死にも等しい呼吸
ずいぶん小説家が増えた。
俺が子供だった頃は、小説を書くなんていうのは一種のステータスというか、変わった趣味というか、そもそもパソコンを持っているやつが少なかった。今みたいにスマートデバイスがあるような時代じゃない。根性のあるやつは原稿用紙にエンピツを走らせていた時代だ。今よりもずっと何かを作るのは大変だったし、真剣だったように思う。だからなんだという話だが。
たまに投稿サイトを眺めていると、みんな文章がすごく上手くなった。昔はとんでもない文章を書くやつが大勢いたし、リアル鬼ごっこみたいにデパートに行ったあとデパートから出たみたいな脳が玉突き事故を起こしているような文章がいっぱいあった。もちろん小説好きからはゴミクソのように扱われていたけれども、じゃあ文章さえ整っていれば面白いのか、文章力ってなんだよと言われるともう三十歳になった今でもよくわからない。一種の集団幻想というか、みんな好き勝手なことを言っていただけだったなと今では思う。文章力? そもそも力であるなら単位があるんじゃないのか。俺の文章で何ジュールの熱が発生するっていうんだ? クソみたいな話だ。
こんなにみんなが同じような文章ばかり作る時代になるとは思わなかった。一種のハンコ絵というか、ある一定の批判や否定の波を定期的に与え続けると石が削れるようにみんな同じになってしまうらしい。それが悪いというわけじゃないし、便利である部分もあるとは思う。クロスオーバーさせたりするときなんかは、汎用品みたいに納まりがいいだろう。個性や信念というのはどう考えたって取り扱い注意の劇物でしかない。ましてや結果が伴うとも限らない。
昔はもっと頭のおかしいやつがいっぱいいた。見た瞬間にヤバイと感じるやつがたくさんいた。どちらかというと、俺はそういうやつらに困らされてきたから、もっと減ってくれるといいと思いはするが、キチガイが減ると自分がキチガイの側に近づくというか、境界線が近づいてきたような気がする。俺が街に出歩いていないからなのか、キチガイがいてもいい場所がもうどこにもないのか、それとも俺はキチガイを見てもキチガイだと認識できないのか。電車で泣き喚いているやつがいると、なんとなく気持ちがわかる。なぜ泣き喚かずに生きていけるんだ? むしろそっちの方がキチガイじみている。こんな世界を承認して生きている、まるで滑り落ちていく重力のようにしか感じていない「一般人」を見ていると、イライラしてくる。頭おかしくなって机の上でなぜ飛び跳ねない? そっちの方が自然だ。
子供の頃は、周りの人間が大人に見えていた。新都社に来たのは高校生の頃だから、まわりは大人がたくさんいた。いつか自分もあんなふうに大人になれるのかな?と思いながらひたすら小説を書いていた。
俺は大人にはなれなかった。
今も狂ったように小説を書いていた頃と、本質は何も変わっていない。俺は周りの人間の価値観が理解できないし、常識というものがアマゾンのダンボール箱に過剰に入れられているペーパークッション程度にしか思えない。いるのか、こんなもん。そう思いながら折りたたんで捨てている。
自分が特別だと思うのは精神疾患という。俺は自分をナポレオンだと叫んで死んでいったやつの気持ちがわかるし、そういうやつらを鼻で笑うやつらと生きていくくらいなら死人の墓参りでもしたほうがマシだと思っている。死んでいったやつらのことをみんな簡単に忘れすぎだ。多少はブッ殺されて思い出した方がいい。
俺が好きだったやつら、好きじゃなかったやつら。
みんな死んだ。
社会に負けて折れていくやつらが、俺の周りには多すぎた。たまに仕事のことで、愚痴を聞いたりもするんだが、だいたいは上司を殺す以外に解決策がない。もっと簡単に人が人を殺せる社会になった方がいい。ウィルスミスは何も悪くない。死や暴力は相手に理解を求めるもっとも簡単な手段だ。絶対に逆らって来なくなる。ありがたいことだ。
こういう思考回路が異常らしい。ただ俺に言わせてもらえれば、俺が特別なんかじゃなく、みんな自分が、誰一人として例外なく特別であり交換不可能なパーツであるということから目を逸らしたいだけだ。自分自身を大切にしていけば、ゆくゆくは相手に消えてもらうしかなくなる。それが自然の摂理というものだ。
俺は俺のいうことを聞かないやつらをみんな切ってきた。もう誰も俺のそばに残っていない。それを寂しいとも思わない。自分が特別であり、相手も特別だということを直視し続ければ自然とそうなる。相手も譲れないだろうし、俺も譲れない。だったら殺し合うしかない。生き残った方が明日にいける。どんな明日になろうとも。
俺は、俺が好きだったやつ、生きていてほしかったやつらを殺したこの社会を許さないし、認めるつもりもない。俺からすれば欠陥品のゴミでしかない。
ブギーポップが言っていた。泣いてるやつを見過ごして歩き去るなんて最低だと。
あれから三十年近く経っているのに、俺たちが抱えているトラブルも、苦痛も、なんのアップデートもされずに残っている。下手な記憶媒体よりも強烈な自己保持がかかっているとしか思えない。うんざりする。俺たちがいくら叫ぼうが、飛ぼうが、ハネようが、ぶっ殺す以外には人間は理解してくれない。
だから小説を書くのが嫌になった。だからずっと書くのをやめていた。
俺たちが死ぬような思いをして、それで社会が何をしてくれる?
カクヨムなんかをうろついていれば、昔だったら小説書きとして名乗っていておかしくなかったようなやつらがごろごろいる。
大勢いるから無価値なのか? 数が足りていれば死なせてもいいのか?
そんなわけがない。たとえ誰の目にも止まっていなくたって、技術は真実だ。腐ったりなんかしない。否定することもできない。足りているからなんだっていうんだ。代わりがいるからなんだっていうんだ? 代わりがいるかどうか、なんで誰かが決めるんだ。
それを決めていいのは本人だけだし、その意思を踏みにじることは誰にもできない。なんで俺たちが呼吸していいかどうか、誰かが決めるんだ? その誰かをこそぶっ殺してしまえば、俺たちは自由になれるんじゃないか?
どうせ誰かが泣いていても知らんぷりして歩いて行くだけのゴミ、そいつらが死んだから、それがどうしたっていうんだ。踏みにじられる前に踏みにじるしかないんだ。
俺たちはもう、それが許されるくらいには死にすぎた。
そう思う。