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outside/私たちは美しくなくて良い/ピヨヒコ

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 殺したいほど愛してたって言ったらどう思う?
 


 夕飯に使う材料の買い物はいつだって必要最低限の量だから、別に私がこの右手でレジ袋を持っていることに不満はない。ちょっと人差し指と中指が痛いけど、こんなもん左手に持ち替えればいいだけの話し。でもそれをしないのは、私の左側に立つ彼との距離が離れてしまいそうだから。
 実際はとっくのとうに私たちは冷め切っているけれど、惰性で続いていく恋人関係というのは心地よい。役所の窓口にいる中年おばさんが私にする対応みたいに、無駄がなくて当たり障りもなくて、滞らず何もかもが進んでいく。冷めた先にある恋愛というのはそれに似ている。私たちはお互い、都合良く恋愛することに洗練されたってわけだ。一人でいると寂しくなるから、そうならないように傍にいる。時々甘えて、時々争って、自分は一人じゃないんだという予防接種をするのだ。その予防接種すら怠った時は事後対策としてセックスに励んでみたり、いつもは言わない(つまり心にもない)台詞をいったりする。それが私たちの恋愛関係。愛すべき男女関係。
「今日の夕飯はカレーと見た」
 彼が言った。目の前の踏切は警笛を鳴らしたまま開かない。
「あんたはシチューのルーでカレーが作れると思ってるの?」
 私は踏切の向こう側を見たままで言う。目を合わせると首が痛くなるんだ彼は、頭一つ分はでかいから。
「醤油があればなんでも作れると思うけど、シチューのルーはシチューしか作れないの?」
「あたりまえじゃん」
 目の前を黄色い私鉄が駆け抜ける。コンタクトレンズに埃が入りそうだから目を瞑った。もし目を開けて、目の前の電車が赤かったら素敵だろうなと思った。喧しい電車の音が小さくなっていき、やがて警笛も消えた。赤いわけないじゃんね。
 目を開けると彼は少し前に進んでいて、首だけ振り返って私を見ていた。冬の夕焼けと彼の茶髪が混ざりそうだった。それは私が望んだ赤色よりも随分鮮やかだったから、願いが叶ったんだか叶わなかったんだか判らなくなって、少しだけ笑ってしまった。
「キモイですな急に笑って」
「うるせ」
 いつも通り二人暮らしのアパートまで歩いて帰る。手をつなぎたいな、と久しぶりに思った。


 
 冷めた恋愛というのは愛情の無くなった恋愛とは違う。惰性にまかせた男女関係を冷めた恋愛というのだ。私たちは最初、お互いがお互いを求め合い、高ぶった感情のその頂点から恋愛を転落した。頂の、極めて傾斜の強い所から勢いよく転げ落ち、砂利を巻き上げ岩に弾かれて恋をしてきた。私たちは幾度となく意地悪なシケインに阻まれたけれど、そのつど停止しない程度の減速を駆使し、今となっては限りなく平坦に近い下り坂を転がっている。
 恋愛を長く続けるのは馬鹿げている。コンバースで雪道を歩くくらいに馬鹿げている。しかし私たちはそれを長いこと享受しているのだ。ヴァンズでもないこのコンバースで、ずっと歩いてきている。今さら、側面に空いた穴っぽこを埋める気なんてない。
 だから私たちは、当然のように手をつながないままアパートの目の前まで到着した。
 駅から徒歩五分もかからない所に私達の住むアパートはある。築二十年の木造三階建てだが、この前改修工事を終えたばかりなので状態は良い。クリーム色の外壁に空室ありと大きな看板がぶら下がっていて、傷だらけの表面に西日が反射し私の目を焼いた。この物件は各階に三部屋あって、私たちが暮らすのは錆びた階段を最上階まで昇ってすぐの角部屋だ。1DKで家賃は五万八千円。風呂トイレ別。ありがたいことに都市ガス。防音対策は劣悪だが、ベランダから見える夕焼けは世界で一番美しい。遠くで山が黒く染まり、居酒屋とパチンコ店しかないこの街が、据えた臭いの埃と共に浮かび上がる。その景色を見ると私自身が汚い景観の一部であることを痛感させられ、まるで癌細胞にでもなったかのような無敵感を覚えるのだ。
 目の前で彼が急な階段を昇る。ポケットに手を突っ込んで部屋の鍵を探っているようだ。違うよ、そこじゃないって、いつも財布の小銭入れにつっこんでるじゃん。そう私が言うまでも無く、彼は鍵の在り処を思い出した。少し寂しくなる。なぜそんな気持ちになったのか考えたかったが、私が昇るべき階段は残すところあと一段だから、今はそれを踏み外さないように集中しなければ。
 階段を昇りきると彼は玄関の開錠を済ませていた。ドア付近の停滞した空気に向けてただいまと言う。先に部屋へ上がった彼が「おかえり」と気の無い返事を返してくれた。
 玄関から直結したキッチン兼ダイニングの冷蔵庫へ食材を投げ込む。我が家の冷蔵庫は常に食糧危機だ。ビールと牛乳とバターだけは常駐しているが、そのほかの食材は入っていない。冷凍室はいつ作ったのかわからない氷と、自然発生した霜に占領されている。私も彼もあまり料理をしないのがその最たる理由だ。たまに作ってカレーライスとかシチューとか生姜焼きとかその程度。彼は「食事はセブンイレブンが作ってくれている」と言っていた。私はファミリーマートのほうが好きだけど。
「タバコちょーだい」
 私の横にしゃがみ込んで彼がレジ袋を漁る。帰りしなに自動販売機で買ったキャスターのマイルドを探しに来たらしい。
 平らな調子で彼は言う。
「一服しませんかxxxさん」
「え?」
 思わず聞き返した。いま名前を呼ばれた気がしたからだ。普段は「キミ」とか「ねぇ」とかしか言わないくせに、何を急に。
「一服しましょうよ、アカネさん」
 何だよ、急に。
「うん……いっぷくする」
 小学生みたいなおぼつかない口調で答えてしまった。そんな私を見て彼は優しく笑い、タバコを掴んで立ち上がった。
 私は彼の後を追う。部屋のドアを開けて八畳の部屋を二人で歩いた。汚い部屋だ。バッカスのギター、コタツテーブルの上にある中古のノートパソコン、折れ曲がったスケッチブック、ぶっ壊れたホルガ、脱ぎ捨てられたピーコート、殺精子剤入りコンドームの空き箱、買っただけのククカード、行くことの無かった箱根のガイドブック。そんな残骸と不精が溢れる部屋の一番奥に陣取るベッドに登り、世界一の夕焼けが見えるベランダへ出た。
 外側はとても美しかった。
 私達の住む街は建物の背が低いから、三階にあるこの部屋からは遠くの景色まで見渡せる。まもなく夕日は山の向こうに消えそうだった。真ん丸だった太陽の輪郭がいびつに滲む。パチンコ店のネオンに明かりが点った。
「はいどうぞ」
 彼が私に火の点いたタバコをくれた。それを咥えるとフィルターが微かに湿っているのがわかる。私と並んでタバコを吸うとき、彼はこうやって火を点けてくれる。
 彼の真似をしてタバコを初めて吸ったとき、私は上手く火を点けられなかった。その時も彼は、先ほど冷蔵庫の前でそうしたように、優しく笑って自分の吸っていたタバコをくれた。それ以来ずっと彼は火のついたタバコを私に寄こす。キスをするみたいですこし安心するから、文句は言わない。
 半分山に埋まった太陽を見ながら煙を飲む。初めて吸ったときの舌先の痺れはもう無いし、心臓が縮まる危機感を忘れてから久しい。私はタバコを別段美味いとか格好いいとかは思わないが、しかしこうやって彼と並んで呼吸に重きを置く数分間は好きだ。四十分かけてセックスをするよりも、その数分間の方が一体感があるから。
「ねえアカネさん」
 タバコを咥えたまま彼が言った。
「僕を殺してくれって言ったら、やってくれますかね」
 口からタバコが落ちそうになった。
「は、なに、なに言ってんの?」
「いやね、思ったんだ。さっき小説読んでたら感化されちゃって」
 その小説ってのは期待の新人が書いた異色のミステリーで、残酷に人が死んで例の如く説教めいている衝撃のデビュー作なんだけどね、主人公が言うんだ俺を殺せって。そう彼は楽しげに言ったので、私は「いやいやいや、そんなつまらなそう小説に感化されないでよ」と返した。
「少なくとも僕の人生よりは充実した内容だったよ」
 彼が二本目のタバコに火を点けた。
 私はまだ一本目の半分も吸っていない。
「ほら、いい加減こういう生活って良くないでしょ」
 街から赤色が逃げていく。
 私はそれを見送ることしかできない。 
「バイトしながら物書き目指すなんて、バイトしながらバンドするより凶悪だよ」
 彼が遠くの景色を見ながら煙を吐いた。そして口元だけで軽々しく笑う。
「ダサいだろ、バンドマンは背中に担ぐものがあるだけ見栄えがいいと思うんだ」
 それだけ言うと彼はベランダの手すりに項垂れた。私は極力平静を装って「なんかあったの?」と訊ね、深く息を吸うのを隠すために煙を飲んだ。
「出版社に投稿したやつあったっしょ。あれもダメだった。掠りもしないってのはこのことだね」
「そっか。あれ、けっこう面白かったけどな」
 彼の書いた小説は確かに面白かった。私が書く文章なんかより断然優れていて、私が思い描く空想よりも情感に溢れていて、私が人生で得てきたものよりもずっと哲学的だった。それが選考において評価されないということは、つまり、私に比べて才能に溢れていた彼はプロに比べて劣っていたということだろう。なるほど、私の感想なんてアテにならないのか。それはそれで寂しいなあ。間違いなく面白い小説だったのに。
「アカネさんにとって面白いだけじゃだめなんだ。いい加減わかったよ。ラブレターを書くのとも日記を書くのとも違うんだ」
「それで、悲しいから死んじゃうの?」
 彼は笑った。そして、そうだよと呟く。
「僕はね、アカネさん。大学出て仕事にも就かずに小説を書いてきた。でも、まともに生きていくためには、もうこれはやめた方がいい。仕事を探して、お金を稼いで、一人でも生きていけるようにならないといけない」
 私の煙草から灰が落ちる。手のひらに嫌な汗が湧いてきた。
 ああ、嫌だな。聞きたくないよ、聞かなくてもわかる事なんて。
「そんな生き方するくらいなら、死んだ方が潔いだろ? やりたいことやれない人生なんて色気ないだろ」
 唾棄するような口調で、ついでに私を責めるような口調で(もちろんこれは私の勘違いだけど)、彼は悔しそうにそう言った。このように自分の感情を私にぶつけてくるときの彼は本気だ。いつもなら彼の感情は小説にぶつけられて消化される。劣等感が世界観に、罪悪感が動機に、不満が台詞にそれぞれ変換される。しかし些細なずれでその置換が上手くいかないとき、彼のあらゆる感情は行き場を失って器から溢れだし、すぐ傍にいる私に雪崩の如く押し寄せてくるのだ。感情の処理が下手とも言える。私たちが徐々に冷めていった理由は、少なからずそこにもあるのだろう。雪崩というのは辺りを蹂躙するものだから。
 端的に言おう。彼がこのようなことを言うと、私は凄く悲しい。私はずっと傍にいたというのに、彼の心の揺らぎをなだめてあげることができなかった。幾度目だろうかこの無力感が私を包むのは。
 駄目な恋人だと思うよ、ほんとにさ。
 私は私が無価値になるのが嫌だから、即席麺を茹でるような安直さを自覚しつつ、彼にこう言ってみた。
「やりたいことやりなよ。私と二人なら、とりあえず生きていけるよ」
 馬鹿げた発言だった。彼の生き方に、私は土足で、躊躇いもなく。
「アカネさん」
 彼は言う。ありがとうと。
 結局私は無価値なんじゃないだろうか。
 そう思った事なんて、言わないけどさ。
「セックスしようか」
 言ったのは私の方だった。彼は拍子抜けしたように顔をこちらに向ける。
「なんでまた急に」
「なぐさめたげる。がんばったで賞あげる」
 馬鹿でしょ? いいよ馬鹿で。
 私は心にもない笑顔を作る。ずっと遠くで太陽が沈んだ。



 寒いから私たちは布団にくるまってセックスを始めた。電気は消してある。恥ずかしくはないけど、彼の前に晒す表情なんて私は知らない。彼は慣れた手つきで私を撫でた。私も何となく彼の首筋を撫でる。太い血管が指の先で脈打っていた。そのまま鎖骨に沿って身体の線をなぞる。ひょろひょろしてるなぁ、この人。こんな空っぽそうな身体にどれだけの物を抱え込んでいるのだろう。
「セックスするの久しぶりだな」
 そうだね、と言おうとしたがうまく発音できなかった。一度息を吐いてから私は言う。
「だって、本当に死んじゃいそうなんだもん」
「死にゃしないよ。でも、もう書くのはやめる」
 消え入りそうな声で彼は言って、私のシャツのボタンを一つ外した。首元に冷えた空気と私たちから出た湿気が絡みついた。
「ね、本当にやめちゃうの?」
 暗闇の中で彼は確かに頷いた。ボタンがまた一つ外された。
「嘘でしょ?」
「ほんとだよ」
 ごめん。そう付け足して、彼は三つ目のボタンを外した。胸元に彼の鼻があたった。
「ほんとのほんとに?」
「うん」
 彼は残りのボタンを全て外し、それから私を抱きしめた。脇腹に彼の服が擦れて気持ち良い。
「ほんとにいいの? やめちゃうの? 絶対つづけたほうが」
 続けた方があんたらしいのに。そう言おうとしたのに、煙草混じりのほろ苦いキスをされて、最後まで伝えられなかった。
 ふと思う。このまま本当に、彼がやめてしまったらどうなるだろうかと。
 きっと大した事にはならない。夜空から月が消えるくらい些事だ。お陰様で星がよく見えるようになる。それは死ぬほど寂しいけれど。
「いやだよ、やめないでよ」
 彼はまたぞろ私の口を塞いだ。きっと、なにも聞きたくないのだろう。
 なんだよ馬鹿。殺されたいほど辞めたくないくせに、なんだよ、馬鹿たれ。
「私の好きな人のままでいてよ!」
 彼はそれからしばらく口を開かなかった。
 ベルトで私の両手を縛り、シーツに押さえつけて、髪の毛をいじらしく掴んで、四つん這いのままずっと奥を叩き、私が咽せるように喘ぐのだけが暗闇に響いた。セックスするとき声なんて出さなくてもいいし、痛いからやめてと嘘をつけば終わらせられるのだけれど、それを言ったら別の物まで終わってしまいそうで怖い。だったらこのままいやらしい事していた方が、きっと楽なんだ。
 いつだってそうだ。最後の最後で、彼は私の中に入ってこない。
「アカネさん。僕は僕を棄てても生きていけちゃうんだろうね」
 私たちはキスをした。
 これが私のがんばったで賞か。
 彼が死にたくなるのも頷けたから、殺してあげよう、仕方ない。



 セックスを終えてから私たちは眠ってしまって、起きた頃には日付が変わりそうだった。今日作る予定だったシチューも、今となっては面倒だから冷蔵庫で待っていてもらうことにする。彼がコンビニ弁当を買いに行こうと提案したので、私たちは脱ぎ捨てた服を再び着て部屋を後にした。
 ベッドでの名残が違和感となっていて、歩く度に股関節が軋んだ。まだ両足の付け根に彼が繋がっているみたいだ。けれど彼は私の少し前を歩き、紫煙を夜空に吐いている。冷え切った空気に煙が溶けていく。そんな風にして彼は彼らしさをなくすのだろうか。
「ねぇ」
 声が震える。
「本当に、もう書くのやめるの?」
 彼が答える。小さく、そうだよと。
 ああ、そうか。

 まもなく私たちは踏切の前で止まった。赤色が明滅を繰り返し、線路の奥、夜霧に霞む上り側から黄色い私鉄が向かってきた。時間を考えると最終電車だろう。あれが停まったら、朝まで電車は動かない。
 遮断機がゆっくりと降り始める。片側はとうに閉まっていた。残るはもう片方のスズメバチ色。
 私は彼の背後に立ち、ふらふらする身体で片足立ちをして、それから思いっきり背中を蹴った。
 彼が低い声を出して、線路の中に一歩踏み込んだ。遮断機が完全に閉まり、私と彼を分断する。
 よろめく彼が姿勢を保とうと勢いよく進んだ。私の視界に電車の先頭が映る。道路に沈んでいた埃が舞い上がり、私の目に入った。
 咄嗟に目を瞑ると同時に、彼と電車は重なった。
 私は笑う。笑って涙を流す。
 電車はまだ線路をけたたましく鳴かせていた。
 早く通り過ぎないかな。
 もう電車は来ないから!
 目を開けたらきっと、私の好きな彼は死んでいる。
 私は、その死んだ彼を、また今まで通り愛していこう。


 以上
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