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風の強い日のこと

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 夏休みも間近という夏の小学校でのある日のこと。
 その日は、風が強かった。

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「今日のプール楽しかったねー」
「あぢー。もう一時間プールに浸かってだいー」
「え? みっちゃんブラジャー着けてるの!? 大人だなー」
 女子更衣室は、プールの授業を終えて着替えに戻ってきた女子生徒の姦しい声が飛び交っていた。
 そんな賑やかな雰囲気の中、少女吉田は一人世界から取り残されたかのように凍り付いていた。
 今日も吉田はいつものようにプールの授業に参加し、元気よく泳ぎ回っていた。最近、なぜか見学と言ってプールに入らない女子生徒が増えてきている中、吉田はなんでこんなに暑いのにプールに入らないの? と首を傾げながら、男子に負けじとプールサイドから飛び込んで怒られるようなタイプの女の子だ。今日もプールに飛び込んで先生に怒られている。
 そんな吉田が、体をすっぽり覆うタイプのプール用タオルに包まれながら顔を青ざめさせていた。隣にいた子が体調でも悪いのかと尋ねてきたが吉田は「な、なんでもないよ!」と首をぶんぶんと横に振るばかり。
(き、気のせいよね。そうそう、気のせい。いや、見間違え。見間違え、見間違えよ。いや、見落としたのよ。そう、見落としただけよ)
 顔を青ざめさせながらも、少女吉田は自分に必死に言い聞かせる。目の前の現実を否定するかのように。いや、今の状況は悪夢と言ったほうが正しいのだろうか。
 吉田はなにかを決心するように胸の前でぐっと拳を握りしめると、そろそろと手を前へと伸ばしていく。目の前のロッカーへと。
(見落としただけよ。いやー、なに私焦ってるんだろう。見落としただけなのに。普通なくなるはずないにのにねー。見落としただけなのにねー……)
 吉田はなにかに抗うように必死に自分に言い聞かせる。そして、目の前のロッカーに収められている自分の着替えをがさごそと探っていく。そこにあるべき大切な物を探して。しかし、
(なんで? なんで? なんで? なんでパンツがないのよおおおおおおおおおおお!)
 吉田は心の中で嘆きの慟哭を上げた。本当に泣きそうな顔だった。

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 終業のチャイムと共に、職員室からいそいそと一人の男が飛び出した。
 腹を左手で押さえ、俯き加減で足早に廊下を進むその男の顔は心なしか青く染まっている。
 今朝飲んだ牛乳が悪くなっていたのだろうか。夏場はすぐに悪くなるから気をつけないと。
 教頭鈴木はそんなことを考えながらトイレへと急いだ。その途中、教頭は廊下に黒い何かが落ちているのに気がついた。
 なんだこれはと拾ってみると、なんてことはない。ただの黒い三角形の布。つまりただの黒色のパンツだった。
「まったく誰だ、こんなところにパンツを落としていった人は。って、え? パンツ?」
 教頭は我が目を疑った。なぜ廊下にパンツが落ちているのかと。教師歴三十四年目を迎えた教頭だったが、廊下でパンツを拾ったことなど教師人生の中で一度も経験したことがない。
 いや、なにかの見間違えかもしれない。最近うるさくなったPTAや教育委員会の会合にかかずらっていて少し疲れているのかもしれない。
 そう思って、改めて自分が握りしめている物に目を落としてみるが、やはりそれは黒色のパンツであった。
「なぜ廊下にパンツが……」
 自然、あてどない呟きがこぼれる。うーむと首を捻り、教頭はもう一度じっくりとパンツを観察する。
 どことなく色香が漂うような黒色のパンツ。全体にあしらわれている花を模したステッチが一層淫靡な香りを強めている。それに、普通のパンツより布面積が小さいような気がする。
「これは……一体誰のパンツだ……」
 教頭はパンツを両手で広げて持ち、頭を悩ませた。こんなアダルティなパンツは一見して生徒の物ではないと分かる。しかし、だからといって教職員の中にこのようなパンツを履いていそうなフェロモン溢れる先生は教頭には思い当たらない。
 ふと、教頭は自分の手に持っているパンツにある違和感を覚える。
「このパンツ……小さくないか?」
 よくよく見てみると、この黒いパンツは大人が履くにしては少し小さいような気がしてならない。布面積が、ということではなく、サイズ自体が小さい気がするのだ。
「まさか、生徒の物なのか……?」
 いや、まさか。と思う一方で、このパンツが生徒の物だと考えれば色々と納得できるのもまた事実だった。常識的に考えれば、大のおとなが廊下にパンツを落としていくなどありえない事だろう。しかし、腕白な子供であれば何かの拍子にパンツを廊下に落としていくというのも考えられない事も……ないだろう。と教頭は思う。まあ、そんな生徒見たことも聞いたこともないのだが。
「つまり……このパンツは生徒の物なのか……」
 最近の小学生は大人びているんだなぁと、教頭はしみじみと実感した。このような大人が履くようなエロスなパンツを小学生が……そう考えると教頭の頬が自然と緩んだ。にやりと。
 いかんいかん。教師歴三十四年。真面目一筋で通ってきた自分が一体なにを想像しているんだ。教頭はぶんぶんと頭を振って己の邪念を打ち消した。
「はて、私は一体なにをしに廊下に出てきたのだっけ?」
 邪な想像を頭から締め出し、教頭は改めて自分が廊下に出てきた理由を思い出そうとした。すると、お腹ぎゅるると不快な音をたてた。そうだ、トイレに急いでいたんだ。
 教頭は、取り合えずパンツは後で落し物に届けようと考え、急に催してきた便意に急かされるようにトイレへと向かった。無意識の内に……かは分からないが、パンツをスラックスのポケットに入れて。

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「なんでどこにもないのよぉ……」
 女子更衣室に悲しげな少女の呟きが響く。
 少女吉田は、他の生徒が教室へと戻った後も、独り更衣室に残り自分のパンツを捜索していた。更衣室の中を隅から隅まで探し、他の生徒が使用していたロッカーの中も調べてみたのだが、しかし自分が履いていたパンツを見つけることはできなかった。
 これだけ探して見つからないとなると……推測できる事はそう多くはない。吉田の中で一つの疑念が生まれる。
 悪意ある誰かの手によって隠されたか、もしくは捨てられたとしか考えられない。
 しかし、と吉田は思う。自分はそれほど他人に恨みを買うような性格はしていないと思っている。それに、あからさまに対立しているようなクラスメイトは一人もいない。
 では、一体自分のパンツは一体なにが原因で、そしてどこに消えたのか。しかしいくら考えても、やはり吉田に分かることはなにもなかった。ただ、自分のパンツが消失したという事実がこうして現実にあるのみだ。
「どこ行ったのよぅ……私のパンツぅ……」
 沈鬱な表情が吉田の顔を覆う。更衣室のじめじめとした空気により一層気分は沈んでいく。もう本当に泣きたい気分だった。
「う、なんかスースーするしぃ……」
 部屋の換気のために開けてある窓から一陣の風が吹き込んできた。見ると、窓の外では風がごうと唸りを帯びて吹き荒れている。
「よかった……今日スカートじゃなくて」
 幸い今日吉田が履いてきたのはスカートではなくショートパンツだった。もし、スカートを履いてきていたらと考えるとぞっとする思いである。と言っても、吉田は普段からあまりスカートは履かないのだが。
 はあ、と吉田の口から深い溜息がこぼれる。いつまでもこうしていてもしょうがない。吉田はとりあえず教室に戻ることにした。その後でどうにかしよう。どうにかなるとは思えないが。
 更衣室を後にする吉田の口からもう一度溜息がこぼれる。そして、諦めにも似た呟きをこぼした。
「あれお気に入りだったのになぁ……黒いパンツ……」

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「どうしたものか……」
 教頭鈴木は現在緊急事態に陥っていた。残念ながらパンツのことではない。
 トイレの個室に入ってすっきり用をたしたまでは良かった、しかし教頭はあることを失念していたのだ。なにが教頭の心を捉えていたのかは分からないが、彼はその個室の中のトイレットペーパーがないことに気がつかなかったのだ。
 そのことに気がついた教頭は、慌てて替えのトイレットペーパーを探したが残念ながら見つからなかった。
「くそぅ……ここの掃除担当の生徒はなにをしているんだ……!」
 半ばやつあたり気味の呟きがこぼれる。どう考えてもトイレットペーパーがないことに気がつかなかった教頭が悪い。愚痴られたここの掃除担当の生徒もいい迷惑だ。
 しかし不運だったのはそれだけではない。いつも携帯しているはずのハンカチ、ポケットティッシュがその日に限って持ち忘れていたのだ。
 そうして、教頭の下にはこの事態を切り抜ける方法が二つ残された。
 一つは、己の手で己のケツの穴の汚れを取り、その後で手を洗うという方法。テメエのケツはテメエで拭け! とは文字通りこういうことを言うのだろう。
 そして、もう一つの方法は――教頭は自分の手に握られている物を真剣な眼差しで見つめた。
 ポケットティッシュやハンカチを必死に探しているときに、教頭はそれがポケットの中に入っていたことに気がついた。そう、先刻廊下で拾った黒いパンツだ。
 そう、もう一つの方法とは、教頭が握りしめている黒色のパンツでケツを拭いてしまおうというものだった。
 このエロスなパンツで自分のケツを……。そう考えて教頭は不思議と背徳的な興奮を覚えてしまう。自然、頬が緩む。にやりと。
 いかんいかん。教師歴三十四年。真面目一筋で通ってきた自分が一体なんてことを考えているのだ。どこぞのサイコロ教師じゃあるまいし。教頭は鼻息も荒く、首をぶんぶんと振って己の煩悩を打ち消した。
 しかし、この状況はどうしたものか。教頭は再び頭を悩ませることとなる。そして、自然とその視線は己の手に握られているパンツへと注がれる。
 こうなってしまっては仕方がない……。これはよんどころない事情というやつのだ……。このエロスなパンツの持ち主には悪いが……。
 やがて、教頭の思考はパンツでケツを拭くという方向へと収束されていく。なぜか鼻息は荒く、瞳は充血している。
「パンツの持ち主よ、すまない!」
 そして、教頭はついに決意を固め、その黒いパンツを自分のケツへと持っていこうとした――その時だった。トイレに突風が吹き荒れた。ごうと唸りを帯びた突風は、教頭の入っている個室の中にまで侵入を果たし、空気のうねり巻き起こす。そして、
「ぬわーっ!」
 庇うように顔の前にかざした教頭の手の間から――パンツが風に連れ去られていった。黒いパンツはまるでアゲハ蝶のようにひらひらと風に舞いながら、やがて教頭の入っている個室の外へ飛び去っていく。
「わ、私のパンツゥ――ッ!」
 慌てて立ち上がり、教頭はパンツを追いかけ個室の外へと飛び出していこうとした。しかし、ケツのむず痒さが教頭の頭を冷静にさせたのだった。
6, 5

  


      ▼

 これだけ暑いと、ただ立っているだけでも存外に辛い。
 少年佐藤は、友達が楽しそうにサッカーボール追いかけ回しているのを見ながら、夏の暑さに辟易としながらゴール前にぼんやりと立ち尽くしていた。
 佐藤とその友達たちは、休み時間には主にサッカーをしていることが多かった。今日もいつものように友達たちと連れ立って校庭へとサッカーをしに繰り出したのだった。
 しかし佐藤は正直サッカー、というかスポーツ全般が嫌いだった。運動神経が悪い佐藤はスポーツをして遊ぶとなると、活躍することはおろか、チャンスすら滅多に与えられない役回りばかりさせられることとなる。そして今日もいつもと変わらず、休み時間中に一、二度しかボールに触ることのできないゴールキーパーをさせられていたのだった。
 それだけで、充分佐藤にとって面白くないことだったのだが、加えてこの暑さである。ただ突っ立っているだけで、じわりじわりと体力が暑さに奪われていくようで佐藤はうんざりとしていた。さらに、今日は風の強い日だった。普通なら、涼しく流れる風に多少は暑さも紛れるものだが、梅雨の名残を持った今の時期の風は、身体にべっとりと湿気を纏わりつかせるようで居心地が悪い。
 佐藤はこの暑さの原因でもある太陽を恨めしげに睨みつける。しかし、空高く照りつける太陽の眩しさに、すぐに目を逸らした。と、佐藤は逸らした視線の先にあるものを見つけた。
 校旗を掲げるポールの天辺で風に翻る黒い影。佐藤は目を細めてそれを注視した。黒い三角形の……あれは!
「お、おーい! みんなァ! アレを見ろォーッ!」
 その黒い影がなんであるかに気がついた佐藤は、思わず声を張り上げていた。

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「とんだ災難だった……」
 教頭鈴木は廊下を歩きながら苦虫を噛みつぶしたような顔で呟いた。指先を鼻に近づけると、まだほのかに香るような気がする。
 あの後、教頭は苦渋の思いで自分の手で自分のケツを拭ったのだった。指先をケツの穴に触れたときのぬちょりとした感触は一生忘れられないだろう。と、教頭は先刻のことを苦々しく思い出す。
 しかし、と教頭は思い首を傾げた。あの黒いパンツはどこへ消えたのだろう。個室から出た教頭は、風に連れ去られたパンツの行方を探したのだが、なせかパンツはその姿を忽然とトイレの中から消していたのだった。開いた窓からは、相変わらず風が吹き込んでいた。
 まさか、パンツは窓の外へと飛んで行ってしまったのだろうか。教頭は思いを巡らせた。教師歴三十四年。真面目一筋で通ってきた自分が、一度拾った生徒の落とし物を、再び自分が紛失してしまうとはなんたる失態か。しかし、窓の外に飛んで行ってしまってはもはや……。どうしようもないだろう。持ち主である生徒には悪いが。
 教頭は遠い眼差しを窓の外へと向ける。この強風できっとあのエロスなパンツはどこか遠くへ飛んで行ってしまっただろう。まさしくアゲハ蝶のように風にひらひらと舞いながら。
 その視線がやがてある一点へと収束されていき、教頭は愕然とした。
「な、なにをやっているんだ……あの子たちは!」
 校旗を掲げるポール。そこを生徒が必死によじ登っている姿を教頭の視界は捉えた。ポールの上へと登っていく生徒は強風に煽られ、今に落ちてしまいそうだ。そして、教頭はポールの天辺で翻る黒い影を見つけて、さらに唖然となった。
「あ、あれは……私のパンツではないか!」
 まさか。と教頭は思う。ポールをよじ登っている生徒は、あのエロスなパンツ欲しさに、あんな危険な行動に及んでいるというのだろうか。だとしたら、事の発端は自分が持っていたパンツが風に飛ばされてしまったのが原因ではなかろうか。
 普通、自分の不注意で飛ばされたパンツが原因で生徒が怪我をしたら……。なんて考える教師などいるはずないのだが、教師歴三十四年、真面目一筋で通ってきた教頭鈴木の正義感は、それを見過ごすことを許さなかった。
「まったく……馬鹿なことを!」
 教頭は踵を返すと、玄関へと向かって全力疾走した。走れ教頭。生徒のため。そしてパンツのために!

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 時を同じくして。少女吉田は廊下を歩いているとき、窓の外にその光景を見つけて愕然した。
「なんで私のパンツがあんなところに……。それになんなのよアイツら!」
 校旗を掲げるポールの天辺で翻る自分のパンツ。その光景だけでかなり驚愕したのだが、加えてなぜか見知らぬ生徒が自分のパンツに向かってポールをよじ登っていたのだ。
 吉田はあまりの光景にこれが現実のものなのかと混乱してしまう。しかし、下半身のスースーとした感覚に、すぐにこれが現実のものだと実感させられた。
 まさか、あの男子は私のパンツを盗ろうとしてる……? 最悪の想像が吉田の脳裏を過ぎる。
「なんなのよ……一体これはなんなのよ!」
 吉田は人目も憚らず叫ぶと、玄関へと向かって全力疾走した。急げ少女。己のパンツが魔の手に堕ちる前に!
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これだけ風が強いと、ただポールを登っていくだけでも存外に辛い。
 少年佐藤は、強風に煽られながらも、ゆっくりと地道に確実にポールをよじ登っていた。その先にある黒いパンツ――漢のロマンに向かって。
 ポールの下では友人たちが佐藤に向かって声援を送っている。その声援がより佐藤に勇気をもたらした。絶対に手に入れてやる。漢のロマンを! 佐藤は吹きつける強風に耐えながら、自らを奮い立たせた。
 運動神経の悪い佐藤が、パンツ捕獲に自ら名乗り出たのには理由があった。パンツを見つけたのが自分であったから、という理由だけではない。佐藤は黒いパンツが何より好きだったのだ。大人のエロさが溢れる黒色のパンツ。その面積の少なさがより大人っぽくてエロい。同級生が履くようなイチゴ柄とかクマさん柄のパンツなんて眼中にない。佐藤が心から望むパンツは大人が履くような黒色のエロいパンツ。ただそれだけのなのだ。
 やがて佐藤は順調にポールをよじ登っていき、そして遂に、手を伸ばせばパンツに届くという距離にまで到達した。
 風は相変わらず強い。掌の汗を慎重にズボンで拭う。足はがっしりとポールに絡ませて、身体がしっかり安定するように支える。
 あとは手を伸ばせば……遂に届く、栄光の黒パンツに! しかし落ち着け、ここで焦るようでは三流以下だ。佐藤はふぅと短く息を吐きだした。ふと視線を下に向けると、友人たちは息を殺してじっと自分を見守っていた。ふっと、佐藤の顔に笑みが浮かぶ。待っていろお前ら。もう少しだ。もう少しで漢のロマンをこの手に掴むぞ。
 佐藤は左腕をポールに回し、がっしりと身体を安定させた。両足にもより一層力を込めて身体をポールに密着させた。そして、右手をゆっくりと慎重に黒いパンツへと伸ばしていった。三十センチ、二十センチ、十センチ。そして遂に右手でパンツを。
 ――その時だった。先ほどからの強風の比較にならないほどの突風が佐藤に襲いかかった。危ういバランスで支えていた佐藤の体が、ふわりと浮遊感に包まれた。
 やばい。と思ったときにはもう手遅れだった。佐藤の体はポールから投げ出された。胸の奥底から、ある種、快感にも似た落下感覚が全身を包んだ。すーっという感覚と共に、不思議と頭が妙に澄み渡っていった。
 佐藤は、徐々に遠ざかっていく黒いパンツをぼんやりと眺めながら落下していった。右手は空しく虚空を握り締めただけだった。
 ああ、もう少し。本当にもう少しだったんだ。佐藤の視界の中は白く沈んでいき、その中で黒いパンツだけがやけに鮮明に浮かび上がっていた。この手に、もう少しで届いたんだ。だけど……もう少しが届かなかった……。
 佐藤は全身を包む落下感に身を任せ、諦めるように目を閉じた。その時、佐藤の耳に叫び声が届いた。
「諦めるなァ――ッ! 少年――ッ!」
 佐藤ははっと目を見開いた。そして、視線の先にある黒いパンツをきっと見据えた。
 諦めるな……まだ、届くッ!
 佐藤は身体を無理矢理引き起こし、そして右手を精一杯伸ばした。その先にある――漢のロマンを掴み取るために。
「うおおおおおおおおおおおおおおおーッ!」
 無我夢中で叫び声をあげ、佐藤は黒いパンツへと右手を伸ばしていく。その体が一瞬、重力に逆らうようにふわりと浮かび上がった。
 風だ……。佐藤は背中を押すその力を全身で感じとった。足元から風が吹いている!
 佐藤は最後の力を振り絞り、全身全霊を込めて右手を伸ばしていった。そして、その手がついに黒いパンツを掴み取った。
 やがて、風の力を失った佐藤の身体は、重力に従いゆっくりと落下していった。
 不思議と恐怖はなかった。ただ、心地よい疲労にも似た達成感だけが佐藤を満たしていた。
 佐藤はゆっくりと目を閉じた。その顔には自然と笑みが浮かんでいる。みんな、俺はやったぞ。栄光をこの手に掴み取ったんだ……。あとは、お前たちに託すよ。この、漢のロマンを。
 そして、地面に叩きつけられる衝撃を覚悟したとき――佐藤の体は逞しい腕にがっしりと抱えられた。
「え……?」
 佐藤はぼんやりと呟いて、ゆっくりと瞼を開いていった。そこに――教頭の顔を認めてさらに唖然とした。なぜ、教頭先生がここに?
「危ないだろうがぁ! 頭から落ちたら死ぬところだったぞ!」
 教頭の怒鳴り声に佐藤はびくっと首をすくめた。
「す、すいません……」とよわよわしい声で佐藤は謝った。しかし、教頭は何も答えず、無表情で佐藤を下ろすとゆっくりと右手を振り上げた。思わず佐藤は目をぎゅっと瞑って体を強張らせた。しかし、
「……え?」
 殴られると思って目瞑った佐藤を襲ったのは、頭の上に優しく置かれた大きな掌の感触だった。
「本当は一発殴って灸を据えてやりたいところだが……よくやった、少年」
 教頭はなぜか優しく微笑んでいた。そして友人たちが取り囲み、皆口々に佐藤を褒め称えはじめた。
「佐藤スゲエ!」「よくやった佐藤!」「スゲエちょっと見せて」「うわ、このパンツスゲーエロい」「うむ、エロスなパンツだな」「おれ匂い嗅ぎてー!」「む、私にも是非」
 友人たちの歓声に包まれ、佐藤の中に再びじわりじわりと達成感が込みあげてくる。佐藤はパンツを掲げて、高らかに快哉を叫びあげた。
「取ったど――――――――ッ!」
 再び、わっと歓声が沸き起こる。そして、佐藤の前に立った教頭が右手を差し出した。
「よくやった佐藤少年。それは、君の宝物にするといい」
「はいっ!」
 佐藤は教頭と熱く握手を交わした。二人の間に、漢の友情が芽生えた瞬間だった。因みに、このとき握手を交わした教頭の右手が、うんこを拭いた手だったことは佐藤には知る由もないことだった。
 そして、佐藤は勝ち誇るように再びパンツを空高く掲げてみせた。――その時だった。
再び突風が佐藤に襲いかかった。
「うわぁ!」
 突風は、無情にも佐藤の手から漢のロマンを奪い取っていく。黒いパンツはそのまま風に吹き飛ばされ上空高くに舞いながら、やがて校舎の影へと消えていってしまった。
「ああ……俺の――」
「あ――――ッ! 私のパンツゥ――――――――ッ!」
 教頭の嘆きの叫び声が校庭に空しく響き渡った。

      ▼

 少女吉田が校庭にたどり着いた時、全てはもう終わっていた。
 ポールの下で呆然と空を見上げている教頭先生と男子生徒たち。ポールの天辺に引っ掛かっていた自分のパンツは、再び姿を消していた。ただ空しさを表すかのように、校庭に風が吹きつけているだけであった。
「え? どういうこと? 私のパンツどこに行っちゃったの……?」
 切なくこぼれた吉田の声は、風に消し去られて誰の耳に届くこともない。
 吉田はぼんやりと、教頭先生たちが視線を向けている方向を追いかけてみた。が、そこには自分が背を向けていた校舎が屹然と聳えているだけだ。自分のパンツなどどこにも見当たらない。
「もうやだぁ……」
 吉田はやり切れない気持ちでいっぱいになる。さんざん探してやっと見つけた自分のパンツが、またしてもどこかに消えてしまったのだ。教頭先生たちの様子からすると、きっとこの強風で校舎を越えて、どこかに飛んで行ってしまったのだろう。
 吉田は泣きそうな顔で、その場にしゃがみ込んだ。風がショートパンツの隙間から入り込んで、嫌がらせのように下腹部を撫でていく。この世界の全てのものが自分を陥れて楽しんでいるような気がしてきた。
 自然と潤んできた瞳を隠すように吉田は顔を伏せた。が、そうしていると逆に人に見られているような気がして、目の奥がかーっと熱くなってきた。それでも吉田は俯いたままじっとしていた。
 ふと、吉田は霞む視界の中に黒い影を見つけた。自分の足元に落ちている、黒い影。一見して自分のパンツではないことは分かった。なんだろうと思って、目を擦りながら手に取ってみた。
「うわ、なにこれ……?」
 触れてみると、じっとり湿っている事が分かる。ふさふさ、というかチクチクとした手触りの黒いなにかに、吉田は毛虫みたいだなあと思った。
 手で広げて見ると、それが何なのかにすぐに気がついた。だけど、これは一体誰の物なのだろうか。吉田にはこの黒いものを使うような人物に心当たりはなかった。
 吉田は手の中で黒いものを弄びながら、だんだんむしゃくしゃとしてきた。自分のパンツを求めて校庭まで奔走してきたというのに、結局パンツは再びどこかに消えてしまい、最終的に自分が手に入れた物といえば、誰の物とも知れないこの黒いものだけ。
 こんなものいらない。吉田は怒りに任せて、手に持った黒いものを思いっきり投げ捨ててやろうと思った。
 だけど。と吉田は思い止まった。これを失くした人もきっと困ってるんだろうなあ。自分には分からないけれど、持ち主にとってこれはきっと大切なものなんだろうなあ、と。
 大切なものを失った悲しみは、今の吉田には痛いほど分かった。やっぱり捨てるのはやめよう。後で職員室に届けにいこう。
 そうこうしているうちに、休み時間の終了告げるチャイムが鳴り響いた。
 教頭先生と男の子たちは肩を落としながら、とぼとぼと校舎に戻っていく。自分も早く教室に戻らないと。吉田も踵を返して教室へと戻ることにした。
 校舎に入る前に、吉田は一度振り返って空を仰ぎ見た。自分のパンツのシルエットを探して。しかし、青空は影一つ浮かび上がらせることなく澄み渡っている。
 やはり諦めるしかないんだろうか。吉田は心の中で一つ溜息を吐き出して、教室へと戻ることにした。
8, 7

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