欅坂の今泉と、報われなかったうえお久光について
今泉が卒業しちゃいましたね。
俺はよかったと思います。七枚目アンビバレントがセンター平手続投。その後も二周年ライブで見せた代行センターは引っ込めて、平手は全曲センターに返り咲きました。去年、過度のプレッシャーによりブッ倒れたことなど忘れたかのような酷使ぶりです。平手もそれを吹っ切って覚悟を決めたのか、やり切っているのは純粋に凄まじいと思います。メンバーも平手を中心としたグループこそ欅坂だと感じているのか、明るい笑顔が戻ってきたように思います。よくよく考えれば、今までずっと平手がいなかったわけで、それは当然ながら不安とか心配に繋がっていたんだろうと思います。俺たちは反対側から見るだけですが、メンバーからは逆の光景が見えているわけで、それをちょっと想像できていなかったなと俺はオタとして反省することしきりです。平手が戻ってきた。よかったことです。
とはいえ俺は推しに卒業されたわけで、グリスだったら死んでます。もうブリザードナックルを掴む元気もありません。俺のロボットジェルが掌から滑り落ちて爆裂しました。もう…俺は戦わん…
今泉はソロタレントとして今後は活動していくということで、元気に頑張って欲しい気持ちでいっぱいです。
欅坂の運営の体質が「平手を使う」から動かなかった以上、卒業はやむを得なかったと思います。このまま欅坂で下積みをしていってもいいですが、数年後、卒業した時に二十代半ばになった今泉にそこから次のステージのキャリアを積めというのも酷でしょう。乃木坂の生駒ちゃんが22歳で卒業したのも、そういった面があったと思います。残留して、卒業して、『アイドルだった25歳』がそこから何を売りにしていくのかはとても難しい問題です。そうなる前に『若手』の看板を背負ったまま抜けるのは本気で続けていくなら必要な選択なのかな、と。俺よくわかんないけど。
「センターになるまでやめない」という発言をひっくり返してまで卒業を選んだ今泉には葛藤があったと思いますが、俺は二周年ライブで十分に今泉はセンターだったと思います。平手抜きでライブを成立させたあの手応えが、今泉に卒業を決断させたのかもしれません。そしてそんな欅坂46の総合力よりもたったひとりの平手を選んでしまう運営の平手への泥酔っぷりはさすがにメンバーからもファンからも愛想を尽かされて文句は言えないです。平手がスゲーなんて見りゃわかるんですよね。もう何度も俺たちはそれを見てきて、まだそれを追いかけるの? と俺は個人的に思います。平手こそ欅坂の主人公だ、という声も聞こえてきますが、だとしたら二期生なんていらないよね。平手の卒業と同時に解散させるしかないじゃん。そういう未来を選びつつあるんだ、というのを運営はわかってるんすかね。二期生とって、なんて言うんですかね。「君たちは平手のバックダンサーだ」というのを「努力次第では君たちのセンターもありうるからガンバレ」とかテキトーな言葉で飾るんですかね。
今泉は抜けてるところもありますが、何度も騙されるほどバカじゃなかったんだなと俺は思いました。『平手には突出した表現力があって、そして欅坂46というのは最高のパフォーマンスをファンに届けるためにある。それを実現できるのは平手しかいない』こんなところですか綺麗事は。それはジリ貧への特急券に俺は見えます。平手抜けたらガタガタになったグループで、また平手を一番前に出すっていうのがどういうことかって話なんですよね。しかも、もう最前列に出ようとした今泉がいない。もう一度、平手が倒れた時、再び代行センターを立たせたとしても、それは平手を支えるため、カバーするための代行であって、今泉のように欅坂の運命そのものを変えようとして立ったセンターじゃない。俺はたぶん、そんな代理センターにはドキドキしないと思います。
もちろん、今泉の卒業で、平手のセンターに異を唱えるメンバーは事実上いなくなったと見ていいと思います。リサは代理センターで重圧を感じたと言っていましたし、ゆいぽんも平手を蹴落としてまで前に行こうとはしないでしょう。鈴本は欅坂全体のことだけを考えて自分は捨てているように見えますし、可能性があるとしたら二期生で誰が来るかですが、急先鋒センター候補だった今泉が卒業し、人気No.2のねるもいまだ漢字欅での単独センター経験がない、そんな中で未経験の二期生からセンターを立てることが、今泉にすら立たせなかった欅坂の絶対的センター平手を後ろに下げてまで運営にできるかと言ったらできないと思います。おざなりに平手と二期生エースのWセンターとかにしてブッ叩かれる未来が見えます。平手を一番前に出すってことは、平手の世界になるということです。平手が沈むまでずっと走り続けるという選択肢なんですよね。平手をセンターから外さないというのは。
まあね、でも、そんなこともうどうだっていいんですよ。今泉はいなくなっちゃったけど欅坂は好きだし、平手も好きです。あとは今泉の夢が叶うといいだけです。
だから今泉のことを思い出そうと思うんですよね。
凄いやつなんですよ。折れた後に復帰して、成長するという離れ業を見せてくれましたから。正直、俺は休養前の今泉はそんなに好きじゃなくて、復帰前後では別人に感じるんですよね。平手が怪人二十面相みたいに同じ顔をしないという特徴がありますが、今泉の前後の変化もそれに近い変わりようがありました。
痛々しいこと言うと、俺は今泉と自分をかなり重ね合わせている節があって、それが昂じて小説を再び書くようになったという経緯があるので、もういっそどのへんにシンパシーを感じたかまとめようと思うんですよね。黒歴史ってね、増やすものなんですよ。
1.ずば抜けた能力がありながら、不遇。無冠の帝王。周囲の社会や集団からの承認が実力より不相応に低い
2.集中している時に目を閉じる。過集中の傾向
3.何度も同じことを言い続ける
4.自己肯定が足りず、称賛を求めるが、周囲を下げようとせず、自分が強くなればいいと思いこむ
5.他人の作品を「自分だったらどうするか」と添削しながら考察する
6.尊敬する人間を簡単に変えない。盲信し続ける。
7.ロマンチスト。理想主義者。現実よりも自分の描いたストーリーを優先する
8.白か黒かで物事を決めようとする
俺の好きな作家、うえお久光の悪魔のミカタ第2巻『インヴィジブルエア』でこんなセリフがあります。
「俺を罰したいんだろうが、残念ながら、俺はあんたじゃない。俺を罰しても、あんたの罪は消えない」
いいセリフですよね。
これは自分と同じ性質を持った人間を自己と混同してはいけない、という戒めだと俺は考えていて(実際はこのセリフは、悪魔に魂を売った男が、その後悔を悪魔のミカタをする男にぶつけようとした時に相手に返された言葉なんですけれども)、この言葉を念頭に、自己を他者と混同しないように注意しながら考察していきたいと思います。
俺が以前、わが地獄で題材にした「息子に自分が諦めた野球の夢を託す父親」なんかがこの言葉に呪われている存在なんですよね。自己と息子を混同し、息子を所有物だと思いこむ本心があるから、自分の理想と夢を押し付けようとする。俺はそういう人間を毛嫌いするために創作しているので、ミイラ取りがミイラにはなりたくないなー。まァ、俺に二十才の女の子の気持ちがわかるわけないんですよ。ピアス開けたりする気持ちわかんないし。痛いじゃん。
それはともかく。
1.ずば抜けた能力がありながら、不遇。無冠の帝王。周囲の社会や集団からの承認が実力より不相応に低い
これはうえお久光(電撃文庫の急先鋒人気作家でありながら、アニメ化やコミカライズのメディアミックスブーム直前に失脚し、表舞台から消えた。でも、俺は好き)にも当てはまりますね。
今泉は以前も言いましたがソニーの特待生、欅坂46に合格するよりも狭き門をくぐり抜けてきたセミプロのエリートでした。俺も、十四歳から小説を書いていますが、そのところどころで「コイツが一番おもしろい」とか「コイツなら商業作家になれる」とか言って頂いたことが何度かあります。「あの世横丁」なんかはガガガ最終選考でしたし、「沢村」は一次通過した時点で賞の本スレ(当時はまだ沢村をネットに公開したままだった)で「コイツは受かる」と評価されたりしていました。
自画自賛というより思い出の一つですが、「将来を嘱望されており、実力も相応にありながら、栄冠を手にできなかった」という属性が、俺は強烈にシンパシーを感じたのだと思います。
特に今泉が復帰する前、俺は小説を書くのをもうやめようと思っていて、サラリーマン暮らししていましたから、似たような境遇でありながら「復帰」を決めた今泉にはものすごく感化されたんですよね。ある種というか、ナルシシズムそのものなんでしょうけれども。まァおかげで「切札」をあそこまで急ピッチで書けたんだからなんでもいいわけです。俺は書ければいいわけです。
これはまた別件で深く書こうと思いますが、平手や秋山瑞人(どちらも天才)に勝るとも劣らぬ才能を持っていながら、今泉とうえお久光はどちらかというとマイナーかつ根深い人気を誇りながら、商業主義や結果主義によって不遇な運命を強いられてきたと言えるでしょう。
2.集中している時に目を閉じる。過集中の傾向
これは今泉が歌うときの癖なんですけど、たぶん、目の情報をカットしてるんですよ。視覚って邪魔だから。鈴本が「観客の目を見ると現実に引き戻されるから、見ない」と言っていましたが、それの強化版と言っていいと思います。
過集中者は基本的に情報過多で暴走していますから、本当に一点に神経を集めるときは目を塞がないと歌えないんだと思います。
ちなみに俺が集中して小説を書く時はまゆげを抜きます。おかげでまゆげが薄くなる。
カットしなくちゃいけないほどの情報を常に吸収している、というのも今泉が平手に追随できるほどのパフォーマーである要因なんじゃないかなと思っています。
3.何度も同じことを言い続ける。
これは俺がよく指摘されるやつですね。「起動せよ、エヴァンゲリオーーーーーーン!!!!」って文末につけるのハマってたんですけど、「こいついつもやってんな」って突っ込まれてからやめました。
今泉も、その時時でブームになっていることをひたすら言い続けるというか、「それ、聞いたよ?」と言いたくなるようなことを言い続けるんですが、これはべつに創作とか関係なく、わかるーって感じ。
これも情報過多の補足として妄想すると、脳みそが一瞬で満タンになるから、一度満ちるとそれでいっぱいになるんだと思うんですよね。飽きるまで。
4.自己肯定が足りず、称賛を求めるが、周囲を下げようとせず、自分が強くなればいいと思いこむ
ここでちょっとバッシングになってしまうんですが、たとえば、アイドル総選挙みたいなやつで一位になる前にライバルに怒鳴ったりイヤモニ奪ったりする人がいるとします。
あの人はたぶん、本当は自分に自信がなくて、その恐怖心から一番になろうとするタイプで、その根っこは今泉も似たような部分はあると思うんですね。
「ダンスもビジュアルも自信がないから、歌では一番になりたい」と今泉はインタビューで言っていましたが、その根っこにあるものは自己を肯定できていないというところにあると思います。福本伸行が「天才はみんな傷ついている。その傷つきが奇跡になる」と言っていましたが、そういうものです。
だから、その「傷つき」や「自信のなさ」を埋めるために、一番になろうとする、というのは珍しい性質ではないんですけど、そこで一つ条件が出てくると俺は思っていて、それは
「他人を蹴落とそうとするかどうか」
だと思うんです。
総選挙の人は、他人を蹴落としてまで一番になろうとしました。
俺の父親は、俺を傷つけてまで「おまえが俺よりいいクルマに乗ったり、いい家に住んだりするのは赦さない」と言ってのけました。
そのどちらも、自分への自信のなさ、恐怖心から来るものです。
でも、今泉って他人を蹴落とすようなことしないんですよね。
平手との確執は噂されていましたけど、平手を個人的に攻撃したことはなかったはずです。それどころか一緒にしらたき食ったことを覚えていたりしていました。
今泉がセンターになろうとしてやったことって、
1.『ガラスを割れ』でWセンターを勤め上げる
2.握手会などを頑張る(ファンのために手書き千枚のカードを書いたと聞いたことがあります)
3.休養中に振り入れできなかった曲をライブ直前に突貫で仕上げる(早朝から練習して)
4.ブログやメッセージを欠かさず更新する(べつにいいけど平手はそういうのしない)
どれも、他人を蹴落とそうとなんてしてないんですよね。
つまり、自分が一番強ければいいんだって思ってたんだと感じるんです。
そういうストイックさ、純粋さ、ある意味では「愚かしさ」とも言えるストレートさが、今泉の魅力だったんじゃないかなと。
俺とうえおは愚痴っぽいところがあるので、ちょっとあれですけれど。
ただ俺も、あんなもんつまらんと言うのは具体的に「もっとこうすれば面白くなる」というヴィジョンが見えてる時だけにしようとは思っています。
俺の親父みたいに他人をいくら下げても、自分の弱さはそのまま残りますからね。
強くなるしかない。
5.他人の作品を「自分だったらどうするか」と添削しながら考察する
今泉は他人の歌を聞くときにかなり分析するらしいんですが、俺もよくそういうのやるので共感ポイント。
「自分だったらどうしたいか」という、理想へのヴィジョンを持ちやすいタイプなのかもしれないですね。後述しますが、理想主義者にはよくあると思います。効率主義者だと結果が出た時点でもっと効率のよいステップに進みますが、理想主義者はずっと同じところで分析し続ける。そして答えが見つかる。
6.尊敬する人間を簡単に変えない。盲信し続ける。
今泉は西野カナが好きみたいで、俺はうえお久光が好きです。
最初に書いた「ずっと同じことを言い続ける」の類縁項目ですね。
頑固なんでしょうね。
7.ロマンチスト。理想主義者。現実よりも自分の描いたストーリーを優先する
もう自分の中で「こうなってほしい」というストーリーがあって、それが否定されるとズーンと落ち込んでしまう。
たとえばうえお久光はおそらく、最終作「ヴィークルエンド」で出版社サイドから「売れっ子の絵師つけてやるから、売上ださなかったら覚悟しとけよ」と釘を刺されてた気配があります。そしてうえおはその喧嘩に乗って、作品としては素晴らしいものを世に出しましたが、商業的に敗北しました。
俺も、うえお久光もそうですが、「面白ければそれだけでいいんだ」という理想を追求しましたし、今泉も自分の理想を信じていたのでしょう。
なので……
8.白か黒かで物事を決めようとする
に、なってしまうわけですね。
うえお久光は、前述の喧嘩(これはなんのソースもない俺の妄想ですが)に負け、自分自身にも、自分を受け入れない世界にも見切りをつけて、作家活動を自粛した気配があります。つまり、今泉に出会う前の俺と一緒で
「もういいや、べつに」
ってなった感じがする。
世界はあまりにもうえお久光という天才に冷たかったですし(彼の作品を気に入るかどうかは別として、彼の作品は誰にも真似できない。独特のセンスが、当たり前のものを当たり前に書くだけで別の性質のものに変化させてしまう。それがある人には鼻につき、また別の人には魅力に映る。そんな書き手)、彼に見捨てられる程度には当時の出版業界はつまらんものでした。俺も受賞してないしね。まあ俺は自由にやったほうがいいって自分で思ったからいいんだけども。
面白いものが、一番前に出る。
今泉とうえお久光では状況が少し違いますが(今泉は天才・平手とぶつかり、うえお久光は出版業界そのもの、読み手の大きな分母が彼の才能を求めていなかったという物理的な壁にぶつかった)、『理想と現実のギャップ』に苦しんだ点では共通しています。そしてそれは重度の『ロマンチスト』にとって、絶対に承服できない、恒常化して治癒する類の痛みではないんです。
自分の思い描いた白星が手に入らないなら、いっそ直視したくないほどの黒星を取る。
それが欅坂を卒業するという決断であったり(あの卒業は黒星ではありませんが、理想と違うのであれば黒星であっても『取る』という決意の重さとしての表現です)、作家をやめて一サラリーマンとして働きだしてしまうという決断であったりするんだと思います。
普通の人は、そんな白か黒かの選択をしません。もっとグレーの、最後まで考える余地を残してから飛ぶでしょう。でも、白か黒かで生きている人たちにとっては、自分が『取る』と思った瞬間が、白だろうが黒だろうが星を取る瞬間なんです。機を待つなんてないんです。機は常に今しかない。
こうして見ると、『時代に愛されなかった』だけで、ふたりとも凄まじい才能なんだなと感じます。もちろん今泉は現役なので、これから欅坂とは違った道を進んでいってくれると思いますが、それでも今泉が欅坂の表題曲のセンターにならなかった事実はやはりそこにどうしてもあります。平手がいなければ、間違いなくセンターだったでしょう。
ただ、俺は思うんだけど、平手にぶつかったから、今泉は総選挙の人みたいに増長しなかったんじゃないかなと思うんだよね。平手が本物だったから、それに感化された部分が今泉にもあったんじゃないかと思う。もし平手がいなければ、欅坂46はセミプロの今泉が牛耳るグループになっていたかもしれない。推しになんてこと言うんだって自分でも思いますが、そんな気がするんですよね。
俺は今泉と総選挙の人は、ドラクエ1の勇者みたいなもんだと思っていて、竜王から「世界の半分をやろう」と言われて、選挙の人は「はい」を選んだ。今泉は「いいえ」を選んだ。その違いなんじゃないかなと。
他人を貶めれば、世界はとっても簡単になります。誰だって自分の優位は失いたくないし、自分のお金が紙切れになることは怖いはずです。存在しない価値であったとしても守りたいし、そのために他人が犠牲になったところでお金がお金であり続けるように、紙切れが財産であり続けるように、本当は値打ちのない自分(俺の父親が目を背けてきたように)に価値があるように勘違いでき続けるように、そうしたいはずです。それこそが竜王に対して「はい」と答えることであり、それに「いいえ」を突きつけられる人間というのは、本当に少ない。そして俺自身が、「はい」を選べば父親を肯定することになるから、「いいえ」を選べる人間を必死に探して、自分もそうあろうとしているんだろうなと思う。
俺がよく「俺の創作は、同族探し」と言うのは、結局のところ、俺はどうしても「はい」を選びたくないんですね。父親になってしまうから。本質のところにある自己を肯定できないことから来る「恐怖心」が共通しているから。だから、うっかりすれば同じ存在になってしまう、ドラクエ1の勇者なんです。俺と親父は。
「ヴィークルエンド」、気が向いたら読んでみてほしいです。俺、久々に読んだらスゲェー楽しいんですよね。
買って読んだときは大学生だったんだけど、正直そんなに評価してませんでした。話があっちこっちにいって、展開がバラバラで、どう読めばいいのかわからなかった。
ヴィークルっていうおくすりを飲むと自分の身体を『操縦』できる、それを使ってレースをする――そんな近未来の少年少女のお話なんですが、レースシーンは最初と最後にあるだけだし、途中で『世間を騒がす本物の天才アーティストの少女』の護衛が始まったりして(欅坂を知ってから読むとリアリティが増した)、とりとめがないんですけど、最近になって少しずつわかってきた。
これは『連作短編集』なんですよね。
1章ごとの完成度が高いから、そこで区切って読まないと車酔いしてしまう。もう、ラノベじゃなかったんですよ、この頃にうえお久光が書いていたのは。その先に行ってしまった。娯楽のため、人を喜ばせるための創作じゃなかった。彼はそんな約束、守れなくて、「一番おもしろいもの」を造ろうとしてしまった。その先にあるのはほとんどの場合、「金に繋がらない不理解と、一部のファンからの熱い称賛」だけです。そして、うえおは後者では戦わなかった。それを責められるのは、同族だけです。
「最高のものか、そうでなければ最低のものを。どちらにしろ――これを最後の曲にする」
そんなセリフがヴィークルエンドの作中にはあるんですが、これはこの作品自体のことだったんだろうなって俺は思うんです。作者に聞いたら否定するかもしれないけど、でもやっぱそういうことだと思うんですよ。俺が「沢村の最終作って後藤なの?」って聞かれて、違うよって言ったし思ってたけど、実際はそうなったように。そういうところ、上手に回避できないからこそ、誰よりも効くストレートが打てる。誰にも負けないパンチがあれば、勝てないはずがないんだから。それが俺たちの理想なんだから。そのために殴ってんだから。
ここまで書いてきて、ちょっとでも俺がうえお久光と欅坂の今泉にシンパシーを感じていること、そしてほんのちょっとでも「コイツの言ってること、極論すぎるけどわからんでもない」と思って頂けたら嬉しいです。でも今泉は俺が推すからべつに推さなくていいです。
スゲェ疲れました! たくさん書いたなぁ。
でも、文章のいいところって、書けば誰かに届くかもしれないところですよね。
俺がこんなこと、サイゼリアで長々と語っても、誰も聞いちゃくれないけど、文章だったら伝わるかもしれない。
俺は目も耳も喉も舌も潰れても、小説を書いていきたい!
そう思いました。せんきゅーずみこ。