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第五夜 復讐の果てに④

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 あの夜以降、浩介は自室に引きこもるようになった。
 悲しみや憎しみ、様々な感情が渦巻いて行き場を無くしていた。それらを内で処理することも外に発散することもできず、結果として無気力状態となった。
 バイトは無断欠勤、食事は買いこんだインスタント食品のみ、風呂にも入らず、ただ空っぽな時間を過ごしていた。
 そんな状態だったからか、ある日自室に侵入してきた男色家の中年男性に襲われても強く抵抗することをしなかった。考えることを半ば放棄していた頭は正常な思考をすることすら難しかく、美菜子の辛さを自分も体感できるのだという考えに至り、中年男性にその身体を許してしまった。
 しかし、結果としてその男に強姦されることはなかった。彼は男色家ではあるが、吸血鬼でもあったのだ。
 男が望んだものは浩介との性交渉ではなく、吸血行為だった。
「二つ、聞きたいことがある」
 男色の吸血鬼が吸血行為の了承を得ようとしたとき、浩介は一つの問いを返した。
「血を吸われた人間が吸血鬼になるっていうのは本当か?」
 男色の吸血鬼は頷く。僅かだが浩介の表情に生気が戻り始める。
 そんな浩介を見て、吸血鬼は言葉を少し付け加えた。吸血鬼になる確率は百パーセントではない、そして性交渉をしたことがない人間ほど吸血鬼化の確率が高いと。
「吸血鬼になればあんたのように人間以上の力を手に入れることができるのか?」
 自分の部屋の窓を指差しながら、浩介は二つ目の問いを投げる。マンションの五階にある浩介の部屋、吸血鬼はその窓から入ってきたのだ。
 この問いにも吸血鬼は頷いた。人間を超越した能力を有する生き物に生まれ変われる、と。「そうか」
 浩介は短い返事をすると、自分の首筋をさらけ出して相手の方へ向けた。
「なら思う存分吸ってくれよ。……まあ、死なない程度にだけど」



 そして、浩介は力を得た。復讐を遂げるには十分すぎるほどの力を。
 美菜子のため、そして自分のため。その復讐もあと一人殺すだけで終わるというのに。
 その復讐相手は自分が愛してやまなかった、否、今もなお愛してやまない美菜子と共に過ごしていた。二人は浩介が虐げられている動画を楽しそうに見ている。
「どうして……」
 浩介に気付いて目を見開いている二人に、浩介は茫然としながら言葉を投げかける。
「どうして二人が一緒にいるんだ」
 最初は驚いていた二人だったが、少しすると男の方が大きな声をあげて笑いだした。
「おいおい、バレちまったよ。まさか俺んとこに来るなんてな」
「ちょっと、笑い事じゃないって」
 腹を抱えて笑う男と対照的に、美菜子はバツの悪そうな表情を浮かべていた。
「答えろよ」
 肩を震わせながら、浩介は語調を強めて言う。その震えは悲しみから来るのか、怒りから来るのか、誰にも――浩介自身にも――分からなかった。
「ほら、こんな怒ってるよこいつ。ははっ」
 男だけは浩介が憤怒に震えているように見えているらしく、彼を馬鹿にするように先ほどよりもひときわ大きな笑い声をあげた。
 が、その笑い声はあっという間にうめき声へと変わる。
「答えろと言ってるんだ」
 浩介は一瞬で男に詰め寄って彼の喉元を左手で掴んだ。その怪力で万力のように締めあげられ、男は呼吸も満足にできなくなっていた。
 浩介は自分が思っている以上に力を込めていることに気づかず、ただひたすら男に「答えろ」と連呼する。呼吸もままならない状態で答えられるはずもなく、男は浩介の腕に爪を立てて抵抗することしかできなかった。だが、その抵抗もだんだんと弱くなっていく。
「やめてよ!」
 男の力が抜けていくのに気付き、美菜子は浩介の腕を掴んで男から引き離そうとする。
「なんで君が止めるんだよ」
 なぜ美菜子は恋人だった自分ではなく彼女を凌辱した男をかばうのか。浩介には理解できなかった。無意識の内に手に込めていた力が増す。
 美菜子はソファに置いてあったクッションを手に取ると、浩介の顔面に投げつけた。
「なあ、美菜――」
「警察呼ぶわよ!」
 美菜子は携帯電話を取り出し、それを浩介につきつけた。
「なんで警察を呼ぶんだよ」
 事情を飲み込めないまま美菜子から悪者のように扱われ、浩介はこのままどうしていいか分からなくなった。
 混乱によって腕の力が抜ける。男が浩介の手を自分からひきはがし、そのまま蹴りを入れて突き飛ばした。
「警察……救急車……」
 男は出血が止まらない首を押さえて荒い呼吸を繰り返しながら美菜子に指示する。彼女もそれに頷き、携帯電話を開いた。
 だが美菜子がボタンを押すよりも早く、浩介は風のように彼女に肉薄し、携帯電話を取り上げた。
 美菜子はガタガタと震え、やめてと何度も何度も口にする。浩介はなぜ彼女が自分に対してここまでおびえているのか理解できなかった。
「この野郎!」
 浩介の後ろから怒声。振り返ると男が手に包丁を持って浩介に突進しているところだった。
 まず浩介は美菜子を突き飛ばして自分から離れさせる。そして男の動きを観察し、軌道を読むと同時に回避行動に移る。男の単調な攻撃は少し身体の位置をずらすだけで簡単に――吸血鬼にとっては、だが――対応することができた。
 男は避けられることに気づき、包丁を向ける位置を修正しようとするが、その時すでに浩介はカウンターの動作に入っていた。刃が浩介に突き刺さるよりも先に、拳が男の顔面に叩きこまれる。
 骨が砕ける音、包丁が床に落ちる音、男が倒れる音が順に部屋に響く。少し間をおいて、美菜子の絶叫がそれらに続いた。
 復讐を終えたのに、憎かった三人を殺したのに、浩介の心は晴れなかった。不可解な現状の説明をまだ聞かされていないからだ。何故、美菜子はここにいるのか。何故、美菜子は奴といたのか。
 拳に付いた血もそのままに浩介は美菜子へと向き直る。
「邪魔者はもういない。だからさ、全部話してくれよ」
 美菜子に歩み寄ろうと一歩踏み出す。しかし、美菜子は小さな悲鳴を上げると腰を抜かした状態で失禁した。
「ごめんなさい!」
 美菜子の口から飛び出したのは謝罪だった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「謝るよりも先に説明してくれ」
「全部、全部あいつが悪いのよ」
 美菜子が床に倒れて動かなくなった男を指差す。
「あいつが……あいつらが、あの夜の後も私のところに来て動画をバラまかれたくなかったら俺らと付き合えって……」
「嫌々付き合っていたの?」
「そうなの、嫌々だったの……だから、ね」
「じゃあ何であの男を庇ったの?」
「それは……」
 美菜子は言葉を詰まらせる。彼女が次の言葉を探し終えるよりも早く浩介はたたみかける。
「それに、あの動画ってさっき君が見ていたやつだろう。あれには僕しか映ってないじゃないか。なんで君がその動画で脅されなきゃならないんだ?」
「それは浩介の――」
「僕のみっともない姿を誰にも見せたくなかったから? じゃあ何故あいつと一緒にその動画を楽しそうに見てたんだよ」
 再び美菜子は言葉を詰まらせる。
「頼むよ、納得いくように説明してくれ。でないと……」
 でないと、この復讐の意味がなくなってしまう。その言葉を飲み込み、浩介は美菜子の言葉を待つ。
「お願い、信じて」
 返ってきた言葉は浩介が望むようなものではなかった。浩介は説明を求めている。しかし美菜子は説明なしで自分を信じろと言う。
「浩介、信じて。あなたの恋人である私を信じて」
 ああ、信じたい。君を無条件で信じたいとも。浩介は心の中で強く思う。だが、つい先ほど見た光景が信じたいという気持ちの邪魔をする。
 全てを見なかったことにして美菜子を信じられたらどれだけ楽だろうか。憎かった三人の男は消え、また二人であの夜以前のようにやり直すことができるかもしれない。ただ一言「信じる」と言って彼女を抱き締めれば、それだけでこの苦しみからも解放される。
 美菜子は泣き腫らして真っ赤になった目ですがるように浩介を見つめる。彼にはその姿がこの世のどんな人間よりも弱い存在に見えた。彼女を守ってあげられるのは自分だけなのではないか。自分は彼女を守ってあげなければならないのではないか。
 浩介は両手を上げてゆっくりと美菜子の方へと伸ばしていく。その矮躯をそっと抱きしめるために。浩介はもう自分が吸血鬼であるということすら忘却していた。
 だが、美菜子の身体に触れる直前に浩介の手は動きを止めた。彼の聴覚が玄関の扉が軋む音を感知したのだ。それは浩介でなければ聞き取れないほどの微音だった。
 不審な訪問者だった。美菜子は気付いていないようだったが、浩介の意識は完全に目の前の彼女よりも謎の訪問者に向かっていた。
 足音はないが気配がこちらに近づいてくるのが浩介には感じ取れた。ここまでかたくなに気配を消すのはなぜか。家主の知り合いということはないだろう。考えた結果、浩介は美菜子から離れて立ち上がった。廊下にいる訪問者……否、侵入者は恐らく――
 廊下からこの部屋につながる扉が開く。現れたのは黒いコートを纏った男。その手には銀製のナイフが握られていた。
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