忘れ続けて
まったく体重が減らない。2ヶ月ほど食事管理とリングフィット・フィットボクシングとウォーキングをやって毎日500キロカロリーは消費している。でも減らない。
太ってから三年近く経つから、やはりすぐには落ちないのかもしれない。食べて筋肉をつけながら基礎代謝を増やすべきか、そんなことよりまずは体重を減らさないと肥満による健康被害が大きいのかもよくわからない。体脂肪率が30%手前をうろうろしている。
とはいえ、ダイエットを始めてから健康になった気はする。日中の眠気やだるさはかなり軽減されたし、歩くことも苦にはならなくなった。一つ前の駅から歩いて帰るなんて意識の高いやつのやることだと思っていたけれども、往復でそれをやっても一日の消費カロリーに届かなかったりする。恐ろしい世界だ。
あまりにも痩せないものだから、なぜ顎が痩せないのか各地で議論されている。結論は出ない。単純に年齢的なものかもしれない。俺ももう三十歳を超えた。人生は疲れる。
定期的に文章を書くべきだなと思う。なぜかというと、文章を書かないと心の中の内圧が上がって、リアルで余計なことを口走ったりする。イキがりたくてカッコつけたことを言いたくなる。そんなのは自分の中の妄想でやったほうがいい。現実の他人は簡単に傷つくし、関係はこわれてしまう。信じられるものなどなにもない。攻撃的な自分自身の真実は、創作のなかに封じ込めておくべきだ。一種のセルフメデュケーションであり、そうやって自己圧を管理しているやつらには保護金が出されるべきだ。俺たちは守られるべきなんだ。
マウスの調子がおかしい。電池が切れたか。それともずっと使っているから傷んできたか。シャギシャギする。俺は昔の病気の名残で、キーボードやマウスの直感的な操作ができないと発狂する。なんとかしたい。先日ぶっ壊したキャプスロックのキーはまだ外れたままだ。永遠に外れていればいい。創作病。
小説を書かなくなって、もう何年にもなるけれども、ネタ出しはしていたりする。いまだに七年前からのプロットをいじくっている。もうやめればいいのに。書くことが楽しかったりメリットがあったりするならやる動機もあるが、俺の場合はひたすら自分を痛めつける自傷行為に近い。だからやるのはリスクがある。こうやって文章を垂れ流しているだけでも、一種の中毒的な感じがある。事故で指がなくなったやつが、仮あての指を外して傷口の名残を眺めているのに似ている。なくなった指は戻らない。かといって、仮あての義指を本当の指と思い込むこともできない。だから定期的に確かめる。俺に指はないのだと。
最近、チェンソーマンのアニメが話題だけれども、俺は見る気がしない。ジョジョのアニメを見なかった時に近い。原作者が十分によいものを作っているのに、それをアニメにしたからなんだというんだろう。動いて音が出ればいいのか。そんなことを言ったら怒られるかもしれないが、アニメはアニメ、漫画は漫画、小説は小説で分かれているべきだと俺は個人的には思う。少なくともメディアミックスはお祭り要素であって、それを軸にしたビジネスは危険である。小説しか書けないやつが死ぬからである。俺はもう死人を見たくない。
みんなジョジョが大好きだったのに、ジョジョ立ちもしなくなったし、ジョジョのセリフもパロらなくなった。みんな最後はそうだ。忘れて捨てる。それが人間。庵野みたいに60近くにもなってウルトラマンだのゴジラだのを忘れず作れる人間のほうがおかしいのだ。だから、俺はおかしい人間のいなくなったこの世界が好きじゃない。派手に吹っ飛んで壊れればいい。
俺は自分が書いた小説をすぐ忘れる。特にわが地獄の原稿はすぐに忘れる。だから久々にみんなで通話したんだけれども、「~の原稿が」と言われてもうっすらとした記憶、だいぶ前に卒業した学校のクラスメイトの顔レベルには思い出せるんだけども、詳細は相手に聞かないとわからない。だからこれが悪化すると「一度書いたことを忘れて永遠と書き続ける」という状態になる。この原稿で話題にしていることだって、もう十分に書いたことなのかもしれない。でも、誰かの反応を得られなければ、「書いた」という認識にならないから、その手応えのなさが記憶喪失を呼び起こして俺はまた「書けば伝わるかも」と虚しい希望を抱いて書き続ける。そして、何があっても書くのをやめないド級のバカの正体はこれだと俺は思っている。楽しいから書く、ではなくて、あまりにも相手にされないから書いたことを忘れて書き続ける。ストーカーが出した手紙の枚数を忘れてとりあえずまた書くかと筆をとるのに似ている。べつに悪意があるとか理由があるとかじゃない。単純にイカレているのである。孤独は人間をおかしくさせる。そして孤独は何かを作り出す源泉になる。たった一度でうまくいくやつはそうそういない。自分がやったことも忘れて何度もこすり続けるド級のバカだけが何かを作り出す。失敗したことすら忘れているんだから負けようがない。最強のストーカーである。愛のストーカー。
あまり先のことを考えないほうが幸せな気がする。どうせろくなことにならない。来年の3月には資格に合格して~とか取らぬたぬきの皮算用をするくらいなら、明日の自分のためにイヤホンを充電してやったほうがいい。自分のことは大切にしたほうがいい。誰も大切になんかしてくれないんだから。この世は地獄なんだから。
いまカクヨムを見たらリワードが総獲得3800が失効して250まで減っていた。クソバカである。交換してアマギフにしよ~とせっかく文章で稼いだのに、このざまである。アマギフじゃなくてペイペイとかと提携してほしい。稼いだら自動的にペイペイに振り込まれる。そういうふうにしてほしい。
小説を書く、読む、というのが、YouTuberほどではないにしても、なんらかのメリットがないともうやるのはしんどいんだろうな、と思う。奈須きのこは若い頃、無人島に持っていくならワープロだと言っていた。いまでもワープロを持っていくと答えるのだろうか。デキはどうあれ、そこまで何かを好きになれること、そこまで現実を嫌いになれることは才能だったんだろうと思う。奈須の世代、1970年生まれは恵まれていた世代だ。この世代から下はポケモンが発展したくらいしかいいことがない。また、すでに完成度の高いものが供給され続けた世代だから、クリエイターも減るだろうと思う。もちろん好きでやるやつは残る。好きじゃないけど、それしかできないからやるしかないというキチガイラインのクリエイターは減る。そういうやつらが生きていける余地がもうこの世界にはないから。キチガイなくして創作なし。諦めろ。
秋の心地いい風が窓から吹き込んでくるような、穏やかな時間がなければ創作なんてやれやしない。常に明日、常に未来、節税して出世して他者よりも充実した毎日を送ろうとすれば創作なんてしない。する意味も必要もない。だから、カクヨムリワードにしろ、広告収入にしろ、なんでもいいんだけど、日銭でいいから「やったこと」に対する手応えと報酬がなければ続かんだろうと思う。無人島にワープロを持っていくやつは少ない。俺は持っていくかもしれない。スプラトゥーンが上手じゃないから。
クソみたいな仕事で年収250~300万。だから創作で年間100万近く稼げるようになればクリエイターは増えると思う。年間1000万稼ぐやつは搾取していい。大切なのは、足りない100万の埋め方なのだ。800万稼いでるやつが1000万稼ぐようになるよりも、250万のやつが450万になったほうが全体的な戦士の数が増える。たいした戦士でもないのに1000万稼いでるやつなんて害悪でしかない。そいつにはそいつの事情があるにせよ、そいつが生きているせいでほかの作者が伸びないならそいつをブッ殺していいと俺は思う。でなきゃ才能なんて発見されない。ただでさえ少ないレア個体を隠すような要素は不要な係数でしかない。死によって道を開けろ。
もう書かなくなったのに、こういう業界の話とかを考える。立派な病気である。もっと楽しいことはいくらでもある。スプラトゥーンとかポケモンとか。でも俺はやっぱりそういうのが上手じゃない。他者と競って上達していきマウントを取る。それも楽しいのはわかる。でも俺は本質的にはそういうのに適正がない。無人島でワープロ型の人間なのだ。他者の存在が必ずしも必要じゃない。だから孤独になる。おかしくなる。何か作り出す。こればっかりだ。
言葉遊びはうんざりする。清涼院流水と西尾維新が始めた言葉遊び。ダジャレはうまくハマれば面白いかもしれないが、それに縛られたら意味がないと思う。俺もいま腹案で言葉遊びをしているけれども、「褒めてもらうため、ニヤリとしてもらうため」にやってることなんて嘘だし偽物だと思う。だから破壊した。ベースとなる根幹の要素を肉厚にして、そういう言葉遊びは全部捨てた。うんざりする。最初の一発目だけはいい。二発目からは色褪せる。そんなのは疲れる。
カクヨムのジャンルを眺めている。異世界、現代、SF、ラブコメ、ホラー、ミステリ、歴史。
どれも俺が読みたいものじゃない。
小説のジャンルってこれだけだっけ? と思う。そうかもしれない。じゃあ他になにがあるんだよと言われればよくわからない。「祖父と卵の戦争」は歴史もの、戦争ものになるんだろうか。よくわからない。最近、海外小説ばかり調べているけれども、海外のほうがこういったジャンルの幅には寛容な気がする。それでも海外には海外の縛りみたいのが透けてみえてきて、自由じゃないなと思ってあまり読まなくなってしまった。
俺は飛び抜けたバカが作るものが読みたい。
仮面ライダーギーツが好きすぎて、エグゼイドを見直したくなってくる。ゆうやタイプの作家のもっとも危険なところは「そいつじゃないと満足できなくなる」ところだ。一度した贅沢は忘れられない。もうマクドナルドがおいしく感じられなくなる。一晩漬けてよく染み込ませた肉の味が忘れられない。そしてそういう製法が誰にでもできるわけじゃない。だから継承者がいなくなったら餓える。それがつらい。苦しい。やめてほしい。
脳に響く作品というのはたしかにある。そしてそればかり追いかけていたら地獄に落ちる。なのに、わかっているのに探すのをやめられない。もう終わったテレビ番組の「次の話」をグーグル検索で毎日探してるようなもの。あるわけない。イカレてる。
なのに探してしまう。
だから、俺はクリエイターを殺すなと言ってる。困るから。餓えるから。自分で作りゃいいとはもう言えない。そんなの疲れるし自分と永遠に向き合うことになる。指のない自分の傷口と。それはやっぱりおかしくなる。アカギの世界の生き方であって、ハンチョウの世界の生き方じゃない。戻れなくなる。人じゃなくなる。おかしくなる。
だから疲れる。嫌になる。
まァでも、大切なのは自分の中にある余裕だと思う。
作者を信じてフラットな気持ちで読まなきゃ楽しめるものも楽しめない。
そういう信じるとかどうとかをキャンセルしてくるパワー系の作品がラクなのは確かだけど、そうじゃない作品も楽しめたらいいなとは思う。
俺は何が読みたかったんだっけ。
ラブコメもたくさん読んだ気がするし、しょせん人間関係なんて壊れるもの、信頼するに値しないとしか思えないから身が入らない。他人に期待するのは相手の尊厳を軽んじている気がする。どうせ世界はろくなことにならないんだから。
じゃあ異世界モノかなとも思う。ただリアルがちょっと充実気味だとあまり異世界モノは刺さらない。「この世界はクソ!」と確固たる信念と安い賃金とコンプライアンス違反にまみれた労働環境じゃないと異世界モノは楽しめない。この世界が嫌いであればあるほど異世界モノは染みるようになるから。俺は今の職場はよううやくストレッサーになるバカがいなくなったので、そこは落ち着いてしまっていたりする。だいぶ苦労して得た職場だが。
SFはどうかというと政治が絡んだ話は嫌いだから全部パスになる。もう政治を絡めるのやめてほしい。興味ない。この世界は壊れるさだめにあるのだから、仮面ライダーが政治利用されたとかそういう話はもういい。疲れる。どうせなら幸せなSFが読みたい。リア充がみんな死に絶えて俺たちHSP系統の人間だけが生き残った理想郷の話とか。俺が書くと「幸せになった。おわり」で終わっちゃうんだけども。
じゃあホラーはといえば現実のほうがホラーである。終わり。
歴史はどうか。幕末は好きかも。
ミステリ。すでに百年前にネタ切れを起こしている。技術的継承は必要だと思うけど、それに囚われてしまっては意味がない。言葉遊びならぬトリック遊びであって、それが好きじゃないと厳しい。
終末。悪くない。読むかも。
この世界が嫌いだから、異世界にいくか、終末でのんびりするかの二択にどうしてもなってしまう。異世界は飽和しているからやっぱり終末がいいんだろうか。
「吸血鬼とセレン」みたいなタイトルの終末カフェものを電子書籍で買ったけど途中で積んでいる。別につまらないわけじゃないんだけれども。また読んでみようかな。
終末ものというのは、ヨコハマ買い出し紀行もそうだけど、根本的に「人間多すぎてうんざりした都会人の癒やし」という要素があって、俺も関東在住だから、人間の多さには辟易している。毎日毎日ニンゲン。こんなにいらない。
だから、ニンゲンの数を適正値まで減らした世界、というSF要素としての終末というのはバランスがいいんだと思う。定期的に夏にスーパーカブで走り出す小説が出るのもそのせいだろう。みんなニンゲンにうんざりしている。そもそも江戸時代で3000万人しかいなかったのに、百年で1億2000万まで増えすぎである。血も濃くなるし。メリットがない。
なんだかいけそうな気がしてきた。むかし「レッド・グリーンバイタリティ」という終末小説を書いたことがあるんだけども、どんな話だったか思い出せない。スイカが出てきた気がする。
やっぱり一度書いたのに忘れるということは、またやってみようかというエンジンになる。
忘れるのはよいことだ。