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霧乃さん。

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霧乃さん。


 ある町に霧乃透子という珍しい名前の中学生がおりました。霧乃さんはその名のとおり、
あらゆる部分が他人からとても見えづらく、幼稚園から小学生の時分にはいつも悲しい思
いをしていましたが、中学生にもなればさすがに自身の性質にも気づき、随分その境遇に
も慣れていました。
「次、この問題……霧乃さん、分かりますか?」
「センセー、霧乃さんいないっす!」
「いないことはないでしょう、見えにくいだけです。霧乃さん、答えて下さい」
「ハイ、この時主人公は、とても切ない気持なのではないかとわたしは思いました。自分
の好きな人に振り向いてもらえず、それどころか存在を認識されてさえいないという現実
に打ちのめされそうになりながらも強がり、その結果「大丈夫だ、問題ない」という言葉
が湧いて出てきたのではないでしょうか。わたしはこの主人公はとても強い心を持った人
なのだと思いました」
 霧乃さんは、小説の主人公に自分を重ね合わせたいと思いつつも、でもやはり自分なん
かを比べるのはあまりにもおこがましいのではないか、わたしより不幸な人など幾らでも
いる、この小説の主人公もそうなのでは、という思いが消えず、結果としては「とても強
い心を持った人」(わたしとは違い)と結論づけ、国語教師に認められ、席に着いたので
した。
 霧乃さんの声はその存在と同じくして小さく、耳をそばだてていた国語教師以外は聞き
取ることが出来ませんでした。


 霧乃さんはその名のとおり、他人からとても見えづらく、損ばかりしてきた、という歴
史がありました。数少ない友人曰く、気分が特に落ち込んでいるように思える時は、身体
全体がまさに霞ががっているように見え「冬の夜の碓氷峠みたい」と評されていました。
 見えない見えない見えない見えない。数え切れないくらい様々な人から言われているう
ち、見えないなら何をどう頑張っても結局ムダだろう、努力も見えないんだから、とどん
どん陰気な性格になっていった霧乃さんでありました。


 霧乃さんは上履きを隠され、とうとうこの身以外も隠されてしまったかと自嘲しながら、
我が心のオアシス、北校舎3階の図書室へと歩みを進めていました。
 この程度ならイジメとはとても言えない。見えにくい分実際に身体を痛めつけられるこ
とが少ないし、マシなのかも、と思いながら、空しく笑っていました。
 もし、自分が他の人と同じく、誰からも存在を認められる人間であったならば、見えに
くい人間など同じ人間とは認めないだろう、という確信は持っていました。わたしが普通
の人間ならば、そんな半透明人間を気持悪がり、駆逐したがるだろう――そう自身の境遇
に納得さえできるようになっていました。
 わたしは嫌われて当たり前。何の因果か、見えにくいのだから。
 なんで見えにくいんだろう。
 なんでわたしだけこんな目に遭うのだろう。親兄妹皆わたしと違って見えているのに。
 今は泣いちゃダメだ。泣いても仕方がない。泣いたところでそれを分かってくれる人は
誰一人としていない。
 見えないんだから。
 そんな霧乃さんに、声を掛けてきた男子がおりました。図書室の前でずっと待っていた
風の少年でした。背は霧乃さんと同じくらい、そしてどうやらクラスメートのようでした。
「霧乃さん……少しいい?」
 霧乃さんは敢えて言葉で表現せず、頷きました。男子は階段をのぼって行きました。


 階段の先には屋上しかありませんでしたが、数年前に発生した自殺を恐れてか、屋上の
鍵はずっと施錠させられたままでした。男子は屋上へ続く扉を背もたれにして、話し始め
ました。
「霧乃さん、ワザとなんだろ」
「ワザとって、なにが?」
 霧乃さんには本気で分かりませんでした。男子の言わんとしているところが読み取れな
いのです。
「というか、あなた名前は?」
「え、知らないの……」
 男子は、心底残念そうな顔をしていたので、霧乃さんもさすがに申し訳ない気持になり
ました。
「いや、あの……同じクラスの人だって覚えてはいるんだけど……名前は覚えてないの、
ゴメンなさい」
「いや、それは……あるよね、ウン、俺も未だにクラスで名前覚えてない奴とかいるし。
ハハ」
 男子は愛想笑いをしました。本当に申し訳ない、と霧乃さんは思いました。
「出席番号23番、羽柴正隆。霧乃さんは、俺のことなんか気にしたこともないかもしれ
ないけど……俺はずっと気にしてた」
 霧乃さんの心が、ほんの少し弾みました。
 これはあれだ、もしかしたら、告白というやつではない?
「霧乃さんのこと、教えて欲しい。もっとあんたのことが知りたい。見えにくい理由とか、
どうすれば見えるようになるのかとか……」
 あ、勘違いだったかも、と霧乃さんは乾いた笑いを浮かべました。
 この羽柴くんという人も、結局わたしに好奇心を抱いているだけだ。怪しげな肩書きを
誇る自称学者や仕事にあぶれていそうなセラピストと、何も変わらない。
 この人はわたしという存在自体が気になってるだけだ。そうに違いない。
「こないだ、俺、図書室で霧乃さんの顔見たんだ。完全に見えてた」
「えっ」
 霧乃さんは驚いた。意表を突かれた。
 まさか学校内で自分の顔が完全に見られているとは――。
「すごい可愛いと思った。笑ってて。笑顔が可愛くて。他の奴らは霧乃さんのこと、イン
キだ、バケモノだって言うけど、俺はマジで霧乃さんって可愛い人なんだって気づいた。
それまでは俺もどっちかってーと悪口言う方だったけど……今はそんな奴らをぶん殴って
る」
 前言撤回。これはもしかしたら、本当に告白というやつではない? 霧乃さんは人生で
一番ドキドキしていました。昼食のフィッシュサンドも胃から戻ってきそうでした。
 ああ、そうだ、こないだすごく面白い本に出逢ったんだ。図書室で。心から、久しぶり
に笑えた。そんな時、心の霧まで一時的に取り払われたのかもしれない――。
「上手く言えねぇけど……霧乃さんに笑って欲しい……笑って……ウチの部のマネージ
ャーになって欲しい!!」
 霧乃さんの顔を覆っていた霧が晴れました。あまりに予想外なことがあっても、そうな
るんだ。知りたくないことを知りました。
「万年一回戦負けのウチの野球部も、霧乃さんの笑顔の応援があればきっとモチベーショ
ン上がって、勝てるようになると思う! だから助けてくれ! 頼む、ウチを救ってく
れ!」
 いや、チアとか頼らないでお前ら練習がんばれよ! 最終的にはチアがどーこーよりど
んだけ練習したかだろ!? 自分らの努力不足実力不足を他の要因に置き換えてんじゃな
いよ!! そう心の中で叫びながら、霧乃さんは言いました。


 結局、霧乃さんは野球部のチアリーダーを務めています。
 対戦校からは、「あの顔の見えないチアはなんなんだ?」と常に疑問をもたれ、そのせ
いかは分かりませんが、集中力を欠き、そこを突かれて敗北する、という展開を何度とな
く繰り返していました。野球部のメンバーは霧乃さんにとても感謝してくれました。
 霧乃さん自身は、それに何も満足してはいませんでした。
 いつか完全に自身を纏う霧が晴れ、一人の人間、一人の女として見られる日が訪れるま
で、戦い抜こうと決意していました。
 とりあえず、本当に面白いと思える本に出逢おうと思っていました。あの時の羽柴くん
の言葉が事実であるなら、突破口は本にしか見出せなかったのです。
 どんどん本を読もう。そしていつか、完全に霧が晴れたら、女として恋愛の一つや二つ
はしてみよう。
 霧乃さんの見えない心は、静かに熱く燃えていました。
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