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一章 Todays Eye Tern

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 夜空に響き渡る蝉の音は、それはそれは綺麗なものだった。時間帯を勘違いしているのだろうか、アブラゼミかクマゼミか良く分からない蝉が、じーじーと鳴いている。私は普段そんなことは特に気に留めなかったけど、「音」が原因で不機嫌真っ最中の今では、体の奥底にまで響いてくるほど「音」が嫌だった。
 窓を閉めて不快な鳴き声と颯爽と吹き抜ける風を遮断する。刹那にしてむわっとした初夏独特の蒸気のような空気が肌にぴったりと纏わりついた。窓が結露するように、汗腺という汗腺から汗が吹き出してくる。
 首にかけたタオルで汗を拭きながら、ベッドに座り込む。その対岸には、昨日までは大好きで今現在は大っ嫌いな奴が居座っている。もう何年も使い古した、安物の電子ピアノだ。とはいっても一応は有名なメーカーのもので、グランドピアノと遜色ない音を出すことができるし、ヘッドホンをつければそれが自分の世界だけに響き渡る。親からはグランドピアノはどうかと薦められたが、大きいので嫌だった。
 私は長く伸ばした電灯の紐越しにピアノを眺めて、ぶすっと頬を膨らませた。こいつのせいで、私は昨日とんでもない過ちを犯してしまった。布団の上に転がって、ちらちらと光る蛍光灯を見上げる。
 昨日は名のあるピアノのコンクールだった。私は区の代表に選ばれて意気揚々と繰り出して行ったけど、不運はいくつも重なった。楽譜の一部を忘れたり、怪我をした小指に絆創膏を貼るのを忘れてたり。これ以上言うとピアノを壊してしまいそうになるほどムカついたから、思い出すのをやめる。
 とにかく私は昨日のコンクールで、大失態を犯してしまった。それだけが今では気がかりだ。だから何でもない掲示板にあんなスレッドが立つと、ついストレス解消も兼ねて書き込んでしまう。
 私が週一くらいで覗いていたウェブの掲示板に、一つのスレッドが立っていた。確か、「もし昨日に戻れたらどうしますか」みたいな内容だった気がする。自分が書き込んだ内容は覚えてる。私はまだ書き込みの無い掲示板に、『そうね。できるなら戻りたいものだけど。昨日ピアノのコンクール、緊張しちゃってうまく弾けなかったのよ。あーあ、きっと落ちちゃったなあ……』と愚痴を漏らすように呟いた。誰かが反応するような書き込みとも思わなかったから、そのままブラウザを閉じてからは一度も見てない。
 確かに昨日に戻れたら、どれほど幸せだろうか。もしも今の記憶を維持したまま昨日に戻れるとしたら、楽譜も忘れないし絆創膏を貼り忘れるミスもしない。下手したら優勝だってできるかもしれない。元々一二〇パーセントの力を出し切れば、十分に優勝が狙えるコンクールだったのだ。それが、結果は十二位。笑い者にしかならない。
 私はピアノのことを記憶の埒外に追いやるために、日曜日にもかかわらず勉強をすることにした。通学鞄の中に入っている荷物を机の上にどさっと放り出して、整理をする。一週間のプリントがお出迎え。必要なものはファイルに入れてあるから、そのままずささーとゴミ箱に直行させる。溢れる。ゴミ箱の胃袋ももういっぱいいっぱいのようだった。
「めんどくさー」
 私は机の横にかけてあるビニール袋に溢れ出したプリントを詰め込むと、部屋の入り口の方にぽいと放り投げた。ドアノブにちょうど引っかかった我ながらナイスコントロール。女子ソフトも夢じゃない。
 冗談を撒き散らしつつノートとか教科書とかを整理していると、見慣れないノートが一冊見つかった。
「……何これ?」
 私がいつも使っている五冊三〇〇円で纏め売りしているようなノートではなく、薄いながらもきっちりと装飾が施された、私から見ると王様でも使ってそうなノートだった。全体の色は茶色だけど手触りがいいし、タイトルと思しき英字も金の箔押しだった。なんと書いているかと言うと……、えーっと、「Yesterday's note」?
「昨日のノート? いったい何のことだっちゃ」
 昨日と言う単語であの掲示板を思い出したけど、コンクールのことまで思い出すのは嫌だったから済んでの所で思考を止めた。いやでも、こんなこと考えている時点で、今更遅いかな。
 一頁目を開いてみる。何も書かれていなかった。即座にいたずらと判断しつつも、手の凝ったいたずらに感服して私は一礼した。
「こんな高そうなノートを汚い字で埋めるわけにもいかないし、勉強やーめた」
 私は鞄からすべての教科書を取り出さないうちにそう自分に言い訳をして、ベッドに飛び込む。宿題は終わってるから、別にしなくてもいいのだ。嫌なことは忘れて、ゆっくり眠ろう。私の脳内議会で可決が出た。寝る前にちろちろっと携帯をいじって、メールチェック。メール一件着信、だ、そうだ。中身を開く。
【From:中野健太】
 私は送信相手の名前を見て、本文も見ずにメールを削除した。削除したところで、受信メールの履歴は彼の名前で埋まっているのだけれど。
「……もう寝よう」
 熱帯夜に限りなく近い暑さだと言うのに、私は布団に包まった。そうでもしなければ、嫌な思い出ばかりが本当は柔らかい半熟目玉焼きの黄身のような神経をぐちゃぐちゃに引き裂いてしまいそうだったから。
 じーじーと、蝉の声が鼓膜を震わせる。あの蝉たちは嬉しくて鳴いているのかな。それとも、短い命を嘆いているのかな。今の私が蝉だったら、意図は違うにしろ間違いなく後者だろう。
 じーじーと、私の悲しみを掘り起こすノイズは寝入るまでずっとひっきりなしに鳴っていた。
 じーじー、じーじー。

「あーなーたーにーあーえーてよかーったー」
 そう歌ったのは私ではなく、アラームをセットしていた携帯電話だった。どうでもいいけど、携帯電話ってもはや電話機能が主流じゃないよね。携帯端末って呼ばれる日は遠くないかも。
 口煩い目覚ましを止めて、窓際のカーテンを開ける。さんさんと陽光が降り注いできて、部屋の温度が一気に何度が上昇する錯覚を覚える。今日もいい天気だ。昨夜までの懊悩が嘘のように心も晴れている。
 …………………………………………
 前言撤回。やっぱりまだまだ心の奥深くはゆるいロープで縛り付けられたまんまだ。さてと、今日は学校だ。何日だったか覚えてないけど、きっと十一日ぐらいだよね。うんうん。携帯を開く。六月九日。
 …………………………………………
 うーん、まだ寝ぼけてるのかな。気のせいか、日付が胃液のように逆流しているように見える。ちょっと待って。六月九日って言ったら、コンクールじゃん。なに、もしかして過去にでもトリップしたの私? 寝ている間に青色の狸型ロボットが現れて引き出しの中に引きずり込んだ? そう思って引き出しを開けてみても、相変わらずガラクタが詰め込まれているだけだった。
 もう一度目をかっぴらいて携帯の日付を見てみる。うん、紛うことなき六月九日。形態のワンセグを見てみると、男子高校生の自殺のニュースが流れていた。このニュースには見覚えがあった。間違いない。
「……本当に、六月九日に戻っちゃったわけ?」
 心当たりがないわけではなかった。今日が六月九日だけど、私が「昨日」眠りについたのは間違いなく六月十日。なのに、今の私にとっては明日が六月十日なわけで、今日は昼からコンクールが待ち構えている。原因はすぐにわかった。「昨日」の掲示板と、あの“昨日のノート”っていう変なノートのせいだ。
 何はともあれ、私が何かしらの方法で昨日に戻ったと言うのは、事実らしい。コンクールでの結果を覚えているのが何よりの証拠だ。でもどうして、こんなことが起こったんだろう。私がいい子だから? そりゃねーわ。
「でもでも、戻れたのならまたコンクールに出れるじゃん」
 そう気づいた私は大喜びした後に、なぜコンクールでいい結果を出せなかったのか改めて原因を考えた。先述した、楽譜や絆創膏。それともう一つ、私には大きな失敗の要因があった。
 そう考えたときに既に、指は携帯を握って、メール画面を開いていた。受信ボックスには、迷惑メールがずらりと軒を連ねているけど、その合間合間に割り込むように【中野健太】と送信者の表示されたメールがあった。私は大口を開けてカバのようにあくびする。そして、【中野健太】の最新メールを開いてみる。
『ユーリはさ。僕とコンクール、どっちが大事だと思うの?』
 顔文字のない淡白な字面が、今一度私の心臓を貫いた。このメールを見るのは二度目なのに、心が針の山を踏みしめたようにずきずきする。私はこのメールに返信しなかったわけではない。メールはきっちりと返す主義だったので、そのあたりは問題はない。問題なのは、内容だ。
 「本日」行われる予定のこの後のやり取りは、こうだった。
『そんなの、健太が心配に決まってるじゃない』
『それだからいけないんだよ。コンクールはユーリの輝ける舞台なんだろう? 僕は大丈夫だから、コンクール楽しんできてね』
『……わかった、ありがとう』
 それが、最後のメールになるなんて私は考えもしなかった。そして衝撃の事実を自分の出番直前になって知るとは思いもしなかった。健太は私の出番が来るという時に、息を引き取った。白血病だったそうだ。私は健太が病弱で入院していると言うのは聞いていたけど、白血病だと言うのは母親から聞かされるまでまったく知らなかった。あれほど病院に通いつめていたにもかかわらず。多分、健太は私を気遣って言わなかったんだと思う。こんな私の、ために。考えただけでも、涙は止まらなかった。
 私は自分の体を細切れにしてしまいそうなくらい、後悔していた。私は健太の最期よりも、コンクールを優先してしまった。どうしようもないくらいに後悔した。最愛の人が死んだと聞いた瞬間、私の思考回路は腐りきった林檎を踏み潰したようにぶちゅりとぐちゃぐちゃになった。涙が枯れるまで、泣き通した。夜の蝉時雨にも負けない勢いで、一晩中嗚咽をこぼしていた。それが、「本来の六月九日」だった。
 でも今の私は、それを知った上で「六月九日」にいる。これをもたらしてのは神様か、それとも理論上神に最も近い絶対存在か。そんなことはどうでもよかった。神か誰かは、私に「やり直し」の時間をくれたのだ。ならばそれを、棒に振るうことはできない。
 私はすぐに携帯を手にとって、健太に返信メールを送った。
『そんなの、健太が心配に決まってるじゃない』
 案の定、予想通りの返事は数分後に返って来た。
『それだからいけないんだよ。コンクールはユーリの輝ける舞台なんだろう? 僕は大丈夫だから、コンクール楽しんできてね』
 あのときの私は、自らの栄誉と言う欲望に駆られて甘えてしまった。
 だけど、今は違う。
『いやだ。健太がいないなんて嫌。今から病院に行く』
 そう打ち込んで送ると、私は早着替え戦士シャツマンを髣髴とさせる勢いで服を着替え、髪のセットも化粧もしないまま家を飛び出した。
3, 2

  


「ちょっと有里!? アンタどこ行くの今日コンクールでしょ!?」
「それがどうしたって言うんですかーっ」
 背中の皮膚を引っ張る親の言葉をも無視して、私は健太の入院しているナントカ病院へ疾駆する。Tシャツによれよれのジーンズに裸足スニーカーだけど、格好なんて気にしない。自分の格好気にするくらいだったら、私は今こうして住宅街を駆け抜けていない。道行く人と目が合う。へへ。どうよ、私の姿は。もんのすごく格好悪いでしょう? 格好いいけど、すごく格好悪いでしょう?
 ランニング用のスニーカーだから、足が軽い軽い。だけど靴のおかげってわけでもなさそう。うへへ。なんだか今の私だったらどこまでも飛んで行けそうな気がする。
 大通りに飛び出した私は、もう頭の見えている大病院に照準を合わせ、ヨーイドンで全力疾走。すれ違う雑踏がうわっとかきゃあっとか言っているのが聞こえる。叫んでる暇があったらそこをどけ! この道は私だけのミラクルロードなんだ。大魔王(大切な人)が勇者(私)を待ち受けているんだっ!
 私の狂気じみた行為に腹を立てたのか、穏やかな顔をしていた信号が顔を真っ赤にする。その程度のことで私を止められると思ったら大間違いだ。鉄製の乗り物が排気ガスを吐きながら走る中へ、私は猛然とダッシュする!
 すぐさま右や左や右往左往やら、甲高いブレーキ音が響いた。「馬鹿野郎、死にてえのか!!」「信号無視すんな大歩危がァ!!」「おい警察呼べケーサツ」とかナントカ言ってる。ほう、警察ですかそうですか。どっちにしろ今の私を止められる奴なんで一人しかいないけどね。そして今私はその一人の元へと向かってるわけ。お分かり?
 なんだか後ろから「待てぇーっ!」と私の追っかけがついてきてるみたいだけど、ごめんね。残念だけど居間はあなたの相手をしてる暇はないの。
 コンクリート製建造物どもが碁盤目状に並ぶ町並みを、唐紅が白っぽく照らしあげる。私は暑さなんてものともせぬ勢いで、地面を蹴飛ばし続ける。天使のように体が軽い。今なら、カール・ルイスにだって余裕で勝てそうだ。
 病院はもう、腕二十本程度ぐらいの距離に見えている。こうなったら私の勝ちも同然だ。忌々しい自動扉を潜り抜けたら、その先には至福の――――
 むんず。
 と、誰かに左腕をつかまれた。慣性の法則に従って、私の体は前のめりになる。誰だ、私の腕をつかんだのは。この私を止めるなんていったいどういう「何がしたいんだね、君」お巡りさんだ。
「いやあ、ね。私はちょっと、ここに用事があって」と、私は病院をぴーんと指差す。
「信号無視をするような人が入っては困るんだけどねえ」とお巡りは言う。うるへー! お前に私の何が分かるって言うんだ!
 とは、なんとなく言えず。国家権力だし。
「は、はいスミマセン」
「とりあえずちょっと交番まで来てもらおうかな。悪意はないみたいだし」
 お、なんだ。その程度なのか。てっきり署にでも連行されるのかと思った。なんかリアリティにかけるな。もうちょっと問題行動引き起こしたら連行されるかな。ようし。
 そう考えた末に、私がとった行動。それは。
「けぇぇぇぇぇぇぇんたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 病院の高層の方に向かって、大音声を発射する。その衝撃で、周囲の視線が蟻んこを焼く虫眼鏡のように一斉に私に集まる。おい、おい、火傷しちゃうよ。私に皆がエーカーグラター。
 それでも私は気にしない。確か健太の病室は道路側だったから、窓を閉めていてもこれくらいは聞こえるはず。だから私は空気を怒鳴るように叫び続ける。
「ぅおおわああたああああしいいいはああああああああああまちがってええええええええ」
「何奇声を上げとるんだ! さっさと来なさい!」
 首根っこを引っ張られても気にしない!
「どぅわあああかあああらあああわあああたあああしいいわああああああ」
 そこまで言ったところで、私は口を押さえられてむぐむぐ呻きながら、交番のほうに引っ張られていった。
 健太の病室らしき窓は開いていない。聞こえたのかも聞こえてないのかも分からない。もしかしたら信号無視なんてしなかったらちゃんと健太に会えたかもしれない。
 …………………………
 いいーや。違うね。私はこれでいいんだ。中途半端に健太に優しくしてたまるもんか。
 私は終始わがままな彼女だった。それだったら、最期のときまでわがままを貫き通すってモンがいいんじゃないのかねえ。一途ってモンじゃないのかねえ神様! 自己中心的って最高じゃないの! 私、仁川有里は、カレシ、中野健太を生涯困らせたことを誓いましたっ!
 警官にずりずりと引きずられながら、私は気持ち悪くうへへーと笑う。
「いーじゃんいーじゃん。ありのままの自分って」
 素晴らしいじゃん。何で今まで自分のこと閉じ込めてたんだろ。ばっかみたい。
 ああ、蝉の声が鼓膜に沁み渡る。今なら蝉と一緒に即興でセッションでもできてしまいそう。
 私はまるでそこに鍵盤があるかのように、両手を構える。
 そして。
「第三交響曲『蝉と私』、引っきまぁーすぅ!」
 蝉の声のリズムに合わせて、仮想の曲を弾き始めた。
 そのリズムは今まで弾いたどんな曲よりも。エリーゼよりも、第九よりも。
 ずっと強く、私の心の奥深くを打ち鳴らした。

 思い出すに、そこまではまだまだ天国。で、ここからが地獄。
 まずはお望みどおり署まで連れて行かれ、調書か誓約書かよく分からないものを書かされた。二、三時間は軟禁されたと思う。イケメンの刑事と話せたのは楽しかったけど。そして周囲の注目を浴びながらのそのそと家に帰ると、コンクールまではなんとあと一時間。親に軽く叱咤された後に急いで会場に向かった。何とか受付には間に合って、今現在順番待ちをしている状況だ。なんかこの数時間で、人生の波乱万丈成分の半分くらい使っちゃった気がする。
 今ちょうど、最初の人が演奏を始めた。私の出番は三番目だから、十分ちょいで私の腕前が披露されることになる。トップが弾いているのは、「エリーゼのために」だ。確かにいい曲だけれども、今の私からすればそこら辺の子供向けの同様と大差ない。私の持ち曲は、ベートーヴェンの「第九」。子どものころから弾いていたけれども、いまだに楽譜がないと弾けない。覚えることは、本当に苦手なんだ。
 だけどそんなことは、今は何にも関係ない。どんな曲を弾こうが、何も問題ない。
 私の奥底で鳴り続けるメロディは、どんな曲よりも強く、そして、泥まみれで美しい。どーよ、これ。まさに格好悪いけど格好いいでしょ?
 一人目が終了。二人目が舞台に出て行く。確かこの人の曲は短めだったよね。だとしたら、後数分で出番なのか。うっわー、二回目だってのに緊張してきたぜコノヤロー。ちっくしょうめぇ。
 いくら生意気なことを心中で述懐してみても、やっぱり緊張のプレッシャーからは逃れられない。ん、緊張とプレッシャーって同じ意味? 重複? ま、いいか。多分こんなこと考えてる間にも出番は刻々と迫ってきてるんだよ。どうしようかねえ、このナーバス具合は。あの高揚感はどこへ行ったのやら。
 そんなことを考えていた時。ぶるる、とマナーモードの携帯がメールの着信を知らせた。
「こんなときにいったい誰やねん」
 と、見事な関西弁(多分漫才弁)で携帯に片道切符の突っ込み。しれっと流して携帯画面を開く。センターポチリでメール画面へ。さてさて、送信相手は、っと。
「………………おおっと」
 私はそのメールの本文を開いて、三秒ほど完全に硬直してしまった。視界が一枚の風景画と化す。私を中心に世界が回り始めてしまったみたいな感覚だ。すべてを支配してしまいそうな、生温い世界。
 私は改めて本文を読み返し、やがては周りに人があまりいないことをいいことにぼそぼそとつぶやき始める。意識してやったわけじゃない。鳥が空を翔るように、魚が海を泳ぐように、自ずから口が動いた。
 拍手喝采が聞こえる。前の人が終わった。私の番だ。
 私は携帯を静かにたたんで、荷物の中に仕舞う。すたすたと、白んだ照明で平等に照らし出される舞台の上に、私は立つ。観客席に向かって一礼する。拍手が巻き起こる。手を振る。椅子に座って、鍵盤の上に指を乗せる。
 譜面台に、楽譜はない。楽譜がないと、第九は弾けない。だけど、それでも構わない。
 だって、楽譜は要らないから。思いのままに弾いてしまえばいい。残念ながら蝉とのデュエットはかなわないけれど、それは私に対して一人で突き進めと言っているのと同じだろう。
 たとえコンクールで最下位を取るような結果に終わっても、私はきっと後悔しないだろう。
 なぜならもう既に、貰っているから。

 最高の、一等賞を。
5, 4

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