姉妹篇『HERO』
『HERO』
「真嶋、お前、本当にやるのか?」
「その話、どうしても今じゃなきゃ駄目か?」
「今しなくて、いつするんだよ」
「それもそうだ」
慶は勝負の前、いつも決まって『すすき屋』の特製ラーメンを食べることにしている。すすき屋の主人が二十七年を懸けて練りに練り、編みに編んだこのラーメンははっきり言ってかなり雑だ。どこから仕入れてきたのかやたら味の濃い鶏がらスープに極太の黄色い麺をどっさりぶちこみ、その上から麺より多いんじゃないかと思えるほどのもやしとキャベツをぶっかけてある。チャーシューなどは野菜を掘り返さないと見えない。ラーメンを知る者をして『ラーメンへの冒涜』と言わしめたこのラーメンが、慶は好きだった。その粗暴で乱雑な味が、口に放り込んで麺を噛み締めるたびに生きてる感じを呼び起こしてくれる。だから、勝つにしろ負けるにしろ、縁起を担いでいるわけではないけれど、慶はすすき屋にラーメンを食べに来る。だが今日は、麻雀仲間の山崎も一緒だった。山崎はとっくに大盛りラーメンのどんぶりを空にして、お冷を酒のように一気に仰ぎ、グラスをカウンターに叩きつける。慶は迷惑そうに山崎を見たが、山崎は全然それに気づかない。
「真嶋、俺はお前が心配なんだ」
「そうか、ありがとう。べつに心配しなくていい」
「真嶋! ……お前、本当に分かってるのか?」
「分かってるよ」
これから慶は麻雀を打つ。それもちょっとやそっとの麻雀じゃない、本物の麻雀だ。関東一帯を網にかけ、麻雀稼業で口に糊する奴らが片っ端からかき集められた。残念ながら山崎は呼ばれていないが、真嶋慶には声がかかっている。
だから行く。これから打つ。
それが山崎には気に喰わないらしい。
「やめとけよ――」と山崎は、まるで泣き落とそうとしているかのようだった。
「誰が来ると思ってんだ。俺らとじゃ二枚も三枚も格が違う、本職の奴らが来るんだぞ。いくらお前が負け知らずだからって、相手になるわけがない。やばいよ。どっかにフケちまった方がいい」
慶は麺から喰うかもやしから崩すか、相当迷った挙句にもやしに割り箸を突っ込んだ。麺をがっつり喰いたい気持ちもあるにはあるが、ここはまず、それほど好きではないもやしがスープに濡れずにパリパリしているうちに腹に入れ、のちのち麺を食べた時に腹へかかる負担をわずかでも軽減する――
山崎は、苛々と拳でカウンターを叩いた。
「分かるよ、真嶋。お前の言いたいことは分かる。――逃げ切れないって言うんだろ? そうだ、確かに今回のこの盆、顔を出さずに済むかといえばかなりキツイ。お偉方の面子ってものもあるだろうしな。でも、結局、なあ真嶋、お前だって本当は分かってんだろ。今回の盆が、結局はむこう打ち同士を潰し合わせようっていう『本家』の思惑があるってこと」
「俺がそれを分かってたら、どうだっていうんだ」
「知れたことだろ。――上野を出よう。それが一番いいよ。今なら間に合う。さすがに駅に張り込まれてたりはしねぇよ。なあ真嶋、そうした方が絶対いい。これは、お前を思って言ってるんだぞ?」
そうだろうな、と慶は思う。
山崎はべつに慶の敵というわけではない。麻雀打ち同士ということで、突き詰めれば敵と言えなくもないが、腕が違う。山崎が十の力を出してきたとして、慶なら三の力も出せば軽くカタがつく。お互いそれが分かっているから、今まで潰し合いにはならなかった。山崎は、善意で慶に言ってくれているのだ。今なら間に合う、今すぐ逃げろと。
慶はラーメンを食い続ける。
山崎はじれったそうに叫んだ。
「なんでだ! 真嶋、どうしてなんだ? そこまでして勝負する意味なんてあるのか? お前には実家があるじゃないか。俺みたいに家がねぇ親がいねぇってわけじゃない。帰れるところがあるのに、どうしてそんなに頑張るんだ」
「家には帰らない。いまさら帰っても仕方ねぇしな。それにお前がどんな理想を抱いているのか知らねぇが、血縁者ってのはそれほどいいもんじゃねぇよ。少なくとも俺は自分の親父が死ぬか、お前の指が飛ぶかだったら、お前の指を選ぶね」
それを聞いて、一瞬山崎はたじろいだ。が、すぐに顔を拭って、また吼えるように慶に食って掛かる。
「じゃ、べつに家には帰らなくてもいいよ。でも、上野は抜けろ。お前の腕なら、どこでだって食い扶持くらい稼げるさ。べつにこんな土地、拘るほどの価値ねぇよ。――あ、おやじさん、違うんだ。俺は別にこの店をくそだって言ってるわけじゃなくって――」
調理場に一人で立っている鉢巻をしたすすき屋の店主に睨まれた山崎が泡を食って弁明し始める。それを見て慶はくすくす笑った。山崎は、見ている分には面白い。気持ちが和む。だからつるめた。人とつるむのが致命的に苦手な慶が唯一作れた友達、それが山崎だった。
慶は半分ほど崩したもやしをどんぶりの向こう側へ押しやり、いよいよ麺をほじくり出した。ずるずると黄色い麺を啜っていく。餓えて乾いた口にスープを吸った麺の味が染み込んでくる。美味い。
「なあ、上野を出ようよ、真嶋」
「冗談言うな。俺は学校の遠足でだって上野を出たことがねぇんだぞ。いまさらどこへ行けっていうんだ。――ここは俺の街だ。俺が暮らして何が悪い」
「そう言ってもいられねぇ状況だろうがよ」
「勝ちゃいい」
ああっ、と山崎が火傷したように手を振った。付き合ってられないとばかりに舌打ちしてくる。
「それだよ。それができねぇから苦労してるんじゃねぇか」
「なんで勝てないって分かる?」
「相手が悪い。倉敷、野辺山、三鷺、狭山、清水――」
「メンバーは知ってるよ」
「じゃあ、なんでやるんだ」
「逆に聞く。――なんでやらない?」
山崎は押し黙った。慶は猛烈な勢いで麺を啜り始めた。今のうちに腹に詰め込んでおかないと、満腹感が来て食べられなくなる。ただでさえ慶は食べるのが遅いのに、山崎が横からゴチャゴチャ言ってくるのでもはや麺はなかば伸びつつある。くそっ、と慶はあとから来たくせにもう大盛りのラーメンを食い終わっている山崎を睨んだ。――なんでこいつはこんなに喰うのが速いんだ? 慶にはまったく謎だった。
「どうせ麻雀で稼ぐには、大物殺しは避けられない。この盆、この勝負、どこまで続くか知らねぇが、――俺以外の七人全員を潰せば俺がナンバーワンだ。いいかザキ、よく聞けよ。東京中の麻雀打ちから選りすぐりの八人がいて、何があろうとたぶん最後までいく。勝つのは一人だ。俺がそれになる」
「……できねぇよ」
山崎は誰かに無理やり作らされたような嘲り笑いを浮かべた。
「真嶋、お前のことは強いと思うよ。センスだって俺らの間じゃ抜群だ。――でも、相手はプロだ。俺らよりずーっと長い間、胴元にならずに客方で勝ち続けてきたむこう打ちの連中なんだ。俺はお前が、……負けるところは見たくない」
「負けねぇって。お前もわからねぇやつだな」
「分からず屋はお前だよ」
「よし、分かった!」
慶はまだ半分も減っていないどんぶりをカウンターに向かって放った。箸をその上に重ねて叩きつける。ちなみにまだ喰う気はある。
「やめる」
「え?」
「勝負するの、やめるよ。――これで満足か?」
慶は頬杖を突いて、にやにや笑った。山崎は呆気に取られた後、少しずつその言葉の表面をなめとっていった。
「……そうか。なら、いいんだ。そうだ、よそう! 死ぬほどバクチを打つなんて、やっぱりどう考えてもおかしいや。もっとまともな生き方が、俺たちみたいなはぐれ者にだって探せばきっとあるはずだ」
「そうだな。おいおやじ、俺らの更正記念だ。タダ酒を出しな。――なんだその嫌そうな顔は。ちぇっ、なんだよ、いいよいいよ! ホラ、冷たいの二つくれや」
慶はヤミ屋で血まみれになっていたのを安く買い叩いて、自分で丁寧に血を落としたジーンズからくしゃくしゃになった紙幣をカウンターに叩きつけるように置いた。すすき屋のおやじが金を貰ったくせに不満そうに酒を出す。慶はお猪口に山崎の分を注いでやり、自分の杯も満たした。まだ釈然としていない様子の山崎の肩を「なんだよ?」とバンバン叩いて、その手に押しつけるようにお猪口を握らせた。自分の杯をそれにカチンと当てる。
「さ、乾杯だ。一気にやろう」
「お、おう。そうだな。景気よくいくか」
山崎が目を瞑ってぐっと酒を空けた。慶はそれをにやにやして眺めながら、驚くべき速さと躊躇の無さでもって、自分の酒をカウンターの下に捨てた。店のおやじの顔が一瞬強張る。が、慶には関係ない。
冷酒一杯で顔が赤くなっている山崎は、とろんとした目で慶を見て、赤ん坊のように邪気のない笑顔を浮かべた。
「これで上野にもおさらばだな、真嶋」
「そうだな。それでいいよ。上野で遊ぶのはもうおしまいだ」
慶は空っぽになった杯を、まるでそこに見えない何かが取り残されているようにしげしげと眺めていた。
「で、これからどうする」
「……これから?」
「上野を出てからだよ。どこに行く。何をする」
「……それは、おいおい考えようぜ。とりあえず電車に乗って……」
「電車に乗って?」
「……電車に乗るんだ」
山崎は苦し紛れにそんなことを言った。
「おいおい、二回も電車に乗るのか? 乗り継ぎか? まァいいよ――で、俺たちは二回電車に乗った。いま、適当な駅で降りたところだ。――どうする」
「だから、それは、その場に行ってから考えようぜって」
「いま現地に着いたんだって。そう思えよ。想像力ってものを働かせてみろ。俺たちは今、見知らぬ駅にいる。ポケットにさほど金はねぇ、荷物なんか一個もねぇ。知ってる奴らも歩いてねぇし、宿がどこにあるのかもわからねぇ。――さ、どうする」
「――麻雀?」
あっはっは、と慶はどこかの若旦那のように豪快に笑った。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。勝負事から逃げて電車乗ってそこからまた勝負するのか。ザキよ、物には道理ってものがあるんだぜ。俺たちの腕の良し悪しは関係ない、何かから逃げた旅でツキに恵まれる勝負なんかねぇぞ。麻雀はやめといた方がいいな」
「じゃ、どうするんだよ」
「お前がそれを俺に聞くのか?」
慶は杯を置いた。
「なァ、山崎。こっから逃げに逃げて、そこから俺たちを受け入れてくれる場所なんかあると思うか?」
「……それは」
「あるかもしれない、か?」
「……ああ」
「無いよ」
いつの間にか、慶の顔は彫像のように白く血の気が失せていた。とても食事を取ったばかりの人間には見えなかった。――死者のようだった。
「お前に言わせちゃ実家持ちの俺が言うのもなんだが、山崎、天涯孤独の身でそれだけ能天気じゃ、お前、ラクにゃぁ死ねんぜ」
「……」
山崎は黙りこくってしまった。それを見て慶はどんぶりに手を出し、完全に伸び切っているラーメンを未練たらしく啜り始めた。ちょっと顔をしかめたが、諦めずにずるずると喰っていく。
たっぷり五分以上かけてからようやっと完食し、空のどんぶりを置き、そして慶は言った。
「お前がやめろ、山崎」
「――え」
「お前にバクチ打ちは向いてない。やめるのは、俺じゃない」
慶は石のように冷え切った瞳で仲間を見た。
「お前だ」
「……真嶋」
「俺は最初の頃から、お前には向いてないと思ってた」
くず紙で口元を拭いながら、慶は続けた。
「お前は真剣勝負をするには優しすぎる。鉄火の世界じゃ、美徳だ善性だってものはすべからくデメリットだ。いいとこなし。お前はいい友達だったが――俺は敵になりかねない男を友達とは呼ばない」
「な、なんだと……!」
思わず立ち上がりかけた山崎だったが、ぐ、と喉を掴まれたように呻くと、丸椅子に座り直して、顔を背けた。
それが男としての山崎の限界だった。黙って、飲み干さなかったのに空っぽになっている杯を見つめる慶は、それを最初から知っていた。
「俺とつるんでたお前の名前は少し知られてる。今夜の勝負がどうなるかわからねぇが、お前は上野を出た方がいいだろうな。――金、いくらある?」
「……ねぇよ、そんなもん」
不貞腐れたように言う山崎に、慶は立ち上がって、ポケットから有り金を引きずり出してすべてカウンターに乗せた。バラバラに散らばった金を、山崎は魂を抜かれたような顔で見つめた。
「……なんだよ、これ」
「手持ちがなけりゃ切符も買えないだろ」
「お前、これから勝負だろ」
「いらない」
「いらないって……」
「勝ちゃいい」
「……真嶋!」
そのまま暖簾をくぐって出て行こうとした慶を、カウンターに向かったまま山崎が叫んで止めた。慶の猫背が軒先で止まった。
慶がどれほど待っても、山崎は何も言わなかった。
ただ握り締めた拳の上に、男臭い涙がいつまでも滴っていた。
それを見て、今まで黙っていたすすき屋のおやじが初めて口を開いた。
「真嶋」
「なんだ」
「二度と来るな」
慶は唾を吐き捨てて、後ろも見ずに歩き出した。
通りは夕闇にほとんど飲まれかかり、海の底のようだった。
慶が一歩進むごとに、闇が一段と深くなり、通りの店先の灯りがぽつぽつと灯っていく。
夜に向かっているのに、かえってどんどん眩しくなる道を慶は歩いていった。
山崎には出来ないことをやるために。
後悔はしていない。自分が言ったことも間違っているとは思わない。山崎には他に生きる道がある。天涯孤独かもしれないが、ヤツは優しい。気心が明るい。慶のような男とは違う。これからぶつかりにいくような男たちとは違う。山崎は、ぬるい。
だからこそ、生かしてこの街から出してやりたかった。
……我侭だろうか。
そうかもしれない。
山崎の意思など度外視して、慶は彼の心を折った。二度と立ち上がれないようにした。
もしも逆の立場なら、慶は絶対に山崎を許せない。
そういうことを、慶はした。
「…………」
勝てばいい。やらずぶったくりで生きてきた。山崎を街から出したのは、これが最後かもしれないと本気で思っているからだ。勝っても負けても――
わずかに痺れる左手をポケットの中で握り締める。残り時間があとどれだけあろうが、そんなことは真嶋慶には関係がない。金がある奴は金を賭ける、金がない奴は自分を賭ける。いくらか持っていかれたが、全部やられたわけじゃない。残ってるありったけの自分自身をかき集めて、注ぎ込む。それだけだ。
左腕の痺れを、慶は力ずくで握り潰した。
じきに、べつのもので塗り潰す。
その後、慶がどうなったのかはあえて書かない。
どうせ勝つだけの男だ。
END