ウネルミナモ
ウネルミナモが使いたい。
みんなウネルミナモに関してはカッコイイ!と称賛していたり、「ホウオウが死んだ犬を蘇生させてスイクンにしたんだから古代にウネルミナモがいるのはおかしい!」と怒っていたりする。
基本的に俺は、俺の友達とか、親しい人は、ホウオウ派が多い。といっても一人しかいま思い当たらんのだけど、誰に聞いてもホウオウ派では、という気がする。
自分の周囲に自分と同族がいない、という悲しみと残念さを、俺は「ピッチャーの悲しみ」と呼んでいる。ピッチャーに必要なのはキャッチャーだ。でもキャッチャーにはピッチャーの気持ちはわからない。絶対にわからない。これはむかし、わが地獄で同じ題材を書いたことがあるから気が向いたら探してみるのもいいかもしれない。
こう書くと、おまえこそキャッチャーの気持ちがわからんやつじゃないか、と言われそうだけれども、俺は最初からキャッチャーの気持ちがわかるなんて言っていない。俺たちピッチャーはいつもキャッチャーの「これって当然そうでしょ」に押しつぶされている、という話であって、それも含めてピッチャーの悲しみなのだ。
いつだって八人の野手にギャアギャア言われるのが俺たちの運命であって、それはやっぱりピッチャーじゃないとわからんのだ。絶対に。
ホウオウに死んだポケモンを蘇生させる力がある。それはいい。じゃあ、古代だって同じように死んだポケモンをホウオウが蘇生させて、元のポケモンの性質の違いからスイクンではなくウネルミナモになったのかもしれんじゃないか。
そう言うと「そんなのは都合がよすぎる、おまえが自分の意見を通したいだけだ」となり始める。本当にうんざりする。会話にならねぇ。好きにしろって感じだ。
別に俺と意見が合わんことを否定する気はない。俺が正しいなんて思わん。それにしても、常に自分の周囲にキャッチャータイプの意見しかないというその窮屈さが気に入らんと俺は言ってる。どこかに俺みたいに「別にスイクンの出自とウネルミナモの出自は矛盾するとは限らねぇだろ」と言ってのけるやつがいてほしい。それだけだ。
ウネルミナモはパラドックスポケモンだから、その矛盾こそがパラドックスなんだ!みたいな耳あたりのいい意見にもウンザリする。それはたしかにそうなんだけど、その言葉のツラのよさで思考が一気に停止していることに気づかないんだろうか。
俺は気持ちよくウネルミナモを使いたいだけなのに。
獣脚類っていいよね、って話がしたいだけなのに。
本当にウネルミナモを「是!」としているやつらは、たぶん大きさ最大値のウネルミナモの厳選をしてるやつらなんだろうなと思う。もう「これっていいよね」、っていう話をすることはできないから、自分の満足のためにコミュニケーションせずに行動することしか「是!」を通せないのだ。それはそれで男らしいというか、武人ぽいというか、いいんだけども、切ないのは切ない。
スイミーになった気分だ。自分の周囲に誰かはいてくれる。親切にしてくれたり、優しかったりはする。でも根っこの部分で同意してくれたり共感してくれたりはしない。黒い魚の中で俺はどうしても赤なのだ。
アナと雪の女王もそういう話だ。エルサは結局、アナと家族であろうがなかろうが、国がどういうかたちに収まろうが、人間世界にはいられずに精霊の国に行った。あれこそピッチャーの末路だ。
結局、仲がいいとか悪いとか、そういうことではなく、『異質』なものは、同じ世界で暮らせない。アナ雪2はそういう話だった。歩み寄ることはできる、それは結構なことだ。で、歩み寄ってくれたところで、なんだっていうんだ? ウネルミナモはホウオウ伝説と矛盾する!って言われて、俺はどうすりゃいい? 俺はウネルミナモが好きなんだ。別にそれを押し付けるわけじゃないし、嫌いなのは構わんけど、一から百までそれで通されたら辛い。どうすりゃいい?
俺たちは神様じゃねぇ。
いつも頭ごなしに否定されたら気分がよくない。
なんだけども、やっぱりホウオウ伝説を蔑ろにした結果、つくられたものがウネルミナモだ!と彼らは感じるらしい。設定があとで翻ることは、彼らにとって屈辱なのか恐怖なのかわからないけど、「否!」になるらしい。
俺はむしろ、既存のものに縛られて身動きができず、オドオドビクビクしたものを作られるくらいなら、「ホウオウ伝説? 金銀の頃の眉唾の話なんだからそんなの俺が壊すに決まってるでしょwww」と言って、平気で他人が大切にしてきた思い出や常識を破壊してしまうやつについていきたい。そういうやつを推してきたし、これからも推すと思う。
既存のものの再生産には絶対に限界があるから。
よく考えてみりゃわかる、たとえばポーカークラブで「ここは会員制だから……」と新しいやつを拒否していったら、誰かが欠けていくたびにポーカーテーブルから人がいなくなる。最後には誰もプレイしなくなる。なんでそれがわからないんだろう? どんなに気に入らなくても、「変化」を否定すれば死ぬ。収束してしまう。
たとえ何もかもダメになるとしても、ポーカークラブはオープンにしておく必要がある。たとえそれでメンバーの質が悪くなって閉店になったとしても、それはそれで仕方ない。閉塞して収束してしまうよりはマシだ。そのなかの何人かが新しいポーカークラブを作るかもしれない。
少なくとも、ゼロかイチでいえば、イチ寄りのやり方だ。
ゼロで終わるものに、俺は興味も価値も感じない。
ポケモンは情報戦だ、と友達が言っていた。情報を多く握ってるやつが勝つんだと。
それはつまり努力の積み重ねの世界だ。
厳選したポケモンをいち早く環境に投入する力。ポケモン同士の相性を把握して場面に落とし込む力。
たくさんのプレイヤーが同じ土俵で対戦する。
これは、俺たちADHDタイプが生存できない世界だ。
俺たちは『わからん殺し』を生存の第一原則にしている。ポケモンは情報戦であり、調べれば種族値や努力値や個体値はすぐにわかる。あとはそれをどれだけ努力して自分の中に落とし込んでいけるかだ。つまり、上手いやつのマネをすればすぐに強くなれるし、そうやって追いかけていった先に『価値』や『勝利』がある。現実世界よりはフェアかもしれないが、それでも俺たちには厳しい。
相手が『どうマネすればいいかわからない、なぜこういうカタチになるのかわからない』と言って、追いつこうとする気力を失わせるのが俺たちのやり方であって、俺たちの価値だ。俺が自分の小説を書きまくって、『なぜおまえはこんなにバカなのに、こんなにおもしろい小説が書けるんだ?』と言われてきたように、努力じゃどうあっても埋められないところでアドバンテージを取るしか、もともとの性能がよくない俺たちは生きていけない。
たとえばチェンソーマンに憧れたやつがチェンソーマンのようなものを書いても上手くいかない。アキのようなキャラ、パワーのようなキャラをデッドコピーすることはできるだろう。でもおそらく、再現しても決してチェンソーマンにはならない。その「なぜ復元できないか」に答えを見出すこともできない。各種の要素は踏襲している、それなのになぜ再現できないのか?
作者すらそれを理解できてないなんて、ほんとはザラにある。
ポケモンや、今の世界で流行しているあらゆるものは、踏襲の先に復元や再現が可能になってきている。それが『安心』であり、時間を賭けるに値する『担保』なんだろうと思う。
時間さえかければ誰でもできる、と。
時間がないからできないだけだ、と。
もっとこうすればうまくいく、という方法則を否定はしない。でも、それだけが流行して覆い尽くされた世界は、『ピッチャーを置くとキャッチャーの指示通りの球を投げるとは限らないから、ピッチャーマシンを置いて野球は8人でやろう』という世界に等しい。まぎれや運をなくしたほうが公平だし、予測もつけやすく、何かあっても納得しやすいというわけだ。
そんなものは俺はくそったれなゴミだと思う。
そのさきには、何もない。ゼロがあるだけだ。
だから、俺はポケモン対戦が嫌いだ。楽しんでいるやつはいるし、それを否定はしない。俺がヘタクソだし努力もしないから楽しめないのもわかる。好きなポケモンが弱いなら、起点型にするなり工夫すればいい、そういう考え方のほうが妥当なのもわかる。
それでも俺はウネルミナモで無双がしたい。
俺はウネルミナモを使って、なんらかのストーリーモードがやりたい。
自分がウネルミナモと(好きなポケモンと)旅をしている、その没入感が欲しい。その没入感は対戦にはない。
自分がその世界にいる、と感じられることこそ俺の絶対の条件であり、そこに人間同士の『勝ちたいという欲望によってコントロールされた環境』は必要ない。
歪んでるのはわかるんだけど、ウネルミナモ実装に対して、使い道が対戦しかない今のポケモンは、俺にとっては苦しい。
PVE要素というか、対戦がヘタクソなやつでもやり込めるジムリーダーやスター団とのリトライ性のあるバトル要素とか、ウネルミナモにライドできるようにするとか、俺が神様だったら実装する機能が欲しい。
それはわがままなんだけども、俺は、自分のわがままが通らない世界に興味が湧かない。
だから他人が存在する限り、自分のわがままが通らないなら、他人は必ずしも必要じゃない。
そんな気分でいるので、カッコイイなあ、と思うポケモンが実装されたのに、使い道がなくて、いまいち楽しめない。
それがつらいなあ、と思う。
「項羽と劉邦」を読んでる。
内容に関してはともかく、下巻まできて、目が滑るようになってきた。これはこないだの文章でも書いたけれども、俺自身の内面の問題なんだろうと思う。疲れてきている。疲れてきて、すぐに気が散って、読書に集中できていない。本当に集中すれば、別に1~2行読んだだけでも「おもしれー」ってなる。深く読み込むというのは、それだけで一種の快感がある。それを感じられないのは、俺自身が疲れているからだ。
仕事なんかしてるからいけない。
俺はいつも、仕事していて、ちょっとコワモテで厳しい人に評価してもらえることがある。みんながビビってて、ムスっとしてる感じの人。俺はその人が怖いし、何か言われると面倒だからきちんとやるんだけど、そのきちんとやる感じが、そういう厳しい人たちにとって「こいつは多少マシ」という評価になるらしくて、多少は認めてもらえる。
けれども大団円とはいかずに、俺は根が不真面目で独断専行も多い。だから、そういった人たちに気に入られるようになるまでにやってきた「きちんとした仕事」は、俺は無理してやってる。だからいくら評価してもらえても、無理してやってる仕事だから、やっててしんどい。
じゃあ、大した給料も貰ってないんだから、テキトーにやればいいじゃねぇか、となるんだけども、それが逆に難しい。根が不真面目なくせに凝り性だから「ここはこうしといたほうがいい」とおもったら、そのとおりにやりたくなる。だから、完全に仕事を投げ捨ててるやつらと仲良くはあまりならない。内輪ネタの感じの雰囲気に、俺が溶け込んだことはない。俺はいつだって『異物』だ。
だから、仕事をしていると、疲れる。
無理して頑張って、給料が増えるわけでもなく、多少認めてもらえたところで本音はラクして生きたいだけだから、何もかも許されるなら職務なんぞ瞬間で放棄して家で寝てたい。それが俺の本質だ。
どっちにも馴染まない中途半端な存在。
誰だってそうだよ、といったところで、多少はどっちのポジションに割り切るか決めて生きてるやつがほとんどだ。俺みたいに「ものすごく不真面目になったかと思えば、どこまでも完璧にやろうとする瞬間もある」みたいなやつが使いやすいわけがない。いつだって「本当はもっと使いやすいやつがいい」と思われてる、不都合な存在だ。
困ったなあ、と思う。
仕事をして、創作意欲も失ったし、うつ病にもなったし、多少は喰っていける給料はあるにしたって、だいたいアップアップしながら生きている。
ウネルミナモで無双するくらいいいだろ、と思う。
俺だけズルをして、対戦環境でまじめにやってるやつらにスカーフメガネ複合アイテムを持った改造ウネルミナモで無双するとかやりたいなあ、と思う。これこそ対戦環境を破壊する最悪の害悪じゃねえか、と言われるかもしれないが、収束した世界でキャッキャと楽しんでるやつらを自分と同じ最悪の気分に落としてやりたいという欲求が俺にはある。犯罪者の思考回路だ。自分の思い通りにならないなら、いっそすべてブチ壊してやりたい。
ちょっとでいいからそういう少しだけいい思いをして、満足したら、また自分のクソな生活に戻る。それくらいの『お祭り』が俺たち報われないものにはあってもいいんじゃないか?
これを行動に移したやつが犯罪者である。つまり俺はもう思考回路的には犯罪者と変わらない。それが環境のせいなのか生まれのせいなのかは知らんけれども。
項羽と劉邦を読み終わったら水滸伝を読もうかと思っている。
たぶん読まない。
自分の読書経験からして、読み終わった後に読む次の本は、そのときに決めた方がいい。あらかじめ「これが終わったらこれ」と決めておくと、そのとき進行形で読んでいる本に集中できなくなる。
次に読む本が何か、そもそも次を読むのか、わからない方がいい。
俺はいつも、何か作る時、「これが俺が書く最後の小説だ」と思っていた。シマウマの頃からそうだった。シマウマを最初に書いたときは大変で、JPEGかなんかの牌画像データを挟みこむカタチでアップロードするだけで大変すぎて「もう二度とこんなのやりたくない」と思いながらやっていた。
これを終わらせたら、もうこれをやらなくて済む、と思いながらやっていた。
いま思うと、「次なんかない」という意識が、集中力に繋がっていたのかもしれない。
「次」なんて、ただのつまらない言い訳にすぎないのかもしれん。
『今はひとまず、練習だと思って軽くやってみる。そしていつか、継続した努力の成果を受け取る』
いかにも岡本太郎がヘドを吐いて嫌いそうな文句だ。
次とか、いつかとか、そんなものは存在せず、今という瞬間しかない。
俺はそれをできれば否定したかったけど、振り返ってみるとどうしてもそれが真実だったように思う。
連載作家、商業作家になれば、必ず「次」を考えろと命令される。「次」がなければ、売れないし、売れなければ本が出せないと。
そう思うと、商業作家はみんな可哀想だ。
もうこれで終わり、俺の名の下にこの物語を完結させる!という絶対の独裁権を失ってしまっているわけだから。その代わり、勝手に打ち切りを食らったりはする。
独裁政治はいい。とても落ち着く。
誰も俺に逆らえない。俺が決めた筋を、俺が最後まで通す。そこでどれだけの悲鳴が上がろうが無視して犠牲になってもらう。
それこそこの世の正しいあり方だ。
誰もが俺のために生きて、俺のために死ぬ世界になればいいのに。
心の底から、俺はそう思う。
小説のネタを考えている。
いつもここでぶちぶち言ってるとき、「俺がまた小説を書いてることを誰か期待してくれたらいいな!」とちっちゃいことを期待しながら書いていたように思う。いくらなんでも、もう期待されるようなやつじゃないし、期待してもらっても書けないんだからしょうがないんだけども。
それはそれとして、その情けなさを飲み込みながらも、ネタを考えている。
コメディは無理だな、と思った。俺はやっぱり、この世界が好きになれない。この世界が楽しい場所だという実感もなければ、『こうあってくれたら俺も世界に優しくなれる』という環境を、俺自身がもう想像できない。だからわからない。コメディを書くのはやめる。
でも、ひたすら暗い話も書くのは辛いなあ、と思って、うんうんうなっていたんだけれども、昨日ふと、もう人間を書くのはやめたらどうか、と思った。
まあ人間というか、人間の亜種を書いて、もう人間に関しては諦めろ、と自分に対して思った。たとえば吸血鬼しかいない世界を書くとか。
俺はもう誰かからギャアギャア言われたくない。だったらそのギャアギャア言うやつらが絶滅した世界を書けばいい。
俺だけの理想世界を作ればいい。
ふとそんな気になった。で、資料とかも調べてみたけれど、類似作があまりない。
類似作がないということは、俺がやれば俺がルールになるということだ。
俺は自分が絶対のルールでありたい。他人が作ったルールは否定したい。
もしそれが本気なら、それを活かせる舞台を作ればいい。
ただこれは危険性もあって、俺は吸血鬼アレックスを書いてる頃、吸血鬼のことばかり考えていたら人を噛みたくなった。こう書くと「知ってるよ、ハンタのクラピカが鎖なめたりしてたやつでしょ」というかもしれないが、それを本気で誰が見てるわけでもないのにその感覚を感じてるやつがいたらキチガイだ。そして俺はすぐキチガイになれる。ちょっと横断歩道の白いところだけ踏もう、みたいな気持ちでキチガイの世界に没入してしまう。
自分が人間じゃないような気分になるのは、鏡に向かっておまえは誰だと言い続けるのと同じくらい危険な気がする。それでも、臨場感やリアリティというのは、作者が狂ってれば狂ってるほどに鋭利になる。
だから、困ったなあ、と思う。
ただ、いずれにせよ、もしやるなら、「これは習作だから」みたいな気持ちで作りたくないなと思う。今は練習して、後から本番!みたいなのは、結果として最初のやつが習作になったよね、という見方ができる場合であって、最初から習作だと思って作ってたらダメな気がする。
いつだって、これが俺の最後の作品、と思ってないと、たぶんダメだ。
困ったなあ、とまた思う。困ってばかりだ。
どう考えたって苦しい道なのに、進める道はそれしかない。
もっと気楽に書ければなあ、と思うけれども、やっぱりどうして苦しいのは、これだけ作者が増えたからだとは思う。ほとんどのことは、誰かが先にやってしまう。
生き延びるためには、他人と足並みを揃えない必要がある。
作者が増えたのはいいことだし、なろうもカクヨムも俺は否定しない。昔、商業作家で「こんなに小説を無料公開されたら俺たちは食い詰める。営業妨害だ」といったやつがいた。たしかにそうだ。それでも、書いて読む、ということがオープンソースになったのは、いいことだったと思いたい。もちろん情報が氾濫して、「自分が本当に好きな作家」を見つけるのが難しくなったり、作家でしか生きていけないやつが軒並み死んでいった事実はあるにしても。
最近は、初速が伸びなければすぐ打ち切りにしてしまうのがネット小説の効率的なやり方らしい。じっくり育てる、みたいなことはしないほうがいいらしい。
俺は、それどころか読者が減りに減って数人しか残らないようなやり方をとるやつが増えてほしいな、と思う。
『一人でも読者がいれば書く』というのは、書き手にとって、なんというか、理想論の極致ではあるけれども、一人の読者や一つのコメントを大事に思う気持ちは必要だと思う。それを否定するのは簡単だ。カネにならないんだから。
それでも、善悪や損得は別にして、自分の中の燃料にできるなら、それがカネや評価じゃなくてもいいじゃねーか、と思いたい。
もっと言えば、ただ書く、ただ作る、ということだけに集中できればいいんだけども。
キチガイに優しい世の中になってくれればいい。