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ep12.表層融解

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 水曜の夜だった。何事もなくいつもの仕事を消化し終え、私が部屋で休んでいた時、コンコンとノックの音が聞こえた。最近はノックの音で大体誰か分かるようになってきた。この躊躇いのない感じはきっとユキだ。

「開いてるよ」
「失礼するわ」

 ほらやっぱり。けれど何の用事だろう? 明日も特に何かがあるわけではないし。

「ジュン、お風呂まだよね?」
「うん」
「たまには一緒に入ろっか」
「……はい?」

 驚きの余り反応が遅れた。

「ダメかしら?」
「ま、まぁ……いいけど」

 同性だし。むしろもう既に色々と見られてるし。

 あと聞くときに小首を傾げるのは狙ってるんだろうか? 悔しいけどちょっとだけ可愛いと思うからやめて欲しい。

「え、でもなんで急に?」
「いえ、特に理由はないんだけど。スキンシップっていうの?」
「あ、ああ、そう、なんだ。ちなみにそれって、例の労働時間なの?」
「ううん。そうじゃないといやって言うなら考えるけど」
「あ、いや、違うなら良いの。変なこと聞いてごめん」

 私がそう言うと、彼女は「じゃ、いこっか!」と嬉しそうに笑った。無邪気なんだか分からない人だ。でも嬉しそうな彼女を見ていると、悪い気はしない。というより微笑ましい気持ちになる。

 私は着替えを持って、「早く早く」と急かす彼女の後に続いた。

   *   *

 鳩山家のお風呂は広い。脱衣所も無駄に広い。どうして銭湯か思うくらい大きく作ったのか、問いただしたいほど広い。

 普段一人で使う脱衣所に、他人がいるというのはとても言葉に言い尽くせない違和感があった。なんだろう、妙に緊張する。ユキが衣服を脱ぎ去っていく衣擦れの音が、酷く耳に残る。

 私はなるべく彼女の方を見ないように、粛々と着替えを済ませていた。

「ジュン」
「なに?」
「なんでタオル持ち込もうとしてるの?」
「え?」
「普段からそんなの持って入ってるの?」
「違うけど。だって恥ずかしいじゃん」
「そう……そうね」

 ユキはそんなこと今思いついたみたいに、ぽんっと手を打った。

「ま、私はいいわ」
「いいんだ」
「せっかくお風呂だし、のんびりしたいから」

 そう言われると、私も変に緊張しているのがバカらしくなってきた。何を意識してるんだろう、私は。ユキにとってはこんなのアレと同じなのだろう。小学校の時にあった、お泊まりイベント。別に何が楽しいわけではないけど、一緒にお風呂に入るという非日常感を満喫したいんだと思う。

 でも恥ずかしいから、タオルくらい持ち込む。

 ユキは頭にタオルを巻いて、長い髪をそこに収めていた。身体は恥ずかしげもなく露出させている。こうしてみても本当に綺麗な子だ。小さくて整った顔に、すらりと細く背の高い身体は、スーパーモデルみたいだ。

「ジュンってさー」
「うん?」

 私達は脱衣所からお風呂に入った。堂々と前を歩くユキの綺麗な背中を見ながら、私はこそこそと後に続く形だ。

「身体を先に洗う派でしょ?」
「普通そうじゃないの?」

 ユキに手渡された桶を湯船に入れて、さっと身体に流す。鳩山家のお湯は少し熱くて、身体を流れるお湯がじくっと熱を浸透させる。それがなんとも言えず心地よかった。

「私はさっとお湯を流してから、一旦湯船で身体を温めてから洗う派」

 ユキはそう言って、二三度湯を身体に浴び、もう湯船に浸かってしまった。

「ほぇー。そうなんだ」
「私運動ほとんどしないから。そんなに汗もかかないし」
「あー、私は汗でべとべとだったりするからなぁー。そういう違いもあるんだ」
「そうかもしれないわね。でも最近もそんなに運動する?」
「毎朝走ってるよ。10キロくらいだけど」
「……はい?」

 お湯に浸かって身体を伸ばしていたユキが、珍獣でもみるかのように私を見つめた。私はボディソープで身体を洗いながら、話を続ける。

「ジュン、朝からお仕事あるわよね?」
「七時からね。それまでに行ってるの」
「何時に起きてるの!?」
「五時くらい。それから走りに行ってシャワー浴びてお仕事」
「信じられない……」
「そう? 慣れだと思うよ」
「だってジュンいつも夜遅くまで勉強とかしてるのに!」
「私テスト中もお仕事あるから、普段からやっておかないと大変だもん」
「良いよ、テスト中くらいお休みにしてあげる」
「そういうわけにもいかないよ。ユミコさんにもお世話になってるから。一週間も抜けたら迷惑かけちゃうし」
「ジュンってつくづく真面目ね……」
「生まれついてこの性格だから、いまさらしょうがないよ」
「それでいつも結局何時に寝るの?」
「十二時には寝るよ。明日のお仕事もあるし」
「五時間しか寝てない!」
「十分じゃない?」
「私七時間は寝ないと無理」
「十分な睡眠って人によって個人差があるみたいだから」
「なんかずるいわ」

 湯船に半分顔を沈め、ぶくぶくと泡を立てて拗ねるユキの姿は可愛らしかった。

 私は身体を一通り洗い終え、私はシャンプーに手を伸ばす。

「あ、背中流してあげようか?」
「あー、うん。じゃあ、せっかくだし」

 ユキがざぱっと音を立てて湯船から上がった。私は髪を洗うときに目を閉じる。冷静に考えるとそんな必要はないのだけど。癖みたいなものだ。

「ねぇ、ユキさぁ」
「んー?」

 ユキがボディソープを泡立てている音が聞こえる。

「髪洗う時って目閉じちゃわない?」
「私はもう開けるのに慣れちゃったから」
「え? アレって――ひゃあ!」
「きゃっ」

 背中を這うユキの手の感触に驚いて思わず変な声を上げてしまった。ユキの可愛い悲鳴も聞こえたあたり、彼女も驚いたんだろう。

「ジュン?」
「ごめん、いきなりユキの手が触れたからびっくりしちゃって」
「え? でも背中洗うよって」
「いや、ほら、私身体はスポンジで洗うから」
「あ、そっか。ごめん。私いつも手で洗うの」
「そうみたいだね」
「うん。スポンジってざらざらしてて嫌いなのよね」

 ユキは私の背中を手這わせて洗ってくれた。むず痒いような、気持ちいいような不思議な感じだ。人にされているから余計にそう思うのだろう。

「それで、何の話してたっけ?」
「髪を洗う時に目を開けるか開けないかじゃないかしら?」

 ユキに言われて思い出した。そうそう確かにそんなことを言っていた。

「アレって慣れとかそういうものなの?」
「そうみたいよ。子供の頃に髪を洗うとシャンプーとかが目に入って痛かった経験ない?」
「あるある」
「それで子供は目を閉じて髪を洗うことを覚えるんだけど、大人になって洗い方覚えたら、目にシャンプーとか入らないでしょ。だから、子供は大体目を閉じてるんだけど、年齢が上がるにつれて目を開けて洗う人が多くなるみたいね。特に女性は髪が長くて、丁寧に洗わないといけないから余計に」
「ほぇー。ユキ物知りだね」
「残念だけどそれはないわね、むしろものを知らない方じゃないかしら。あ、そろそろ流す?」
「うん」

 お湯をかぶった。冷えてきた身体を適当に温めてくれる。

「コンディショナーとかやったげよっか?」

 ユキの口調がなんだか砕けている。楽しそうだ。

「いいよ、自分でやるから」

 調子に乗って暴走されそうなので牽制しておく。だってほら、この人襲うかもしれないし。油断禁物だ。

「そう……」

 すごすごと湯船に戻るユキを視界の端に、私はさっさと髪を洗った。ユキは拗ねている時が一番子供っぽくて可愛いと思う。そんなことを考えながら、お湯を流した。やっぱり身体が少々冷えた。早く湯船に浸かりたい。

「ユキ、交代」
「んー」

 ユキと交代して湯に身を沈める。肩まで浸かると、身体の凝りがとれていくようで、とても気持ち良かった。

 特にすることもないので、ユキを観察する。彼女は髪を濡らして、手の上でシャンプーを溶かしていた。

「何やってるの?」
「シャンプーそのまま使うと髪痛むから、お湯に溶かして薄めてる」
「そんなことするんだ」
「美容院の人にはあんまり意味ないかもって言われはしたのだけどね。体感で次の日痛んでないような気がするから」
「よく気使ってるんだね」
「そうね。長いと結構気になるからかしら」
「短く切らないの?」
「亡くなったばっちゃの遺言で短くできないの」
「え?」
「うそだけど。まだ生きてるし」
「え!?」

 ときどきユキは分からない。

 彼女はさっと髪を流し、顔の横に垂らした髪に丁寧にコンディショナーを塗りつけていった。それをまとめると再びタオルに来るんで頭に固定する。

「洗わないの?」
「コンディショナーが浸透するまで、ちょっと時間かかるから。それまでに身体洗うの」

 そんなに丁寧にケアするものなのか。

「ユキを見てると、私は女として足りないものを感じるよ」
「君はスペック的には完璧超人だけれども、どちらかというと野生児に近い感覚だから」
「なっ!?」

 彼女はちょっと智恵の着いた少年みたいな口調で言った。小憎らしい感じが結構似合う。

「ジュンってあんまり容姿に気を使わないわよね」
「うん」
「もったいない」
「苦手だからしょうがないと思うんだ」
「それは……まぁ、確かにそうね」

 彼女はまだ納得しきれないようだったが、一応認めてくれたみたいだ。

「あ、私も背中洗う」
「お願い」

 言うなりお湯から上がった。ボディーソープを手で泡立てて、ユキの真っ白な背中を後ろから見つめる。曲線が悩ましいよ、ユキ。絶対口に出さないけど。

 スポンジでごしごししてやろうかと一瞬考えたけど、あとで報復されかねないのでやめた。週に七時間の特別労働時間を、これ以上恐ろしいものにしてどうする。最近慣れてきてるけど。

「ああ、確かにこれ、人にされるとくすぐったいわね」
「でしょ」
「ジュン、もう少し上を」
「はいはい」
「ありがと」
「流すよ」
「ん」

 ざああとお湯を掛けて、私は湯船に戻った。

 ユキは髪を洗ってる。

「あ、そういえばさ」
「ん?」
「今週、多分例の時間ないから」
「え? なんで?」

 一瞬すっと体温が下がるような錯覚。

「ほら、月イチのアレ」
「あ、うん。そっか」

 咄嗟にもういらないってことか思った。何を私は怯えてるのか。

 彼女は身体を洗い終え、湯船に浸かった。

 この広い湯船は、私達二人が脚を伸ばして入っても十分な広さがある。

「ジュン」
「何?」

 ユキがぱちゃぱちゃと水面で手を動かして遊んでいる。彼女の視線は水の波紋の中心を見据えたままだ。

 私はユキの方を見つめたまま問い返した。

「この家での暮らしには慣れた?」
「……うん」
「そう」
「うん」
「よかった」

 ユキはなぜだか困ったように笑った。

「どうしたの?」

 私にはその表情が何を意味するのか分からなくて、思わず口から疑問が零れていた。

「何が?」

 彼女はもう、いつもの屈託のない表情に戻っていた。

「あ、いや。なんか……気のせい、かな。多分」
「へんなの」

 彼女は戸惑う私の顔を見て、可笑しそうにしていた。だから私も忘れることにした。

「ユミコさんがね」
「うん」
「ジュンが良く出来すぎた子だって」
「そうかな? まだまだ半人前ですらないと思うけど」
「ううん、そんなことないわ。あんまり気を張りすぎてないか心配とも言ってた」
「大丈夫だよ」
「私からも、ちょっとそう思うときあるから」
「そう……かなぁ」
「そうなの! だからね、お仕事の時間はともかく、普段はもっとリラックスなさい。休日もユミコさんお仕事手伝ってるの、知ってるんだから」
「あれはユミコさんに普段からお世話になってる分を、」
「もうまたそうやって。とにかく! 一つ屋根の家の下に暮らしてるんだから、もっと年齢相応に甘えていいの」
「……う~ん、ちょっとどうしていいか分からないけど、ユキがそういうなら努力するよ」
「そうそう。もう家族みたいなものなんだから」
「家族?」
「ジュンはそう言われてピンと来ないかもしれないけど……。ほら、私は母もいなし、父も滅多に帰ってこないから、ユミコさんが親代わりでしょ」
「う、うん」
「もうあの人は私にとっては家族なの。血のつながりなんかなくても、きっと十数年この家で私達姉弟とあの人との間に培われたものは、家族っていう関係性だと思う。ユミコさんもそうだって言ってくれた。だから、私にはジュンとの関係は、少なくとも普段の関係はそれが一番近いと思う」
「そう、なんだ」

 もう敢えて普段じゃない関係性のことは考えないようにしようか。面倒なことになるし。

 それにしても、家族かぁ。

 実感はない。

 けれど、漠然と。

 この胸にすんなりその言葉は落ち着いた。

「うん、今日言いたいことは以上!」

 ユキは話はここまでというように、湯船から立ち上がった。

「あ、やば……なんかクラクラする」

 と、ユキはちょっとのぼせているようだ。私も少し長く湯に浸かりすぎていたようだ。私も立ち上がるときに軽くふらついた。

「ねぇ」

 ユキが私を呼ぶ。

「また一緒にお風呂入らない?」

 彼女は私を救うみたいに手を伸ばした。

「仕方ないなぁ。ま、でも多分来週は私もだし、ちょっと先になるけどね」
「うわー、なんてロマンのない子」
「仕方ないよ。私も生きてるから」
「それもそうね」

 そこではっとユキが停止する。

「ってことは来週もジュンとの時間が!」
「ああ、別に私がするだけでいいなら、」
「いやいや、それはいいから」

 ユキは慌てて止める。

「まー、そういうことも考慮しての週七時間だから。むしろあの時間そんなに正確に測ってないから適当なのよね」
「ああ、初回から何も言わないから不思議に思ってたけど、やっぱりあれって適当だったんだ」
「ジュンも大体私の性格掴めて来てるんだから、分かってたんじゃないの?」
「うん、うすうす」
「つまりそういうことね」

 彼女はかんらと笑った。うん、この人はやっぱり見た目よりずっといい加減なのだ。忘れがちになるけど、ちゃんと覚えておこう。

 彼女は脱衣所に向かった。

 私も後に続く。

 不意に、私は彼女との距離感が、いつのまにか随分と心地よくなっていることに、今更気付かされた。

 どうしてだろう。

 いつからだろう。

 正確には分からないけど、多分、今さっきじゃないはずだ。

「ユキ」

 私は彼女の名前を呼ぶ。

 私はまだ家族という関係性を飲み込めないけれど、一つ分かったことがある。

「んー?」

 彼女は気の抜けた返事を寄越す。

 この見た目よりもずっとすっとぼけた人が、いつからこんなに私の中で大きな存在になったのだろう。

「今日は色々話してくれてありがとね」
「ん」

 彼女は短く返事をした。照れたような返事が、さざ波のように私の心を優しく揺らす。

 一つ分かった。

 私は、自分で思っていたよりも、この人のことを好いているんだ。
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