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お題②/先生が教えてくれたこと/蝉丸

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 私の荷物を段ボールに詰めると六畳一間の部屋はがらんとしてしまう。ささくれ立った畳と所々が崩れ落ちた繊維壁。ぴたりと閉まらない窓の外では小雨が降っていて、隙間から吹き込んだ雨が、黒く朽ちかけた木の窓枠を湿らせていた。
「何だ、荷物そんだけか」
 私はダーリンの声に振り返った。グッチのスーツに身を固めた恰幅のよい三十代半ばの強面兄さん。出口のない蟻地獄から私を救い出してくれる王子様だ。右手の指には煙の立ち上る煙草を挟んでいる。私はその手を取って口元に近づけると、驚いた様子のダーリンを尻目に煙草を咥えて煙を吸い込んだ。グロスを塗った唇がダーリンの固い指に触れる。ニヤつくダーリンに私は満足感を覚えた。
「持っていくものなんてほとんどないよ。ゴミばっかりだから」
 煙を吐きながら答え、窓から外を眺める。雨の中には私の古い王子様である『先生』が傘も差さずに立ち尽くし、こっちを見ていた。白いランニングシャツと灰色のスウェットズボンという情けない格好で濡れ鼠になっている四十を過ぎた男。髪が額に貼り付き、黒ずんだ乳首が透けているのが痛々しい。あんな男に人生を預けていたかと思うと、背筋が凍る思いだった。
 田舎の女子高生には、東京から来た知的な先生が物珍しかったのだ。あんなに白衣の似合う先生をそれまで見たことがなかったから。私は先生に懐き、四六時中くっついていた。今にして思えば、いい年をして独身だった先生は、あまりちやほやされた経験がなかったのだろう。だから私はいとも簡単に、特別な存在として受け入れてもらえたのだ。
 子供ができたと伝えると先生はあからさまにうろたえ、私の将来のために堕ろすべきだと繰り返した。何も知らないあの頃の私は、先生に従っていれば間違いないと思っていた。手術の翌日、誰もいない放課後の理科室で、私は先生の胸に顔を埋めて泣いていた。心配事がなくなったせいか、先生はとても優しく私の髪を撫で、穏やかな口調でこう言った。
「細胞からできている体の組織はね、三ヶ月で完全に入れ替わってしまうんだ。君もすぐに大人になる。だから泣かなくていいんだよ」と。
 段ボール二箱に収まってしまった荷物を外で待っていた引越し業者に渡し、私とダーリンは部屋を出た。先生はこれ見よがしに雨の中で立ち続けている。どうしてこんなに不幸なんだと嘆くだけのあの頃と何も変わっていない。私と先生のことがばれ、物語の主人公気取りで両親や友達を捨て、川べりの花がきれいだからという歯の浮くような理由で、故郷から遠く離れたこの町に住み始めたあの頃のまま。何も。時間の流れは先生だけを置き去りにして、ぐんぐん流れているようだった。
 不意にダーリンが雨の中に飛び出し、ずぶ濡れの先生に近づいて油紙でできた封筒を差し出した。先生は封筒を見つめてから、私に縋るような視線を送ってくる。私は激しい嫌悪感を感じ、車に轢かれた猫でも見るように先生を見つめ返した。先生は泣きそうな顔になって、ダーリンの差し出す封筒を黙って受け取っていた。
 私とダーリンはアパート脇に停めておいた黒塗りの高級車に乗り込み、今にも崩れ落ちそうなボロアパートを後にした。バックミラーに写っていた恨めしそうな顔の先生は、みるみるうちに小さくなり、あっという間に見えなくなった。
「ねえ、先生にいくら包んだの?」
「ええ? あー、まあ、二十万ばかし。手切れ金っつーか、慰謝料っつーか……」
 悪戯っぽくダーリンに尋ねると、予想外に真面目な答えが返ってきたので、思わず目を伏せてしまった。
「そんなの必要ないのに」
「こういうのはケジメの問題なんだよ。言っとくが、お前を金で買うとかいう話じゃないからな。それなら二十万ぽっちじゃぜんぜん足りねぇ」
 私に気を遣うダーリンの優しさが嬉しかった。記憶の中の先生の顔が、どんどん薄らいで消えていく。きっと人とはそういうものなのだろう。
 だって先生が教えてくれたのだ。体の組織は三ヶ月で完全に入れ替わってしまうのだと。先生の胸で泣いていた私なんて、もう、どこにもいない。
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