トップに戻る

<< 前 次 >>

インポスターになろう

単ページ   最大化   





 幸福になろうとすると不幸になる。というか、幸福になろうとしても幸福になることなどあり得ない。そんな気がしてきた。

 ネットで『生きていたくない』とか検索すると、知ったような記事が出てくる。考え方を変えるとかたまにはリラックスする時間を作るとか。死ねという感じだ。
 で、たまに収益化していない個人ブログなんかを見てみると、だいたいのやつが追い詰められていて、更新が途絶えている。死んだのか飽きたのか。記事を書くほどの元気もないほど日常に憔悴しながら生きているのか。
 そういう個人ブログの、金なんてもらっていないやつのささやかな記事のほうが、俺は価値があると思う。
 座椅子が欲しくて座椅子を調べている。今ではもう忖度された記事ばかりだ。どういう構造になっているのか知らないが、「この座椅子はクソだから買わないでください! 買うならこれです!」みたいな、純粋に調べて純粋にそう思う、みたいな情報がほとんどない。どの記事も案件ばかりだし、座椅子のランキングなんて読者がどれを読んでどの座椅子を買おうが自分のアフィリエイト記事から飛んでくれればそれでいい、みたいな考え方。みたいな記事。みたいな書き口。
 それで金を稼がなきゃ生きていけないんだから仕方はないが、情報というものの価値が暴落しているような気がする。
 結局、どの薬が効くかとか、この病気にはこういう特徴があるとか、そんなことはどうでもいい。俺たちの苦しみは間違いなく存在していて、同じ気持ちを感じているやつが存在する。その事実のほうが価値がある。
 なんだか疲れてしまった。まあ、もうずっと疲れているわけだが。


 エッセイを書きたい気分でも、書くタイミングを逃して、ぼんやりしているうちに日が過ぎた。
 本当は『最後までいく』の感想を書きたかった。あれは好きな映画だった。
 前から言っているけど日本語って『面白い』とか『楽しい』とかしかポジティブな表現がなくて、『エモい』なんて英語からパクってきて浸透してきたのに、それを補完するような日本語が生まれる気配がない。つまりこの国はそういうポジティブな感情の蓄積がないんだろうと思う。エモーショナルなこともなかったし、インタレスティングなこともなかったわけだ。はやく滅んじまった方がいい。俺は外国が好きなわけじゃないが、日本という国は恥ずべきゴミだと思っている。俺は『エモい』の日本語版が欲しい。それがそんなに悪いことか?

 さすがにポメラを起動してなさすぎて、さっき駅からの帰り道で『休みの日は目覚ましで午前中に起きる。そしてポメラを必ず起動するんだ』と息巻いていた。結構なことだ。理屈は正しい。時間を無駄にすることなく、とりあえずポメラを起動さえすれば最大母数的に書ける可能性が増える。おまえ素人かと俺は俺に思う。たかだかポメラを起動したくらいで筆が乗ってたまるか。理屈は正しいが、俺はその理屈は嫌いだ。
 真っ白な原稿を前にしたときの焦りや不快感を乗り越えたことがないやつにそんなことを言う資格はないし、過去に乗り越えたことがあってもそれを最後にもう乗り越えようとしないやつは一度もやったことがないやつとさして変わらない。これからもその『真っ白』と戦い続ける、それを避けることができないやつだけが『ちょっとでもいいからポメラ起動すればいいじゃん』というセリフを吐ける。そうじゃないやつは黙ってろ。たとえそれが俺自身であっても。

 そういえばドクターストーンを読破した。面白かった。
 以下ネタバレ。




 ちなみにエンディングを俺は予想していた。おそらくタイムマシンで改変するだろうと思っていた。死者が出ている以上、全員を救うためには過去改変しかない。そしてその過去改変の是非や、それを行った時にコハクたち新人類はどうなるのか、ということは一切触れられずにタイムマシン作ってやるぜ!で終わった。
 それに触れるべきだったかどうか。
 俺は触れなくてよかったと思う。そんなこと言い出したら話が終わらなくなる。話にケリをつける、というのはどこかで何かを見切らなきゃいけない。
 そんなことよりも、石化現象の正体があっけなかった、みたいにネットでは意見が出ていたけれども、そっちのほうがキツい考え方だなあ、と思う。

 物語の吸引力として『謎』を設定する。そしてその引っ張りが長くなればなるほど、期待値も上がってくる。10分で読める短編で『急に世界が石化された。その正体は機械生命体だった』というオチなら読者は怒らない。だが4年間、最近だとワンピースなんかが30年越しの伏線がどうしたとか言っていたけれども、長期間で引っ張るとその種明かしへの期待値はどんどん上がっていく。許されなくなっていく。
 20世紀少年でともだちの正体がネットで議論されすぎて作者がうんざりした、みたいな話はよく聞く。「男子高校生の日常」でも小学校編のあいつは誰だったこうだった、みたいな議論が作中で始まって「うるせー! やめろ!」で終わるんだけれども、とにかくこういう考察を呼び起こすようなネタは読者が過熱してしまって際限が無い。一種の熱病を呼び起こしてしまう。
 エヴァなんかは完結するまでずっと考察が続けられていたし、ビジネスショーとしては作品の吸引力が続くことは金を産むからよいことだ、みたいな考え方もあったのかもしれないが、最近はそれが変わってきたように思う。
 熱病に取り憑かれて考察を続けるというのは、作品の知名度の維持には繋がるが、完結しているゆえに商品展開しにくいのと、『終わった作品がいつまでも話題に上っているから、新しい作品を作れない。忘れた頃に似たようなやつをもう一度作るという手段が打てない』ということにカネ屋さんたちが気づき始めたんじゃないかと思う。考察を続けるということは作品設定も吟味し続けるということで、類似品が出た時に「あ、エヴァでも同じことやってたよ」という意見を喰らった時にリカバリーができない。昔もエヴァが出た時に「ファーストガンダムの頃からアムロは陰キャ主人公で~」とか言ってたやつはいたけど、母数は少なかった。
 無視できない母数が考察し続けてしまうとビジネスに影響が出る。
 だからどこかで切る、終わらせるということも必要。

 ドクターストーンに関しては石化現象の正体が機械生命体だった、というので引っ張る話としては26巻という設定は絶妙だったと思う。あれより引っ張ったら怒り出すやつはもっと増えていた。
 怒るヤツがいるからなんだ、という意見もあるかもしれないが、読者の精神がネタばらしの時に耐えられるポイントでネタを明かす、というのは医者が苦痛の少ない方法で患者に注射するのが義務ではなく精神としてあるべき、というくらいの意味で正しいことのような気がする。
 小説の作法でも昔から竜頭蛇尾、とにかく読まれたければ最初に掴んでしまえ、ケツがあっけないのは仕方ない、という考え方は存在する。
 それは一つの方法論として俺は否定はしにくいけれども、それにあぐらをかいて尾っぽを適当にするというのはどうかと思う。
 俺はいくつもの長篇になりかけの中短編でいきなり打ち切りにしてきたので「おまえこそそれをやってきたじゃねーか」と言われればぐうの音も出ないんだけれども、ただこれに関しては『引っ張ったところで読者を納得させられるケツを打てないくらいなら、もう終わらせる』という考え方に沿ってやってきたことではある。
 それを、自分も読者も誤魔化してただ書き連ねることこそ双方にとって不幸だし時間の無駄のように感じたから(まあ、何より『終わり』というものは必要だという信条からやったのが大きい)。

 で、ドクターストーン。
 作中のラストのほうで司が『科学というモノは誰をも平等にしてしまう』と呟いていた。
 科学があるから得る人もいれば、科学があったせいで失う人もいる。冷蔵庫のせいで氷屋さんは廃業だ。
 俺はドクターストーンのロジックに関して『欲しいは正義だ!』という龍水の主張に疑問があったから、作者側から『それが全てではないとわかってはいますよ』というメッセージが司のセリフに内包されているのはとてもよかった。
 このセリフがなければ、俺はドクターストーンをただ面白かっただけの話、という区分にしてしまっていたと思う。
 俺は今でも、努力礼賛主義は嫌いだ。こんな世界で生きていくより、お手手つないでみんなで死んだ方がいい。



 まったくもって精神が安定しない。文章もすごいメチャクチャだ。
 だがそれでも吐き出していかないと進まないな、と思った。
 インポスター症候群というものがある。常に自分を偽っていて、それがバレるんじゃないかと不安を感じる精神らしい。 
 俺はいつもキレたときに暴走して後悔して、うまく自分を偽れたらなあと思っていた。
 そしてなんとか偽りまくって、仕事とかで表面上はうまくやっていても、インポスター症候群が出て「これは全部嘘で、いつか全てがバレる」という不安感がある。そしてそれは実際にそう。どんなに取り繕っても俺の本質はクズで悪でゴミなのだ。
 だから、最近は、どちらを選んでも幸福になんてなれないと気づいた。
 こうすると絶望のようだけれども、俺はそこまで沈んではいない。
 幸福になれないなら、もうあとは、自分がどう不幸になるかを選ぶしかないと思った。
 キレてでも自分の意見、激しすぎる主張、誰も幸せにしない信念を振り回してすべてを傷つけ続けるか。
 自分を偽り、他人と比較されながら、窒息しそうな気分のまま過ごしていつか潰れるか。
 どちらかしかない。俺が昔から言う、『Aを選んでもBを選んでも助からないやつは、Cを選ぶ』というやつだ。
 俺はインポスターになろうと思う。
 たとえ間違っていて、他人に迷惑をかけたり、他人の信念を否定することになっても、自分の信念を優先する。できることは、それを他人に強要しないことくらい。
 俺に巻き込まれたやつには不幸になってもらう。それが嫌なら消えてもらう。
 俺は他人から好かれないし、俺も人間不信で他人をあまり好きになれない。信用できない。それはもう仕方ない。変えることはできないし、それを変えることは『偽る』ことでしかない。少なくとも俺にとってはそうだ。
 使える時間があと300年あって、使える金が8000兆円あれば、変われるかもしれない。それだけに専念できるから。
 朝から仕事にいって帰宅するのは13時間後。寝るまでに使える時間は4時間。風呂にも入るメシも喰う。猫のエサをやりトイレの掃除、たまった家事や次の日の準備。残った時間は1時間。
 人は変われない。幸福になることもできない。
 だったら俺は人を狩る。自分の目的のために犠牲にする。
 問題は、どこで狩るか。
 何もかもルールを破って勝手はできない。だから、『どこだけは譲れないか』を決めなくちゃいけない。
 給料が安いのは別にいい。うまいメシが食えないのも別にいい。酒もいらない。旅行もしたくない。結婚もしたくない。子供もいらない。
 つまらない小説を読む時間は欲しい。


 絶対に面白いもの、確実に満足できるもの。
 そんなものは存在しない。
 ネットで検索をかけても「うまく情報をリサーチして面白い作品だけを探そう! そうすればスキマ時間で十分に楽しめるよ!」みたいな意見しかない。
 指を一本一本ずつ逆向きに折り曲げてやろうかと思う。

 俺が欲しい自由は、つまらない本を読む自由だ。
 つまらない本を完読できる時間や精神の余裕がない状態を、俺は拒否する。
 上澄みだけ都合よく味わえばいい、時間は有限で自分には他にやるべきことがある。
 そう思う人間はそうやって生きていけばいい。願わくば、俺もそうやって生きていきたかった。
 でも無理だ。俺はそういう『積んでいくタイプ』じゃない。俺は農民じゃない。
 つまらない作品を除外して、あるいは当たってしまったときに「時間の無駄だった」と思うような読書体験は辛すぎる。俺はそれを地獄と呼ぶ。
 女にモテたきゃ村上春樹を読めばいい。伊坂幸太郎でもいいし、辻村深月でもいい。別に女だけじゃなく、雑談のネタにしたいなら有名どころを読めばいい。時間の有効活用というのはそういうこと。仮に合わなくても読んだことあるよ~という話のネタにできる。
 俺はそれを拒否する。
 自分の心に沿って動きたい。
 俺がそういうことがらに時間を使うことを、共同生活上の時間の無駄として処理されることがある。『その時間を使って、こっちに役立つことをしてよ』という意見は正しい。
 俺はそれができない。
 心が死ぬ。
 だからやっぱり、俺はインポスターだ。誰かの役に立つ人間じゃなく、人を傷つける害悪。誰かにとっての『都合のいい存在』に俺はなれない。
『都合のいい存在になれないのなら、すべてを諦めて分を弁え不幸でいろ』という押しつけも、俺は拒む。
 幸福にはなれなくても、俺は自分がどう不幸になるかは選びたい。
 つまらない小説を読んで、気ままに文章を書く暮らしがしたい。そのせいで、ほかのあらゆる不幸を背負い込むとしても。
 俺は俺が選んだ不幸に沿って死にたい。
 無理矢理押しつけられた不幸に殉じて死ぬのは奴隷でしかない。
 俺は俺の不幸の巻き添えで何人の人生が台無しになったとしても、文章が書きたい。
 その結果、仮に駄文しか生まれなかったとしても構わない。
 誰かに忖度した文章はこの世のゴミでしかないが、どんなに歪んでいてもそいつが本気で感じていた純粋な文章なら価値がある。
 俺はそう思う。



 とはいえ、ここで終わってしまえば確かに精神論だ。
 だから最近俺は、どうインポスターになるべきか考えている。
 牛丼屋も値上がりしていてキツいが、それでも外食の中では安い。
 豚汁変更や納豆をつけたりするのは諦めないといけない。それでもワンコインを越えてしまう。
 冷凍宅配弁当とかも考えている。
 自炊は人生の無駄だ。
 俺は料理が嫌いだ。それに気づいた。
 これも、カネと時間に余裕があれば好きだったかも、という分類の話だが、それこそ現実的に何かを選び何かを捨てるなら俺は自炊を捨てる。
 そのために、うまいメシを諦めないといけない。食の喜びを捨てること。
 そもそも食の喜びなんて俺には昔からほぼない。
 高級肉を喰うと安い肉じゃ満足できなくなるらしいが、俺はそんなことになるくらいなら高級肉なんか喰いたくない。そもそも安い肉だって同じ命、同じ牛が死んでいる。肉食するのはともかくとして、高級肉を選り好みすることから牛への敬意を感じない。
 うまい肉を食いうまい酒を飲み最高級車に乗る。
 そんなことで幸せになるならYouTuberはセロトニンの過剰分泌で幸死している。
 どうせ欲望には際限がない。手に入れたら失うことへの恐怖が生まれる。
 最初から何もなければ失う恐怖なんかない。欲しいとも思わない。
 どんなものも手に入れれば「こんなものか」になる。
 そうならないものだけ、俺は欲しい。



 YouTubeプレミアムに登録している。一ヶ月1000円ちょっと。
 広告を見る時間をそれで削れるから、いいサービスだなと思う。
 ニコニコ動画の頃はカネをとるなんて!と思ったが、ニコニコ動画が潰れていったのを見て「まあ、しょうがないのかも」と思うようになってYouTubeには課金している。ニコニコは犠牲になった。
 で、YouTubeを見ているんだけれども、基本的には相当に好きになった人の動画しか見ない。そもそも最近は「動画をとりたいから」よりも「収益化したいから」で撮影している人が多くてあまり見る気になれない動画が多い。さっきも書いたが俺はクソな座椅子はクソだと断言してくれる動画しか見たくない。もちろん座椅子メーカーからしたらふざけんなよ勝手なこと言いやがってその動画のせいで出た損失は従業員の賃金や待遇から引くからな! になる。こうして世界は不幸になっていくわけだが。
 まあ、それはともかくとして、YouTubeを見ている。
 俺は幸せになりたくてYouTubeを見ている。
 面白い動画がないか、仕事の疲れを癒やしてくれる動画はないか。
 それは幸せを探しているのと同じだ。
 そして幸せになれる動画が見つからず、あるいは雑談動画で「自分は黙っているだけで、そのコミュニティに属している」ような疑似友人感覚を得るためにラジオっぽい内容を聞き流したりしている。
 でもYouTubeから幸せを得られることなんてありえない。あれはただの暇つぶし、誤魔化しだ。もちろん動画をとるのは大変だし、ラクなことじゃない。編集に安くない金だって払っているんだろう。
 それでも俺が受けているサービスは、ただの暇つぶしだ。
 ありもしない幸せ探し、当たらないくじ引きを引き続けている。
 もしもインポスターになって、自分の悪に対する不幸を背負うなら、幸福になる『必要』がない。
 だから、YouTubeを見なくてもいい。
 不幸から逃れるために幸福を無理に探さなくていい。
 もっと大きく言えば、不幸なままでいい。不幸であることを自分に対して『許可』する。
 それが俺の望んだ自由だ。
 そう思うようになってから、意味も無くYouTubeを開いたときに「ああ、俺は幸せになろうとしている」と思って、画面を閉じるようになった。
 行動が全てを決定するとうそぶくなら。
 これだって立派な行動だろ?
 その精神がどれほど邪悪だったとしても。


 この『不幸でいい』という精神は、ニノベの活動でも実はちょっと使っている。
 俺はだいぶ前から、読者と作者が繋がるのはよくないと思っている。だからコメント返信はしていない(読んではいる)。
 読者と近づきすぎると、俺がコメント返信してくれるから、という理由で残ってしまう読者が出ると思ったから。
 読者と作者は作品で繋がっていればいい。多少の意思疎通はいいにしても、作品が付録になってしまって交流がメインになってしまうのはよくない。それは演技の技術がないのに顔とトークがいいから声優をやってるようなやつみたいなもので、虚業だ。本質じゃない。
 人を集めるという観点からいえば、コメント返信はしたほうがいいんだろうけど。
 その先にある『ただ幸福になろうとする精神』は危険だな、と俺は昔思った。
 で、もちろんコメントは減った。俺自身が働き始めてから更新できなくなったのもあるけど。もう8年も働いている。ニートでいたかった。
 で、最新話をアップするたびにコメントがついていない。『ここぞ!』という自分的にはヤマ場のところでも、コメントがついていない。
 それは悲しい。つらい。苦しい。確かにそれはそう。
 でも同時に『これでいいんだ』と俺は思うようにしている。強がりのように聞こえるかもしれないが。
 俺は自分自身の欲望を優先して原稿を書いている。なるべく難しくなりすぎないように簡易な文章にしたり、誤字を減らすという配慮はするけれども、それは読者のためだとか、読者から何か見返りを求めてやるとか、そういうことじゃない。
 俺は読者に何もしてやれない。もっとこうしてほしい、という意見があったとしても、俺の精神がそれを拒絶すれば『できない』で突っぱねる。もっと有名になって『コイツが素人だった頃から俺は知ってる』とドヤ顔させて欲しいと言われてもできない。俺は商業用の、カネを生み出す構図に沿って作品を作っていない。だから何もしてやれない。もっと早く、もっと大量に書いたり、俺自身が強くなって他の作風の作者を皆殺しに『今まで弾圧されていた俺たちこそ自由なカルチャー文化を創るんだ!』とかもできない。俺は滅びることしかできない。
 滅びる俺を眺める気なら見ててくれ、くらいのことしか俺は言えないし、できない。
 そんな俺が「読んだらコメントをよこせよ」とは言えない。そんな権利はない。実際に、俺自身が好きな作家に対しては「俺なんかがわかったようなこと言って作者のモチベに影響が出るんじゃ……」と心配になってコメントしないことがほとんど。
 昔、『あんた天才だからもっと書いてくれ』と言った人は同人作家になってくれた。エロ本なのでたまに買ってる。

 まあ、だから実際のところ、YouTubeのコメント機能と違って野良の小説書きには基本的にはコメントはしたほうが生き延びる確率は上がると思うけど(応援するつもりで書いたコメントが気に入らないから書くのをやめる、というレベルで追い詰められているならどの道どこかで潰れるだろうし)、強制はできない。
 まあ、俺は昔から「顎は変わっちまった…もう俺たちの顎はいないんだ。じゃあな!」と何度か言われてきたし、それくらいの不満くらいは書いてもらって構わないんだけども。
 俺をコントロールしたい、というのは拒否するけど「なんか面白くない。なんでだろ?」くらいの感想であれば受け止める。それが本気の感情なら。

 なんの話だったか。

「不幸でいい、そうか顎はその覚悟ができたか!」みたいに思う人もいるかもしれないが、その考え方は危険だ。
 自分が不幸でいい、それを受け入れる……ということは他人にも『おまえも不幸を受け止められるよ』という目を向けるということだから。それを押しつけはしないにしても。
 たとえるなら、M男がムチでビシバシ叩かれて「ああ、この痛みこそ喜び!」とか言い出したとする。S女はご満悦でムチを振り続けるんだけれど、いきなりその手をM男に掴まれて、

「この痛みも悪くないよ、あんたもきっと耐えられる」

 といってS女にムチを振り始める。まったき純粋な善意でもって。
 これにゾッとするなら、俺がインポスターになると言った意味がわかると思う。
 痛みを受け入れる。そしてその痛みは相手にも、受け入れられるかどうかはともかくとして『振り下ろされることがありえること』として考える、ということ。嫌がるS女にムチを振り続けるかどうかはともかくとして、自分が不幸を受け入れ、その影響で周囲にその余波が出ることを構わないと言う。
 少なくともこれは、一方的にムチをこの世界から振りおろされ続け、それを喜びと誤解して受け止め続けるか、泣き叫びながら受け止め続けるか、いずれにせよ奴隷の構図じゃなくなる。

 『俺はムチを受け入れる。だからおまえもそれを受け入れろ』

 それは危険思想である。S女側(社会)と全面戦争になりかねない。
 だから、難しい。どうインポスターになるか。
 自分の苦しみを伝えるためにパーティの会場で銃を乱射するようなインポスターにはなりたくない。それは俺の選んだ不幸じゃない。
 S女側にムチを振るうにしても、どのムチを使うのかは選ばないといけない。
 少なくとも、生まれ変わっても俺はこの生き方を選ぶというような、そういう不幸を選びたい。
 そして俺が何を選ぶかは、たぶんもうずっと前から決まっている。



258

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る