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お題②/トロンプ・ルイユ/ジョン・B

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 初めて訪れた絵画展で、生まれてこの方、異性の手を握った事もない僕に、微笑みかけた綺麗な女性。
 彼女が教えてくれた、忘れられない話がある。


 知り合ってから数週間後、一つの傘に二人で入って訪れた、閑散としている美術館。
 遠くで奏でられたような雨音と、時折、コツ、コツ、と、鳴る足音が館内に響いている。
 白い壁が精神世界を思わせるような、時間の流れが遅いその空間で、彼女の声が微かに聞こえる雨音を静かにかき消した。
「あなたには、この絵に何が描かれてるように見えるかしら」
 肩を並べて立ち止まった前には、上から葉の生い茂った枝が迫り出しており、下側に描かれた凹凸の激しい地面に、色の少ない小さな鳥が一匹。上手いとも下手とも思える油絵が飾られている。
「小鳥、だね」
 見たままの印象を口にした。
「そうね、小鳥の絵に見えるわ」
 一歩前に出た彼女の細く白い指が触れる直前まで絵に近づき、
「でも――」
 魔法をかけるように、上から下へ緩やかに曲線を描いて滑る。
「よく見ると、女性の横顔も見えない?」
 彼女の指先を追っていた視覚は、木々を目と髪に変え、地面を輪郭にし、小鳥に鼻の役目を与えた。
 ――あぁ、騙し絵か。
「こういう騙し絵の事を『トロンプ・ルイユ』っていうのよ」
 横に並び直しながら、先ほどまで魔法をかけていた指で長い髪を流して、そう教えてくれた。
 その声が、指が、仕草が……僕の記憶に彼女を留めている。


 ある日、待ち合わせた喫茶店。向かいの席に座った彼女は、困ったような、悲しそうな顔で切り出した。
「絵を、ね……絵を買って欲しいの」
 彼女の勤める美術店の経営が苦しくなり、商品を少しでも多く売らないといけないらしい。
 まるでドラマや映画で描かれる壷やラッセンの絵を売る詐欺組織のような話だ。
 普通なら、騙されているのではないか、と、考えるだろう。
 けれど、僕は彼女を信じている。彼女になら……騙されてもいいと思っている。
「あまり高価なものは買えないけど、いいかな?」
 渡されたカタログには、小さな文字で説明が書かれている商品の写真がずらりと並んでいた。
 絵を見る事は好きだが、価値も良し悪しも分からない。
 それでも、その中で一枚。好みの絵を見つけた。
「じゃあ、これを――」


 また美術館に向かう中、差した傘に彼女は居ない。 
 僕の元に残ったのは、なんの変哲もない、小鳥の描かれた絵。
 知りたい事が一つだけある。
 この絵も『トロンプ・ルイユ』というのだろうか――

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