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 主人公に名前は無かった。正確に言えば、自分の名前を忘れていた。
 逃亡。もしも追っ手に捕まれば、おそらく2度と太陽は拝めないであろう極限状態において、主人公は段々と自身の失われた記憶を取り戻していった。振り返れば、相沢搭子の病室で必死に言葉を捻り出した時から、その兆候は現れていた。心の奥底に沈めたはずの不可解な感情が、吐き気と共に逆流してくる感覚。主人公はそれに耐えながら、必死に記憶を辿った。


「大事な話がある」「落ち着いて聞いてね」
 あれは確かこの町に初めて来た日の事。主人公の目の前には男と女。良く見知った顔のようだが、どうもはっきりとしない。
「今日からお前はこの町で暮らす事になる」
 男の言葉は威厳たっぷりで、普段から聞きなれていたような気がするが分からない。
「引越しって事?」
 とは、主人公の声で言われた台詞だ。自分で驚くほどスムーズに喋っている。
「いや、そうじゃない。お前だけがここで暮らすんだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。1人暮らしなんて、俺まだ中学生だし……」
 男は顔色を変えない。
「金の心配ならいらない。身の回りの世話をする者もいる」
「……どういう事? ねえ、父さん」
 記憶の中の自分の台詞に驚く。父さん? 目の前にいる男が、自分の父なのかと主人公は疑問を抱く。
「母さんもなんとか言ってよ」
 と、隣の女に声をかける。母さんと呼ばれた女は、俯きながら沈黙を守る。
「いいか、良く聞いてくれ。この町は、お前の為に作られた町なんだ。お前だけが楽しむだけにな。全てがお前の思い通りになる。ここでのお前は、神なんだ」
「は……はは。何の冗談だよ父さん」
「冗談ではない。それから、私はお前の本当の父さんでもない」
 目の前を様々な光景がフラッシュバックする。肩車された時の高い目線、一緒にキャッチボールをした時の笑顔、怒られ、ゲンコツで泣いたあの日。そして最後には、冷たく無表情な父の顔。
「今まであなたを騙していたの。ごめんなさい」
 母がそう言って、頭を下げた。父は母を抱き寄せた。
「私達は本当の夫婦だが、お前は私達の子じゃない。お前は、とある資産家の作ったクローン人間なんだ」
 記憶の声が遠のいていく。


 緑色濃く生い茂る森の中を、4つの影が駆けていた。3人はスーツ、1人は学生服。途中までは獣道を頼りに進んでいたが、それが無くなると勘を頼りにひたすら走った。磁場のせいか方位磁石がきかず、はっきり言えば迷っていた。
 先頭を行く上者名に、しんがりを勤める沢渡が声をかける。
「本当にこっちで合っているのか?」
 高峰も便乗して尋ねる。
「もしも何も言わずに撃ってきたら、私達どうなっちゃうの?」
 上者名は悠然と2人の質問に答える。
「私の勘に間違いなし。もしも撃たれたら……まあ、その時はその時でしょ」
 底なしの自信に他の3人がため息をつき、引き続き迷走を続ける。
 そのたった100m後ろを、何人かの屈強な男達が追いかけていた。
『目標は女3名と男1名。格好は、女は全員スーツで男は学生服。殺さずに捕獲しろ』
 出資者からの緊急指令が下り、町から駆けつけた追跡者達。いずれも兵士としての経験があり、戦闘のプロフェッショナルで、実弾の入った銃を携帯している。彼ら全員の胸ポケットには、逃亡時の映像をキャプチャーした1枚の写真が入っていた。高峰が主人公の手を引っ張っている写真。上者名が画面の端っこでピースしている。
 逃亡が始まってから約30分が経過していた。山の中は入り組んでいて、山の中の地図など元々町に存在しない。迷うのは必然といえた。だからこそ陸の孤島なのだ。当然、逃げ切りができる時間的余裕もなかった。
 案の定、やがて追っ手に囲まれる逃亡者達。沢渡はともかくとして、他の3人と追跡部隊の体力の差は歴然だった。
「動くな。大人しくしろよお嬢ちゃん達」
 男の1人が銃を構え凄む。上者名、沢渡、高峰の3人が学生服の1人を隠すように周りを囲み、両手を挙げる。
「いいか、大人しくその男を寄越せ」
「誰の事?」
 とおちょくるのは、やはり上者名。
「とぼけるな。そこで縮こまって震えている奴だよ」
 近づこうとする男の肩に、手がかかった。後ろから出てきたのは、追跡部隊に緊急的に配属された病み上がりの陣内千尋。沢渡はその姿を見るやいなや、反射的に挙げた手を下ろして構える。
 陣内は何も言わず、しかし戦う気は満々といった様子。
「おい待て。個人の喧嘩は後にしろ」
 と、隊長が命令したが、陣内は聞く耳を持たない。殺気立った様子を感じ取った別の男が、隊長に言う。
「何、もう確保したのも同然だ。好きなだけやらせてやろうじゃないか」
 他の隊員は、口には出さないが、沢渡と陣内の戦いを望んでいる。陣内が沢渡に敗れたのを周知の事実であったし、この再戦をいかに陣内が望んでいたかも知っていた。
 少しの沈黙の後、沢渡と陣内の戦いが再び始まった。その場にいた全員が、2人に注目する。
 学生服を着た者の正体に気づくのは、それから10分後の事だった。


 両親だと信じて疑わなかった者達からの告白は、主人公の精神に未曾有の衝撃を与えた。知りたくなかった事実、あって欲しくなかった事実。主人公は過呼吸を引き起こし気絶して、意思は混濁の中、適切な解答を求めた。
 今まで自分だと思っていた物は自分ではなかった。肉体、精神共によりどころになる部分が無い。いつも足が地についていると思っていたはずが、地面自体が突然無くなったような物だ。心の崩壊はいともたやすく訪れ、3ヶ月の入院期間の中で主人公が受けた「治療」によって、偽りの記憶を事実であると信じさせられた。主人公は、最初からこの町にいて、両親はなぜかいない。不自然極まり無い現実だったが、真実よりははるかにマシだった。
「名前が……思い出せない……」
 主人公は、手を握る高峰零月に、すがるようにそう言った。「知ってるなら教えてくれ」とでも言うような目で零月を見たが、当然知るはずがない。
「とにかく今は、空港に急ぎましょう。飛行機が迎えにきてるはずです」
 零月は主人公の手を引っ張って、なるべく裏通りを選んで進む。
「あの、いくつか聞きたい事があるんですけど」
「何ですか? 知ってる事なら答えます」
 しかし早歩きは止めず、主人公はそれでもいいと質問をする。
「あの人達はどうして残ったんですか?」
 主人公の言う「あの人達」というのは、上者名、沢渡、高峰一陽と、そして主人公に変装した相沢搭子。
「時間稼ぎです。山の中に逃げたように見せかけて、追跡部隊をそっちに引き付けています。私があなたの手を引っ張って逃げ出す所はばっちり見られているので、私の双子の姉がいれば、相沢さんの変装もバレにくくなる、という上者名さんの作戦です」
「そ、それじゃあみんなが代わりに捕まっちゃうんじゃ……?」
「大丈夫です。追跡部隊の中に私達のスパイがいます」
「スパイ?」
「はい。陣内さんです」
 陣内、主人公の命を狙いにきた女の名前だ。沢渡に撃退され、今もこうしてどうにか息はあるが、もう少しで本当に殺されそうだった。
「上者名さんが陣内さんを口説き落としました。上者名さん達が捕まっても、こっそり隙を見て逃がしてくれると思います。この町を潰す算段に乗って欲しいと言ったら簡単に乗ってきたそうですよ。あの人は、飼われているのが性に合わないと気づいたみたいで」
「この町を、潰す?」
 零月は、しっかりとした口調で答える。
「はい。脱出が成功したら、あなたには証人になってもらうそうです。あなたの遺伝子は、とある大富豪の遺伝子と同じで、その大富豪がクローンを作らせた証拠になります。いろいろな所に訴えて、大富豪を逮捕まで追い込むと上者名さんは言ってました」
 主人公は複雑な気持ちになる。初めて自分がクローンであるという真実を知った時は、嫌で嫌で仕方がなかった。だがそれによって、自分をこの町に閉じ込めた黒幕に仕返しが出来る。
 うろたえつつも、まだ聞きたい事は残っている。
「空港に来ている飛行機というのは、何者なんですか?」
「会った事は無いと思いますよ」
「高峰さんは知っているんですか?」
「はい。以前お世話になった、この町の元プロデューサーさんです」
 確かに、主人公は元プロデューサーの顔すら知らなかった。次々と出てくる女の子が、妙に統制されているので、誰かが管理をしているだろうとは思っていたが、その正体は気にもならなかった。
「上者名さんが、わざとこの町から追い出したんですよ。中から外に向けての連絡はとれないですが、プロデューサーさんなら上者名さんが最初に指示した通りにやってくれています。ポッコモコさんに与えた報酬の一部を返してもらって、そのお金で武装した飛行機をチャーターして、今日迎えにきてくれるように指示したらしいです」
「全て、上者名さんの作戦だった、って事ですか?」
「ええ、あの人は天才ですよ」
 なぜか少し誇らしげに、零月がそう言った。そして何かを思い出したように続ける。
「そうだ、謝っておきたい事があったんです。まあ、双子だった時点で分かったと思いますが、私が超能力者だというのは嘘です。ごめんなさい。言い訳になりますが、主人公さんを騙すの、私は最初反対だったんです。だけど、上者名さんからこの脱出作戦を聞いて、絶対に協力したいと思ったんです。主人公さんがもしも、この町を脱出したいと願っているのなら、全力でそれを実現したい。だから、仕方なく嘘をつきました」
 主人公が思わず手を離す。歩みを止めて、まっすぐに見てくる零月から視線を逸らす。その態度から、零月は主人公の恐怖を悟った。主人公は、人の好意に疑いを持っている。今まで近づいてきた全ての女の目的は、言ってみれば金だった。主人公を落とす事で得られる莫大な報酬。それが直接主人公に知らされていた訳ではなかったが、何度も繰り返される茶番劇で主人公は大体の事を察していた。だから、零月の一瞬見せた好意に対して、主人公は躊躇を見せたのだ。
 零月は全て分かっていた。だから、「自分は違う」と訴えるでもなく、慰めるでもなく、ただその手を主人公に差し伸べた。
「いきましょう。あなたを助けると誓ったんです」
 それからの2人は、無言で空港に向かって歩き続けた。心地のよい沈黙だった。

 空港に着陸していた飛行機は、ただの飛行機ではなく軍事用のステルス機だった。
 元プロデューサーが2人を見つけ、急ぐようにジェスチャーした。あまり時間は残されていないらしい。
 零月が主人公の手をひき、3人はステルス機に乗り込む。
「すごい飛行機を用意しましたね」
「私の金ではないからね」元プロデューサーは謙遜しつつ答え、続ける。「ところで、上者名の作戦はうまくいきましたか? 何人協力してくれました?」
 元プロデューサーは、主人公がこの町にいる真相と、上者名の作戦を聞いてこの話に乗った。しかし途中で連絡をとる事は出来ず、飛行機をここに呼ぶ日付と方法だけを教えられていたので、途中経過はほとんど知らないのだ。
「全てうまくいきましたよ。相沢さんには、ここを出てからの報酬を約束して、町を潰す事に納得してもらったし、沢渡さんは真実を知ったら協力的になってくれました」
「何から何まで上者名の言った通りになりましたね。ところで、上者名の正体は知ってますか?」
 零月は答える。
「いや、知りません」
「上者名結衣、凄腕のFBI捜査官」
「え!?」
「私も、知った時は愕然としました」
 少しの間があって、2人はくすくすと笑い出した。
 その様子を、浮かない顔で見ていた主人公に、零月が声をかける。
「どうしました? 念願の外に出られるんですよ」
 主人公は少し考え、俯きながらぼそぼそと呟く。
「外に出たら、僕は何をすればいいんだろう……」
 主人公のこれまでの生活は、まさに悪夢のようではあったが、『使命』とは無関係だった。ここにいる事を強制され、実験動物のように飼われていたのだ。外の世界には自由がある。漠然とした、無限の自由だ。
「そんなの、簡単じゃないですか」
 零月が、主人公の顔を覗きこむ。
「良い事をしましょう。誰かの役に立つ事。誰かを喜ばせる事。良い事を沢山すれば、人は幸せになれるんです」
 零月のその強い言葉に、主人公は救いを見つけた。
 それと同時に、零月の台詞で主人公の記憶ははっきりと蘇った。失われてしまった、自分の名前。主人公という定義上の存在ではなく、自分自身という確固たる記号。
 主人公の両親は、最後に罪を告白した。本来ならば、主人公は自分が「クローン」であるという事実は知らないまま、この町での生活を開始しなければならなかった。しかし主人公の両親は、上からの命令に逆らった。血は繋がっていないとはいえ、10年以上育ててきた本当の両親だ。最後の愛情は確かにあった。両親はこの町から逃げてくれと強く祈り、主人公に言った。その願いが、今日やっと叶ったのだ。
「両親が、僕に名前をくれたんだ」
 主人公はかみ締めるように言う。
「僕の名前は……」
 飛行機が飛行場から飛び立った。
 作られた町の空、1機の物々しい飛行機が飛んでいる。それを見上げた名無しの猫が、にゃあと鳴いて欠伸をした。


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和田 駄々 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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