うと驚いた顔をし、それから僕の背に手をやって身体を起こす。間近にやってきた顔と赤眼鏡を見たことで、その人物が雪咲であることにやっと気付く。
「――」
 何故来たのかを聞きたかったのだが、呂律が僕の意識を完全に無視し、結果言葉には聞こえない言葉が外に吐き出された。雪咲は困惑した表情を浮かべているし、机の上に放り出されている空いた缶を彼女は片付け始める。
 もういいや、と思った。
 そう、何かが僕の中ですとんと落ちてしまったのだ。
背けたい気持ちと背けてはいけないという理性が苦しめ続けていた感覚を、そこでとうとう僕は落してしまった。心の中でその言葉はじわりと広がると、沁み込んでいく。それがとても痛くて、痛くてたまらなかった。
「――」
 多分、何かを喋ったのだと思う。けれども、僕すらそれを言葉を認識できなくなっていた。まどろみという沼にずぶずぶと意識が埋まって行く。その中で呼吸ができなくて、僕はだんだんと意識が消えていく。

 残った意識の中で僕が目にしたのは、雪咲の身体に両手を回す僕自身の姿だった。

   ―――――

「先輩、おはようございます」
 彩香は頬を赤らめながらそう言って笑うと、僕の腕に手を回す。鼓動が速くなり、少しだけ恥ずかしさを感じながら、僕もその腕を回す人物に対して笑みを返す。
 それから、単位の事だったり、授業の出席数だったり、修二の存在についてだったり、はたまた今度はどこに行こうかとスケジュールを考えたり。本当に、本当に他愛もない話を僕らはし続けた。
「先輩」
 彩香は立ち止り、僕の腕から彼女の手が離れた。振り返って彼女を見てみるのだが、何故だか彩香はとても悲しそうな顔で僕を見るのだ。
「私のこと、好きですか?」
 一度だけ、夕暮れ時に聞いた言葉だった。その時僕は一度深く頷いたのだ。そして目に涙を浮かべる彼女の身体をぎゅうと優しく抱きしめた。あの時の感覚を忘れることは、二度とないだろう。
「――」
 僕はそう言って彩香を強く抱きしめる。彼女は少し寂しそうな表情をしてから、僕の腕の中に身を委ねた。
「――」
「本当に?」
「――」
 彩香はそこでやっと笑みを浮かべた。それから少し足りない距離をつま先立ちで縮めると、僕の顔の前で目を瞑る。僕も目を瞑って、それからゆっくりと――
 これが、本当ならどれだけよかったのだろうか。僕が本当に彼女に好意を持つことができていたのならば、彩香は今もここにいたのだろうか。僕は選択を間違ってしまったのだろうか。
「先輩――」
 終わった後の彩香は顔を赤らめる。僕は息を切らしながら彼女の身体に倒れ込む。彩香はそんな僕の身体を華奢な腕で抱きとめると、微笑んだ。罪悪感が広がって行く。こびりついた感覚が、この世界をリアルに感じさせた。
 望んでいない。
僕は呟いた。
 罪滅ぼしのつもりなのか。
 僕は唇を噛む。
「大好きです」
 僕が作り出した彩香は、そう言って笑う。
悪夢、だと思った。こんなもので罪悪感が払えるわけもないし、彩香が救われるわけでもない。僕のしていることは単なる自慰行為に過ぎないと分かっているのにも関わらず、妄想は留まろうとはしなかった。

「先輩、今好きな人がいるんですか?」

 時が止まった。
 ああ、なんてものを掘り出してくるんだ。僕は腕の中で頬を染め微笑む彩香を見た。彼女は相変わらずの表情で、そこに暗闇が落ち込むことはない。
 なんて返そうかと思って、暫く考えてから、言った。

「ちゃんと作るよ」
 その言葉が正解だったのか、それとも不正解なのかは誰にもわからないだろう。僕の思考の中だ。もしくは僕自身の判断が正解となると考えてもいいのかもしれない。
「君への答えが、嘘にならないように」
 その答えを出した時、彩香はもう僕の腕の中にはいなかった。周囲を見回すけれども、彼女の姿や気配はまるで感じられない。
 こんなことで、僕は納得できたと言うのだろうか。
「もう、未練を引きずるのはやめにするよ」
 ただ自分に言い聞かせるように、もう一度、誰もいない僕だけの部屋で呟いた。

   ―――――

「気が済んだのかしら?」
 目が覚めて初めに視界に入ったのは、雪咲の顔であった。何がどうしてこうなったのか記憶が全くないし、その間になにがあったのかも思い返すことができない。
 一体どんな言葉をかけるべきなのか必死に考えているのだが、一つとして言葉が生まれることはなかった。多分、何を言ったとしても意味をなすことはないだろうと思ったからだ。
 ただ口をつぐんだまま周囲を見回す。ベッドの横、腕の中には雪咲。ただどちらも衣服に包まれているし、多少のよれはあるようだが、雪咲に何かしたようでもない。いや、抱きしめて横になっていた時点でしているわけではあるが。
「安心しなさいよ。私を抱き枕にして寝てただけだから」
 そして、腕の中から僕を見つめる彼女の瞳が、とても済んでいて、落ちついていることもあった。
 すぐに彼女を腕の中から解放すると、僕は距離を置く。なにもなかったとしても居心地の悪さはなくならないし、雪咲に対する罪悪感も止まらない。
 雪咲は衣服のしわを簡単に手で伸ばして直すと立ち上がる。
「朝食はいる? 昨日の様子からして貴方ちゃんとしたもの食べてないでしょ」
「ああ、うん」
 やっと出てきた言葉は酷く単純過ぎたからなのか、それとも朝食を食べると言ったからであるのか、理由はどうであれ、雪咲は僕の声を聞いてから微笑むとキッチンに足を運ぶ。
「なにこれ、貴方コーラ、依存でもしているのかしら?」
 何気ないその言葉も、何故だか僕には嬉しそうに聞えた。


 朝食、にしては少しどうかとも思ったが、ありあわせで作られたパスタを僕らは向かい合って食べた。気を効かせてくれたのか、それとも悪戯心がそうしたのか、僕のグラスにはコーラが注がれていた。
「いただきます」
 雪咲はそう言うとフォークでパスタを丁寧に絡め取ると小さな口に入れた。それから暫く咀嚼して、ごくりと飲み込む。
「うん、それなりには出来たみたい」
「それなり?」
「私滅多に料理なんてしないから、大体失敗するのよ。やけに酸っぱかったり、水が三杯くらい欲しくなっちゃうような辛さになったり、酷い時は味がなくなってたり」
 何事もきっちりしていないと気が済まなそうだと思っていたからか、その告白が僕にはとても不思議に思えた。研究の対象から外れたものは彼女にとってはとことん苦手になるようだ。
 時々水を飲みながらさくさくとパスタを口に運んでいる彼女を見ながら、僕の目の前に置かれた皿を見つめる。
 トマトの赤とパスタの色がとても輝いて見えた。それなりに料理には手を出しているつもりなのだが、こんな見栄えの良いものは作ったことはないかもしれない。
「昨日は、ごめん」
「何もなかったから良いじゃない。私意外とそういうの気にしないから平気よ」
「でも、何かあったら」
「その何かがなかったから良いって言ってるのよ」
 彼女は呟きをすぱんと縦に割るとフォークで僕を指す。
「そう言うところ、悪いところだと思うわ」
「そういうところ?」僕は反芻する。
「泥酔してる時ひたすらに誰かに謝り続けてた。自分が悪いって言い続けていた。ずっと聞かされる身にもなってみなさいよ」
 パスタを食べ終えた彼女はからん、とフォークを皿に投げ込む。
「それっぽいこと言いながら、実際貴方は自分が悪いことにして全てを終わらそうとしているのよ」
 その言葉に僕はずきりする。思い返してきて、僕は一体何をしてきたのだろうかと考え続ける。
たらればを語り続けていたのは誰だ。
「自殺したのは助けてって言えなかったから」
 彼女は坦々と喋り出す。
「惨殺死体としてあがってきたのは偶然殺人鬼に捕まったから。殺人鬼が生まれたのはストーカーをするくらい執着していたから、次々と人が殺されるのは彼女たちがその子を苛めていたから」
 視界が回る。突然言われた言葉を呑み込むのに、暫く時間がかかりそうだ。
「貴方は何も関係していない」
 時間が止まった。
 それくらい、周囲がぴたりと音を止めたのだ。僕は驚いたまま雪咲を見つめる。
「もっと周りを悪く言いなさいよ」
 それから雪咲は立ち上がると、僕を抱きしめた。そうしてから背中を撫で始める。まるで赤子をあやすような、そんな感覚で彼女は僕を抱きしめている気がした。
「私は何も分からないのよ。貴方しか知らない」
 無責任な言葉を言ったとでも思っているのだろうか。僕は彼女の腕の中で目を閉じた。
「貴方しか知らないから、貴方を立てる。貴方が経験したことしか知らないから、貴方以外を否定する」
 雪咲の温かさに僕の身体の力が緩んでいくのを感じた。

「貴方は悪くないって、私が言ってあげる」

 その言葉が果たして僕は欲しかったのだろうか。それは分からない。
 けれども、その言葉を聞いて涙が出てしまったし、嗚咽と共に彼女の身体にしがみついたことは確かであって。
 僕は被害者なのだと、その時初めて言えた。はっきりと、自分は悪くないと泣き叫ぶことができた。

   ―――――

 大分落ちついてから僕は雪咲から離れた。彼女は変わらず微笑んでいたし、僕も少しだけ笑うことができた。
「まあ、少しでも関係しているのは確かなのだけどね」
 そんな冗談を言いながら雪咲は笑った。僕もつられて笑いながら、一度頷いた。
「ちゃんと終わらせるよ。それなりに関係してるからには、ね」
 今までで一番気負いのない言葉だった。
 それから僕は再び机の前に座るとフォークを手にする。
「すっかりさめちゃってると思うけど」
 雪咲はそう言うが、僕は構わずパスタをソースに絡めてから、大口を空けてそれらを咀嚼し、飲みこむ。
「うん、大丈夫。十分あったかいよ」
 すっかり冷めたパスタの味をじっくりと噛みしめながら、僕は笑った。


   つづく
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