顔のない男
顔のない男が目の前にいる。どこにでもある喫茶店、どこでも飲めるコーヒー、どういう意味があるのかわからないシュガースティック、そんなものを飽きたおもちゃのように広げながら、男は頬杖を突いている。その男は言う。俺はお前じゃない。お前じゃないからお前の気持ちなんてわからない。知ろうと言う気にもならない、だが、お前が己に顔がないと思うのなら、残念ながらそれは間違いだ。なに気にすることもない、誰だって間違うし、そういうときはへらへら笑うといい。そうやってじょうずにごまかしきったやつが家族と暮らしたり目覚まし時計をかけずにベッドで眠ったりする。なに心配することもない、べつに大した罪じゃない。だがいいか、これだけは間違うな。顔のない男が言う。曇硝子のような面で掠れた声が張線のようにキンと響く。顔がないのに口があるように見える、その男は俺に言う。お前の耳のかたちは信頼しがたい。お前の鼻のかたちは悪臭ばかり吸い込んでいる気がする。お前の口のかたちは卑猥そのもの。そしてお前の目は汚物みたいに濁ってる。ここまで言えばお察しがつくだろうが、お前にはいいところなんてひとつぽっちもない、だがいいか、それでも鏡を見ればけりがつく。お前が逃げ切る日は来ない。お前は自分の顔と共に生きていくんだ。どれほど俺に憧れたって、俺には顔がなく、そしてお前には顔がある。それからいったいどう逃げる。いつか鏡がお前の気持ちを汲んでくれると本気でお前は思うのか? そんな日は来ない、お前が報われることもない。俺を責めたって駄目だ、俺はお前じゃないんだから。俺には顔がないのだから。お前はお前のまま苦しんでいくしかないんだ。猫のように顔を引っ掻いたって駄目だ、犬のように舌なめずりしたって駄目だ。何も消せやしない。顔という名の傷跡にふるえておびえて生きていけ。どうしてこんな顔にしたと恨み続けろ。どれほど痛かろうと知ったことじゃない、俺はお前じゃなく、お前は俺じゃなく、そうとも構わない、俺には顔がなく、お前には顔がある。
逃げられないとわかっていながら、どうして俺に会いに来る。