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   17年前

 とある雨風の強い晩のこと、窓の外では風に煽られてマロニエの並木が今にも倒れそうになっているのが見えた。こんな日にここまで天気が荒れているとは、間が悪いことだと嘆きたくもなるものだろう。
 シュバイツアー博士が静かに部屋に戻ると、パレ・ドゥ・ダンジュの守護を任されているはずのホイットロー騎士団長とカールスタイン伯爵の姿を見るとその背後に佇んだ。
 彼らは居間のソファに対席して、大事な一報を今か今かと待っていた。
「無事、産まれるのか?」
 騎士団長が静まらぬ様子で尋ねる。
「ええ、神託の通りになるでしょうな」
 カールスタイン伯爵が寂に答える。
「双子で間違いないようです」
「それで、どちらがラ・ヴィエルジュだった?」
「まだわかりませんな」
「わからないじゃないだろう。どちらかがそのはずなのだ」
「心配ございませんよ、ホイットロー公爵様」
 シュバイツアー博士が物柔らかな声でなめらかに言った。騎士団長はびくっと身体を痙攣させ、振り向く。
「君か! ぎょっとしたぞ博士」
 白髪交じりでありながらもまだ衰えを見せぬ雄渾な顔を向け、騎士団長は言った。
 シュバイツアーはいつも思うのだが――この騎士団長は戦の指揮を取るときをのぞけば、とても神経質にも見える。パレ・ドゥ・ダンジュの宮殿騎士団の長ともあろう者が、剣さえも持たぬ一介の町医者ごときを怖がるとは皮肉なことだ。
 彼は笑みを隠し、ランプの明かりが届かぬ陰から出、ふたりに近づいた。
「申し訳ありません。私は後ろにいるのをご存じだと思ったものですから」
 騎士団長が気忙しい笑い声を返す。
「カールスタインに持ちかけた話のせいかもしれないな。私もできればこんな事は早く済ませたい。こいつの嫁もとんでもない事をしてくれたものだ。よくもお前もこんな不貞を許す事ができるものだな」
 カールスタイン伯爵が答える。
「陛下がお気に召したのなら、私の妻ミリアムはとても良い女だったという事でしょうな」驚かされたことにこの伯爵、自分の妻が自分の留守の間に陛下と寝て、その子供を身籠もったことに機嫌を損ねるどころか誇らしげに思っているらしい。
「寛容だな」騎士団長が言った。「もし陛下の子という状況でなければ、私なら我が愛剣コルヌエトワールの錆にしてくれるものだが」
 それが普通の反応と言う物だろう。妻の不貞を許すどころか、あきれたことにラ・ヴィエルジュを産むために妻を贄として扱うのだ。
 我が子がラ・ヴィエルジュになる方法など他にもあるというのにこのカールスタイン伯爵という男は自分の血が繋がっていない子でも良いと言うのか。
 まったく、貴族は本当に権謀術数でしか動こうとしない、シュバイツアーはふと思った。
「それで、ラ・ヴィエルジュは。無事に降誕されたのかね、博士?」
 騎士団長が尋ねた。
「産まれたばかりですからね、助産婦が身体を清めているところですよ。まもなくわかることでしょう」
 騎士団長は怖じ気づいたように視線を落とし、自分を落ち着かせるように両手を強く組んだ。
「早くしてくれ、時間がない。もし、産まれてくる子供が神託の通りに新たなラ・ヴィエルジュであるなら、今我々がしようとしている事は我々以外に知られてはならないのだ」
「承知しております。この国に陛下以外のラ・ヴィエルジュが降誕されることになります。神託では双子の内一人が、新たなラ・ヴィエルジュとしてパレ・ドゥ・ダンジュを導く光となる。もし、ヴィエルジュの性徴を持つ子が産まれたなどと耳にされようものなら、カールスタイン伯爵の血族は陛下によって根絶やしにされかねません」
 当のカールスタイン伯爵と言えば、「楽しみですなあ。我らの血族からヴィエルジュの奇跡でこの国を統べるかもしれぬ者が現れるかと思うと……」と相変わらず落ち着いた口調で言うが、口元に浮かべた笑みは興奮冷め止まぬ様子だ。
 騎士団長がそれに口を挟む。
「名目では私の子になるが」
「しかし、ホイットロー公爵様もよくこんなことを思いつかれるものです。すり替えだなんて……」
「陛下はまるで年頃の女のように繊細でありながら鋭い勘がある。とても用心深いのだ。こうでもせねば欺くことも難しいのだよ、博士」
「これは、アシュタロスとエリゴールが我々に与えてくれた奇跡でしょうな」カールスタイン伯爵が口を挟む。
「我が妻ミリアムが一時とはいえ陛下に寵愛され、陛下の子を身籠もったのですからな」
「そして私のメアリも同じ頃に子を授かった」
 メアリとは騎士団長、つまりホイットロー公爵の事実上の第二夫人だった。パレ・ドゥ・ダンジュの鞣革屋の実力者の娘ではあり、身分の差で第二夫人とは認められなかったが、公爵は側妾として彼女を溺愛している。
「産まれてきた双子の内、ラ・ヴィエルジュの子だけを私が引き取る。そしてその子をメアリが産んだ事にするのだ。双子が産まれなければ、陛下がカールスタインの妻の懐妊を気に掛けることもあるまい」
「それでは、本当に彼女が産む子はどうするのです? まさか流産させる訳にも――」
 シュバイツアーが言葉を言い終える前に、部屋のドアがコツコツと、二回、打ち鳴らされた。
「おや、どうやら終わったようですね」
「それで、どちらの子がラ・ヴィエルジュなのだ」
 助産婦が揺籠から男女の双子の内男の嬰児を抱き上げ、騎士団長に渡す。
 その嬰児の股ぐらを見、手のひらの上でひっくり返してその小さな背中を見て、騎士団長は満足げに頷く。
「間違いない、肩胛骨の両方に赤い痣がある。この子がラ・ヴィエルジュに違いない。カールスタイン、これを持って私の屋敷へ行け」
「仰せのままに」
 カールスタイン伯爵は、騎士団長の手から銀色の液体が入った小瓶を受け取ると部屋を出た。
 厩に向かったようで、駿馬の駆ける蹄の音が遠ざかっていくのが聞こえた。
「何故、カールスタイン伯爵様をお屋敷に?」
「今から、メアリは出産するのだよ」
「どういうことです? まだ陣痛も規則的になっていない、メアリさんは出産するには時期が早いですよ」
「何を言っているのだ。本当に出産する訳ではない、出産したという事実がここにできるだけだ。実際には産まない、むしろその逆だ」
「まさか、流産させるとでも言うのですか」
「そのまさかだ。メアリには水銀を飲ませるのだ。医者の君ならば、巷で行われている堕胎の方法くらい知っているだろう」
「なんてことを! そんなことをすれば胎児だけではない、母親も死んでしまうでしょうに」
「それならば、メアリはラ・ヴィエルジュを産み、死んだ。そういうことになるだけだ、博士」
「馬鹿げている! 医者の私がそんな事を聞いて黙って見過ごすとでも思っているのですか!?」
 騎士団長は言った。
「大丈夫だ、博士。君は黙っていてくれる」
 腰に下げた剣の柄に手を掛けたのが見えたかと思うと、シュバイツアー博士の胸に鋭い痛みが走った。騎士団長の一刹那の突きが、博士の心臓を貫いていた。
 その凄惨な光景を目の当たりにして助産婦が叫び、その場から逃がれようとするが、騎士団長の軽捷な剣捌きによって敢え無く後ろ首から喉へと貫かれ、叫び声を上げることさえできぬようになった。
 博士は食道から熱いものが逆流して込み上がってくるのを感じると、床に崩れ落ち口の中の多量の液体を吐き出した。
 つんとした酸の臭いと鉄の臭いが部屋を覆い、滴り落ちた吐しゃ物と血液の混じった赤黒い液体は床を広がっていく。
 コルヌエトワールと名付けられた刺突剣に付着した博士の血を拭いながら、騎士団長は言った。
「君と君の助手は喋るための口を持たなくなるのだからな」
「ホイットロー公爵……あなたという人……は……」
「あとはメアリが死ぬだけで、真相を知るのは私、カールスタインとその妻ミリアムの3人だけになるだろう。野望の前には犠牲はつきものだからな。犠牲となってくれることを感謝するよ、博士」
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