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一日目! その3

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不愉快の虫は腹に涌く。



臍の裏側、胃の外、時には内側にも。爪を立てて掻き毟るとほんの少しだけ紛れる。しかし駆除には及ばない。
ボスリと殴れば数秒間だけ空白が生まれて、ドグリと殴り込めば痛みと嘔吐感でそれどころではなくなるけれど、一時的な苦痛の波が引けばそれに比例してまた、虫が涌く。
一度腹に涌いた虫は、外側からではどうにもできないのだ。結果、始終腹を痛め続ける生活サイクルが定着する。直接的な攻撃だけにとどまらず、この不快感を紛らわせる為ならば何でもやる。特に下痢とかは良い。非常に良い。最高に紛れる。
不快感を苦痛によって誤魔化しているだけとの見方もあろうけれど、出せば済む程度の苦痛ならば、どうしたって手の届かない不快感に比べればまだ可愛気があるというものだ。
だから虫も食うし、腐った食物も進んで喰らう。
しかし年中腹を下しているわけにもゆくまい。つつがなく日常を送りたいと願う以上は、ちょっと人よりお腹がゆるい以上の頻度では問題が生ずる。
であるが故の、我慢と忍耐なのだ。
不眠をODでカバーし、不愉快の虫を毒で制し、その残りを、私が制す。それだけの簡単な図式はしかし、ほんの少しのイレギュラーで脆く崩れ去る程度のものだったらしい。
ああ、目の前に。
今、この精神状態で。
周囲には耳目もある。
拳を握って目を強くつむった。最後の忍耐。
三秒後、それが切れた。三秒後、残念ながら、不愉快の大本はまだ、そこに間抜け顔を晒していた。





「なに朝っぱらから、ダリィことしてるん? 言っておくけどこの道、教師とか良く通るよ?」

言った、自ら関わった、歩み寄って口を出した。
カラフルな集団の目線がそれぞれの個性をむき出しにして注がれる。目を険しく細めるものもあらば、広げて驚きを表現するものもある。そのひとつひとつはいい加減に流し見ただけでもひとつひとつで、同じものなど何一つありはしない。そういう差異のあるもの達が寄り集まってウジャリウジャリと無理やり同じようなことを出来もしないのに合わせようとしている、その気色悪さと窮屈さとほんの少しの憧憬が、これまたグチャリグチャリと攪拌されて目にチカチカと煩わしい。
出来うることならば、色違いの粘土を混ぜ捏ねるようにして、こいつらの色も凹凸も均一に押しつぶしてしまいたい。
そうすれば少なくとも、こんなに目が疲れることはないだろうに。
「え、なに誰?」「知んない」「わあ、もしかして、私たち注意とかされちゃってるんじゃない?」「ははあ、昨今はちょっと見ない立派な道端の委員長さんだねぇ」「草の根活動って感じ?」「どんなだよ、別に何にも掛かってねぇよ(笑)」「ってかさ、この人上級生じゃんか」「あー内申とか気になりだしちゃう年ごろだもんねぇ」「じゃあダメっしょ先輩、そういうのはセンセの前でやんないと点数あがんないよ」「うーわ、朝っぱらから無駄な努力御苦労さまです!」

ドッっと哄笑が沸く。

「は、は、は、は」
イラ、イラ、イラ。
昨今のガキは、余程上等な思考回路をしているらしい。ブツリブツリと音を立ててけたたましく、忍耐の緒が千切れて飛んでのたうつ蛇の如く地べたに踊る。
「まーあ? 私たちも朝のちょっとした暇つぶし程度の充足は得られたことですしねぇ?」「そろそろ行く? そういや私、日直なんよ」「えぇ、もうちょっと加納っちいじくってやんないと可哀相じゃんか、血も涙もないんなお前ら」「どっちがだよ(笑)」「ハハッ。ま、まあもういいや。なんか水差されちゃった感じだし、行こう。時間の浪費は嫌いだろ、みんな?」「サンセーイ」「それじゃあ委員長さん、ごきげんよう」「こんどはちゃんとセンセの前でキバりなよぉ」「そんじゃあな加納っち、この続きは、また今度なぁぁぁ?」

今度なんざねぇよ糞餓鬼ッズ。右手を振り上げろ。すでに忍耐という忍耐は限界をきたしている。後はこの拳を撃鉄の如く鮮烈に、火花を立てて振り下ろすだけの簡単単純作業で、この不愉快感から解放される。やっと、解放される。そんな見当違いな安心感すら抱いて、拳を振りおろし_____せない。
どうしてかというと、
拳は振り上げられてすらいないから。
堅く握られた拳は、今も元あった場所に張り付いて離れない。掴む手が、あるのだ。他の誰にも見えない、きっと私にしか見えない。間抜けで気の食わない、すでにこの世にはいない、かつて同級生だった何の変哲もない、ただの男子生徒Aでしかなかった伊藤樹とかいう名前の幽霊が、私のこの手を束縛する。
掴んで、離さない。

「まあ、落ち着きましょうよ」

これが落ち着いてなんていられるか。こんな幽霊如きに諭されているという現状も手伝って脳髄が真っ赤に染まる。何も考えずにただ、暴力に走ろうとする。
なのに、手が、動かない。私に触れられないはずのこの幽霊が、どうして私を束縛できるのだ? 理にかなっていない。おかしい。
そこまで頭が回って、理にかなっていないのも、おかしいのも、それは私自身なのだと得心するに到った。
手を振り上げないのは、私の意思。最後の忍耐、千切れて飛んだ我慢の緒の、その切れ端がささくれ立った心に引っ掛かって、絡まって。
だから私は、動けないのではなく、動かないのだ。この、意思によって、動かないのだ。

「この手を、離せ」

言外にそれを告げてみれば、あっさりと離れる半透明の、手。イライラする。
理解されないのは本当に苦痛だ、度し難い。しかしそれと同じくらい、分かったような顔をされるのも我慢ならん。こいつはそんな、我慢のならない顔で、私に笑いかけた。
「うん、余計なことしちゃったかな?」

塩! ソルト!

顔面に血液が集中する。怒りによって凝縮される。鞄を漁って常備している塩を小瓶ごと取り出して、後は貴様に。









「なあ、誰その人? センパイの知り合いなん?」

貴様以外に、誰かがいた。
そいつは、さっきまでいじめられていた、見事なまでにこう、根暗な感じのするやせっぽちな女子生徒。

そいつは、どうしたことか、幽霊に向って話しかけていた。








「なんだその餓鬼、お前が見えるのか?」
驚きと共に聞く。そんな人間(霊能関係な)、初めて見た。
「アァ? ンだテメっ! 初対面で人の事ぉ餓鬼呼ばわりたぁご機嫌にも程があンじゃねぇの? それともなにか、朝っぱらから何かキメちまってて礼儀の一つも覚束ねぇってかぁん? 痛ッ!」

とりま殴った。理由は忍耐が限界だったのと、あまりにこいつが生意気だったからだ。

「痛いぅ・・・・ほっぺひりひりする・・・・血とか出てるかも・・・ヒィィッ!」
すると存外簡単にブチ折れた。なるほど、これじゃあいじめられるわけだ。こいつにはなんかこう、加虐心を煽るオーラがある。
「ちょっとちょっと佐屋さん!? あのぉ、もう少しばかし穏便にことを運べやしませんかねぇ?」
「穏便だ? 十分、穏便じゃねぇかよ。朝一で慈善活動してみりゃ、当の被害者からあ感謝のひとつもねぇときた。そんなん、誰だって殴るけん」
「いや、まあ・・・・」
幽霊、ほんの少しばかり視線を揺らし、何か思い当たる節でもあったか生意気な後輩に目を向けて、熟考。
「まあ、殴りますけどね、うん」
「ンだこらぁぁぁぁ!!! この、この糞馬鹿幽霊テメ、テメェェェ!」

平日の、登校道の、それもラッシュ時においてこのように叫ばれてはたまらない。何事かと我々に眼を向ける有象無象の視線と視線と視線。
目の前の後輩もウザければ幽霊もウザく、意図せずして集まった視線の数々だってウザい。何もかもがウザい。グツグツと胃が泡立ち始める。全身を血のように駆け巡る不快感。叫んでかき毟って走り出して、もう線路にでも飛び込んでしまいたい衝動に駆られる。
轢死肢体ってのは、きっと凄惨なもんだろう。
今はこうして人の皮をかぶっている体の内側が、バリリと裂けて飛びだして縦横無尽だ。この、体の中に棲みついて憚らない不愉快の虫どもを、生温かくも薄気味悪い骨肉とともに豪快にぶちまけて。列車の車輪がプチプチと踏みつぶして、砂利の奥に染み込んで、そして保線員やら警察官やらに汚物の如き扱いでかき集められ、焼かれて埋められて、お終い。綺麗な最後だと、私は思う。遺族にだって迷惑かけられて一石二鳥。しかし、列車のダイヤを乱せば無辜の糞一般市民様がご迷惑を被るわけだ。まあ、そも愉快か。
どう転んでも、愉快だ。しかし、それを己が死に寄ってのみでしか妄想できぬ自分などは不愉快の極みでしかないのだが。
ああ、だから世に数多氾濫する知恵足らず犯罪者どもは強がっちゃって他殺に走るのかね? それこそ馬鹿だ、死ねば済むのに。
いや、そうか、生きたいか。人間は、生きたいか。

若干の感慨を込めて、今はもう死んだ、幽霊を見やる。

「なんか私に文句でもあんのかよっ! ああ!? 貴様の如き無知蒙昧なる腐れ幽霊の頼みを、天使と見紛うばかりの清廉さで引き受けてやった大恩をもう忘れたか、このド外道めっ! そういう態度に出るならなぁ、もうお前なんかの頼みは金輪際聞いてやんねぇぞっ! こら、聞いてんのかおい!」
「あっはっは、天使(笑)。意外にファンシーなんだね加納公害、あいや、後輩」
「ぶっっっ殺すぞマジこらふざけんなやこの腐れ半透明! お、おま、おまえはそ、そそ、そんな、私に対等がましい口で喋れる立場じゃねぇって、そんな基本的なことも忘れてやがんのか、アアオラァ!?」
「いや、いやいや勘違いめされるな、ですよ? 大丈夫です、ちゃあんと分ってますから、まあここはね、穏便にことを済ませましょう。ホラ、周りの目とかありますから、ね?」
「死ね! それか今すぐ地べたに額こすりつけて私に謝罪しろ! そのどちらも出来ないなら、あじしおで消してやる!」
「いやー、困ったなあ、その提示された選択肢のどれも厭なんですけどねぇ」
「残念だったな、最後のは選択肢じゃなくて最後通牒だ、お前はあじしおで消える」
「いやそんな、力いっぱい財布握り締めてコンビニに向かわれても、いやあ、困ったなあ。うん、わかってるんですよ? 勿論、僕は分かってるんです、ねえ加納さん?」
「なにが?」
「なにがって、そんなん、僕以上に君が分かってると思うし、そもそも君はこういうこと、人から言われるのは嫌いで、自分から気付いて変わっていくタイプじゃないっすか、ねえ?」
「日本語しゃべれや猿野郎が。もうお前は極刑だ、私が処する」

「いや、だかららさ、じゃあ言っちゃうけど、うん・・・・・僕に、味方して欲しかったんだよね?」

「糞食って死ね、そして死ね、再度死ね、飽き足らずもう一度、死ね」
「もう死んでますから(笑) うん、あのね。これだけは言っておくよ。僕はね、加納後輩、君がこの境遇にある僕にとってどんなに有用な存在であったとしても、というか事実有用な存在なんだけれども、でもね。だからって君の悪い行いを看過なんて、決してしないからね。僕は執念深いんだ、だから絶対にしない。そこは、覚えておいてよ」
「私の悪い行いって、なんだよ」「そればっかりは、他人に指摘される事柄じゃないってところに、人生の妙を感じるよね。いつどこでだれかかがなにかをしました、他人に探れるのは”いつ”と”どこ”と”だれ”まで。”なにか”だけは、それだけは主観に委ねられのさ」「あーはいはい、貴様の如き一流の食糞家様は言葉すらも糞なんな、新鮮な驚きとフレッシュな殺意ともうお前、死ね、な? 頼むからなんかもう、目の前で思い切り苦しんでのた打ち回って爆発とかしてくんね?」「あー困ったなあ。本当、君は生意気で、困るよね。まあそこはそこ、これはこれで、今は大事なことを簡潔に言うに止めるとしまして、ねえ、加納後輩」
「あんだよ」
「餓鬼呼ばわりされて、イラっとしちゃったのは分かるけど、君を助けてくれたのが彼女だという事実は、なんというか事実だよね」
「うーわ、頭悪そうな言い方だな糞脳め。だからなにさ?」


「ありがとうが、抜けていると思わない?」



「はぁ?」「いやだから、ありがとうがね、抜けていると思うんだけれどもね、僕なんかは」
「ハッ、糞食って死ね。なんで私がありがとう? どうして私がありがとう?」「え、マジで聞いてるの?」「うん」「あー、そっかぁ、マジかあ」「おいそういう目つきで人見るな腹立つ」「あースンマセンね。いや、なんかもうどうしてこんな初歩的なことを、と思わないでもないけれども、言うね。誰かに助けられました、だからありがとう。これって、道理だと思わない?」「助けを私が求めたのか?」「そんな心底聞かれると逆になんかこう、うそ寒いなあ。え、本気で言ってる?」「うん」「うーん。そうか、君はなんか、もしかして、特殊な感じの人か」「ア? なに色物扱いとかしちゃってくれてんの? 殺すぞ糞尿野郎」「いやー、困った。そうか、君は、ありがとうを知らないのか」
「だっから、なんか表層だけ掬って、それだけしか見てないのに人のこと理解した風に頷くなや! お前なんかに私が分かってたまるものか。そういうのは、心底腹立たしい。心底、だ」
「いやいやいや、表層が全てでしょう」「ああっ?」「いや、だからね、うん。クマったなこりゃ」「ああっ!!??」「ああ、いやすまない。だからさ、誰にも見せることのない、黴が生えてクモの巣張った深層なんかに、一体どんな価値があるのかって話なんだけれどもね」

「それが、一番大事なものじゃないか」「まさか、一番どうでもいいものだよ」


気に食わない幽霊と、なにやら生意気な下級生の、私にとってはどうでも良い諍いに何やら亀裂が走ったらしい。
二人互いに、異星人を目の前にしたような目つきで互いを見やっている。悠長なことだ、と吐き捨ててもいい。そのまま刺し合って共倒れしろ、と隠微な妄想も働かせてもいい。
いつか分り逢えたら素敵だな、と吐き捨てることだって、出来る。

ただ、いずれも面倒で、どこまでいっても私には無関係だから、余分。こいつらは余分。これ以上何かを背負う余裕など皆無なのだから、私はここで背を向ける。
やりたいように、やっていろ。そして好きな結論を導き出せ、もしくは決裂しろ。好きにしろ。私には関係ない。
ああ、ああ、ああ。
やはり、下手に関与などすべきではなかった。結果として脳味噌リソースに無駄ダストが増殖する。例え微小なれど、これは貴重な私だけのシェアなのだ。
誰にも譲ってやるものか。
あばよ、ばいばい。無言で去る。



その、去りゆく背中に、声が降る。




寂しげだっただろうか? 震えていただろうか? 儚げだっただろうか? 平気そうだっただろうか? 完結していただろうか? 独立していただろうか? 自信にあふれていただろうか? 前向きだっただろうか? 楽しそうだっただろうか? 充実していただろうか?
私の背中は、どう見えたのだろうか、そんな背中に。声が、降る。


「いやちょっと待ちなよ佐屋さん、いまこのコンチクショウに礼吐かせっから! マジ」
「おいなに勝手に悠悠去ろうとしてやがん!? か弱い後輩助けて英雄気分に浸って満足かい! ざけんな、舐めるな! 誰もお前になんか助けられてねぇよ待て!」





どんな背中だったか、私には知れぬ。残念ながら、眼球は前に付いている。しかし一つだけ言える事実があるとしれば、それは。
私の背中は、一人きりだった。それだけは、紛れもない事実だろう。













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飛蝗 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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