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海と兄ちゃん

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海と兄ちゃん


 海は広い。どこまでも続いている。
 とてもこわい。
 それなのに私は、どうして私は、こうして泳いでいるんだろう?


 家から海までは自転車で五分。急坂をノーブレーキで駆け下りる快感。
 もちろん、行きでは私の味方だった坂は、帰りに牙を剥く。疲れで重くなった身体には辛い負荷だ。だけどもう慣れた。辛さの限界点を知ってしまえば、あとはそれを乗り越えるだけだから。
 私は自転車が好きなのかもしれない。本当は、海で泳ぐより自転車が好きなのかも。


 家に着いた。早くお風呂に入りたい。
 家に上がった。居間で座っていたのは、久しぶりの兄ちゃん。
 今日から夏休みだって、ばあちゃん言ってたっけ。東京へ行ったからだろうか、少し顔が変わったような気がする。
「…お前、まだ海行ってんのか?」
「そうだよ」
「…まぁ、どーでもいいけど」
 兄ちゃんは言いたいことを言わず含みを残すタイプだ。だけど、言葉に出さなくても残りの部分が伝わってるって、はたして気づいてるんだろうか? 時々すごくおかしく思う。いとおしく感じる。私を心配してくれてる。
「気をつけて泳いでいるよ。だから」
 お父さんとお母さんみたいには、ならないよ。
「"だから"なんだよ?」
「…なんでもなーい。あたしお風呂入っから! ばあちゃん風呂わいてる?」
 兄ちゃんは、やっぱり鈍いタイプの人だった。


「兄ちゃんに言ってみようかな」
 お風呂に浸かってると、私は独り言を言ってしまう。昔からそうだった。変えようとは思わない。
「兄ちゃんがあたしを心配するのは今のあたしを知らないからだ。見せてやればいい。そうすればきっと心配なくなるはず。うんうん。鉄は熱いうちに打て、だな!」
 思い立ったが吉日とも言う。問題はどうやって兄ちゃんを海まで連れてくか、だけど。でも今日は冴えている。作戦がどんどん浮かんでくる。お風呂のおかげでもあるかもしれない。どうしてお風呂の中では考えがスムーズにまとまるんだろう。いつもこうならいいんだけどな。


 兄ちゃんはじいちゃんと一杯やっている。まだ酒飲んじゃいけない年なのにな。いやまぁ、みんな未成年で飲んでるけど。むしろ飲んだことない人のほうが少ないんじゃないだろうか。
 兄ちゃんは飲むとすぐ真っ赤になる。酔うのが早い。つまりは弱い。だけど飲むと楽しくなる人だからいい。じいちゃんも久しぶりに兄ちゃんと飲むから、いつもよりずっと笑い声が豪快だ。
 素の兄ちゃんに約束押し付けるならこの時だ。敵は自ら罠にはまってくれた。愚かな、しかし愛すべき敵よ!
「ね~ね、にいちゃ~ん」
「お~はつみ~あがったかおめーも飲め!」
「飲むよ飲む飲む! だけどねその前にあたし兄ちゃんにお願いがあんの!」
「お~なんだぁなんでもいえ!」
「明日海いこーよ!」
「お~……お~」
 これはイエス。渋々同意、くらいだろうけれど。
「タカと比べて初美はつえぇからなぁ。お前日本酒でいいだろ?」
 ビールはあまり美味しいと思わない。日本酒? 最高です。


「うっし」
 水着に着替えて準備万端。あとは見せ付けるだけだ。
 兄ちゃんはムスッとした顔で私を見ている。
 兄ちゃん。あんたはすごかったよ。昔のあんたは。なにをしても兄ちゃんはすごかった。勉強も出来て、泳ぐのも私よりはるかに上手いなんて反則だと思ってた。勉強出来るなら、せめて運動音痴でいてくれよ~、って、内心ずっと思ってたんだよ。あの時までは。
 …あの時から兄ちゃんは泳がなくなって、海にもプールにも近寄らなくなった。勉強出来るけど運動しない人になった。勉強出来ない私が泳ぐのを止めなかったのは、兄ちゃんと対等でいたかったからだよ。兄ちゃんのいないプールと海。お父さんとお母さんは海で死んだけど、私はそれを自分自身とは結び付けないよう意識していた。
 でも、段々さみしくなった。兄ちゃんのいない水の中は孤独だった。あんなに好きだった海の中が、いつの間にかこわく感じるようになっていた。
 でも、今日は違う。兄ちゃんが見てくれている。今日は嬉しい。身体が軽い。どこまででも泳げそうな気になる。
 着水。手を掻く。足を掻く。手を掻く。足を掻く。息継ぎする。
 やっぱり、スイスイ進む。どこまででも行ける。手も足も力強い。
 今日、私、人生最高の泳ぎしてるはず。大丈夫、海、こわくない!
 兄ちゃん、見てる? 怖がらないで。私はお父さんでもお母さんでもないよ。
 今日は風もないし、波もない。だから大丈夫。飲み込まれたりしない。私は上手い。私は最高。私は――。ん、なんか、
 足が、ピリッと。あ、やば、これ!
 いたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイ!!
 最悪だ!
 調子に乗りすぎた。力を入れすぎた。身体が軽く感じたからって力を入れすぎた!
 足が掻けない。沈んでく。身体が。
 飲み込まれる。ああなってしまう。
 お父さんとお母さんみたいになってしまう!
 身体が震える。寒い。こうやって、どんどん冷えていって、そして、その先は……
 泣いた、叫んだ。苦しくなった。
 ああ、もう。
「この、バカ!」
 声が聞こえた、気がした。
 兄ちゃんが私の手を掴んでいた。どうして? 決まってる、泳いできたんだ。あの距離を一気に。
 兄ちゃんは口を真一文字に結んでいる。ただ、目だけが熱い。「この、バカ!」そう言っている。
 兄ちゃんは私が思うほど鈍感じゃないのかもしれない。なにも言わなくても伝わるってこと、少なくとも知っている。
 兄ちゃんは私を抱いて水面まで上がった。瞬間、思い切り空気を吸った。生きている。
 私、生きてる。
「…この、バカ!」
「うおっ口で言った」
「なに言ってんだおめぇ! だからイヤなんだ、海は!」
 兄ちゃんは泣いていた。私は、兄ちゃんに酷いことをしたのだと気づいた。あんなに避けていた海に、私が無理矢理近づけた。
「…ゴメン。でも、ありがと」
「あぁ?」
「助けてくれたもん。兄ちゃん、全然なまってないじゃん。スゲー速い」
 私はやっぱり、兄ちゃんには敵わない。兄ちゃんはため息をついた。
「…もうイヤなんだ。だってさ、俺、お前が死んだら、どういう顔で葬式やっていいかわかんねぇし……」
 お父さんとお母さんの葬式の時、兄ちゃんは涙を堪えていた。私が泣きまくってるときにも、歯を食いしばって堪えてた。
「でも、お前、楽しそうだった」
「うん。最近海がこわくなってたけど……でも、やっぱあたし好きだなって。少なくとも、自転車扱いでるより、楽しいなって思う」
 兄ちゃんは、フッと笑った。諦めたような顔だった。笑っている気がした。
「好きにやれよ。ただし、調子に乗りすぎないように」
 兄ちゃん。あんた、鋭いね。
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