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庭師の男

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 水路に泥が混じり、いくつか花が枯れていると聞いて、兵士長はすぐにアタリがついた。
 手垢まみれのボロ布を巻きつけた木刀を汗と共に草むらに投げ捨て、練兵場を出る。
 大公の屋敷は、その私財に比べると慎ましい。というのも、財貨のほとんどを庭園に注ぎ込んでいるからだ。
 当然、腕利きの庭師が雇われる。
 庭園の異変に怯え、まるで自身が責め立てられているかのように震えている従士たちの間をまっすぐに通り抜けて、兵士長は庭園の中央にある大きな噴水に着く。
 そこでは古木を切り出して磨き上げた長椅子に、庭師の男が腰を下ろしていた。
 退屈そうに背中を曲げて、石塔から湧き立つ水の柱を眺めている。
 兵士長はその庭師を見下ろしながら、口を開いた。

「連中が騒いでいる。またやったな。この庭園は純水でなければ維持できない。おまえが一番わかっていることだろう」
「もう水路の弁は戻した」

 庭師の男は、冗談が通じなかった時のさみしげな表情を浮かべている。口元には擦れて傷ついた微笑が形ばかり貼りついている。

「ただの洒落だよ。わずかに三方弁を開けてみた。純水を枯渇させたわけじゃない」
「知恵者のつもりか。大公自慢の庭園がご破産になったら、貴様の首を打つのは俺なんだぞ」
「私が作った庭園だ。大公は、この庭園がどう整備されているか、知りもしないだろう。ただあの高い」庭師は屋敷のバルコニーを見上げ、
「……高いところから、見下ろすだけだ。花が何輪か枯れていたって、気付きもしないだろう」
「庭師のおまえがそれを言うのか。花など枯れてもよいと?」
「悲しかったんだよ」庭師は顔をそむける。それから、すがるように兵士長を見返す。
「なあ、おかしいと思わないか。この庭園は世界中から集められた稀少な種でいっぱいだ。ほとんどが、限界まで濾過した純水でしか育たない。そして、その水を作るために、どれほどの資源が必要になると思う? そのまま調理すれば、食糧にもできるのに、この庭園を維持するため、農村から徴収した年貢のほとんどを、この水を作るために消費している……今年、村が一つ潰れた。もう誰もいないらしい」
「我々が考えることではない。すべて大公のお気持ちゆえだ。貴様も、俺も、手当で雇われたしもべでしかない。考えたり、悩んだり、そんな自由は与えられていない」
「自由? これが自由か? 気づくことが? 理解してしまうことが? ……大公は私の腕を買っているのだろう。気づき、理解する。仕組みを。この純水を定刻どれだけの開放度で使えば領民が何人死ぬか計算できる。その水一杯で何滴の黄金が買えるかを。その技術こそ、私がこの庭園を維持できる理由なんだ。かの方は、どちらにして欲しいのだ? この庭園を維持したいのか、それとも何もわからず水を撒き散らし領民を死に絶えさせ稀花を枯らしてしまいたいのか」
「黙れ。考えても、どうにもならんことがある。俺も貴様も餓えずに今日を迎えられるのは大公様にお仕えできているからだ」
「私の手は泥以外のもので汚れている」

 足の間に垂らした手は、爪の間まで真っ黒だった。

「河川の水を幾割かでも使えれば、純水の消費量は抑えられる。そう思っただけだよ」
「この庭園は魔を祓う結界でもある。魔法陣になった水路が、おぞましい幻影を高貴な方々へ夜な夜な見せる魔精どもを阻んでくれるのだ。おまえはそれを汚そうというのか」
「人の生き血……」とまで口走ってから、兵士長の瞳に本物の怒気が孕んだのを見て、庭師は肩をすくめ、青い目を何度も瞬いた。

「まあ、君は正しい。いつだって、そうなんだろう。確かに河川の水を入れれば、この庭園は終わってしまう。初めから存在しなかった幻のように。閉鎖された環境でしか、維持できない……汚水を断つ。庭師の基本だな」
「貴様の気持ちは、わからんでもない」

 兵士長は左手に帯びていた剣気を祓った。庭師の隣に腰掛ける。

「だが、赦せはしない。俺の任務は、外敵からこの庭園を守護すること。庭園そのものが自壊しようとしていては、俺にはどうすることもできない。俺もつらい、とは言わん。俺は俺自身のために、領民が瞬くほどの速さで死んでいくのを見殺しにしている。それに苦痛や罪悪感を覚える心も、もう薄い。それを保ったままでは、剣を執れない。どうしても」
「……純水でしか育たない花のように、迷う心では戦えないか?」
「そうだ」
「君も難儀だな」
「ああ、難儀だ」

 何かに引き擦り降ろされているのか、それとも振り回されているのはこちらなのか――午後の暖かな、痛みを知らない柔らかな日差しが、桃源郷のように美しく咲き誇る庭園に降り注いでいるのを、二人の男が、じっと、何かがそこに書いてあるかのように、見つめていた。






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