博打のやめ方
部屋に入ってくるなり、彼女が言った。
「できた――」
俺は飲もうと思っていた焼酎を置いた。なにができたかは言わずともわかった。なのでただ、
「おろすのか」
と聞いた。彼女はそうするものだと思った。
が、彼女は首を振った。
「産むよ」
「へえ――また、なんで」
その時の俺はといえば、就職活動にあぶれ、親元からも逃げ出し、彼女の家に転がり込んでいる有様で、仕事もろくにしていなかった。彼女が働いて来る金を握って博打ばかりやっていた。自分が史上最低の――少なくとも自分の常識の範囲内で――屑だと自覚してはいたが、とにかく、その屑さ加減に酔っていた。俺は中途半端なものが嫌いで、どうせ屑ならちゃんとした屑になりたかった。俺は、屑であると思い苦しみながらもその実、自分がそこまで屑ではないことに怯えていた。俺は彼女を殴ったことも突き飛ばしたこともないのだ。
だが、とにかく、俺には金と未来と見てくれと優しさが欠けていた。俺は女に詳しくないが、まァ世間を見渡す限り女が欲しがりそうなものが、俺には備わっていなかった。俺は優しくない、甘いのだ。見通しも、生き方も。結果論的見地から見れば、本物の優しさというのは上手い嘘のことを言うのだ。俺は嘘が下手だ。
「産んだら、いけないかな」
「いけなかないが」俺はもじもじとコタツに下半身を埋めながら悶えた。
「シングルマザーになるつもりか。生活保護、出るらしいが、大したことないらしいぞ」
「あはは。きみの子だよ? シングルじゃない」
その発言で、ようやくじわじわと、誰が誰に種を撒いたのか実感らしきものが湧いてきた。俺は震えた。
「俺が父親?」
「うん」
「柄じゃない」
「柄って」
「いや、言葉が違った。柄って問題じゃない。俺が父親じゃ産まれてくる子が可哀想だ」
「それって」彼女は透き通るようなまなざしで俺を見た。
「おろせってこと? 遠まわしに言えば」
「違う」
本音だった。それは違う。それは誤解だ。
だが、実際に言ったこともまた本音だ。
俺はジレンマに陥り、身動きが取れなくなった。そんな俺を見て、彼女は満足そうに微笑む。
「安心していいよ。きみには頼らない」
「そうか――いや、俺もがんばるよ。もちろん、できることはする」
「どうするの?」
とても博打で喰わすとは言えなかった。かといって、就職はできない。俺の身体は不摂生が祟って、もう外に出るだけで熱を発し腸が餓えた大蛇のごとく暴れだすようになっていた。何事もなくけろりとしていられるのは、競馬場にいくときと馴染みの雀荘に顔を出すときだけだ。
ここで頑張れない、頑張る道筋が見つからない、それが俺であり、ここまで堕ちることになったゆえんであり、そしてまたここまで生き延びられてきた力だった。俺が勇者だったら、とっくの昔に戦死していただろう。優しい勇者は強ければ助かる。愛されても助かる。だが、弱くてみじめであれば、それはいないのと同じなのだ。
俺はこの世界でほぼ唯一、俺を人間として認めている女を見た。彼女は俺の言葉を待っている。俺に返す言葉など最初からないと知っていた。いやなやつだ。そして、その歪さが俺を惹きつけたのだ。
「――いざとなったら、俺の親元にいってくれ。多少の金は融通してくれるかもしれない。泣き落としにかかれば、いくらかは」
「無理でしょ」彼女はくすくす笑う。
「きみの思い出話を聞く限り、きみはたぶん勘当されてるもん。ね?」
俺はがくりと全身から力を抜き、彼女を見る。彼女はやはり、小悪魔じみた、嘲笑と慈愛のまざった表情で俺を見下ろす。俺はせめてもの反撃に出た。
「おまえが、子どもを産もうとするなんて、驚いたな」
「そう?」
「ああ。最近は誰も彼もおろしてるもんだと思ってた――」
「わ。それどこ情報? ていうかそうなのかな。あたしも友達少ないからわかんないけど」
俺は数日前、中学の同窓と飲んだのだが、その話の中でそういう話になった。友達の友達の話、と同窓は言って話していたが、どうも世間ではあっさりしたものらしい。少なくとも、話の中で男の方は女を孕ませ堕胎させたことを酒のさかなに話したらしい。同窓自身の話ではあるまい、やつも多少引いていた。
「産むなとは言わない。でも俺は助けられない。それは、どうしても。俺は何かを助けるような身分じゃない。助けたら、きっと俺が死ぬ」
彼女は俺の隣に座って、俺と同じようにコタツに足を突っ込んだ。
「そう。そういうやつだよね、きみは。まあ、きみに指図されたくもないし? 産むよ。うん、産む」
彼女はなくしものを探すような顔をしながら、まだ膨らみ始めていない自分の腹をなでた。その仕草はなんだか一人前の妊婦さんのようで、普段彼女がそんな態度を取った試しがないために、俺は金縛りにあったような心地だった。
「でもさ――」俺はどうしても気にかかった。
「なんで、産もうと思ったんだ。産みたいのか」
「産みたい、というか――」
だいぶ昔に自分で書いた詩を暗誦するように、彼女はなにもない宙空を見つめた。
「あげてもいいかな、って」
「あげる?」
「だから、自分を、さ。あたしはまだお母さんじゃないけど、せっかくだし、お母さんになってあげてもいいかなって。たぶん、産んだらあたしの可能性とか、やりたかったこととかは、犠牲になるんだろうけど。それにさ、こっちだけ選ぶってのもずるいじゃん」
「選ぶ?」
「あたしらもさ、まァあたしはどこの誰からポコンとできたか知らないけど――でもとにかく、あたしのお父さんとお母さんがさ、まァお母さんだけかもしんないけど、『産む』って決めてくれたわけでしょ? そうやって産まれてきた以上、あたしにだけ選択権があるっていうのも、なんかなァ――って、思うのですよ」
「――なるほど」
「何様のつもり? って思っちゃうわけ。それにさ、そんなに大したモンでもないでしょ、あたしも。だからさ――」
俺にするのとはぜんぜん違った風に、おなかをなでて、
「あげようって思った。あたしの運命をこの子にあげようって。ふふふ、きみが好きな博打ということですよ、いわば」
「博打とは違うだろう。勝ち負けじゃない」
「勝ち負けじゃないけど、そこには『希望』があるでしょ。あたしには、そういうの、ないから」
俺はベランダを開けて、焼酎の入った杯を捨てた。曇り空は諦めたように白い日差しを通し、雨が降り出す気配はない。
だが、降らないとも限らない。
「おまえの望んでる『希望』とやらがやってくるとは限らないだろ。俺は、子どもに期待をかける親は馬鹿だと思ってる。てめえがひり出した精子を女の卵子にぶっかけて、どこをどう突いたら天才が生まれてくると思えるのか、気がしれねえんだ」
「うん、あたしもそう思う。あたしたちの子だもんね、もうとんでもないやつが出てくるかも? わ。それはそれでおもしろそう」
「おもしろそう、で子どもは育てられんぜ」
「――――」
「俺たちはガキだよ。馬鹿だよなあ、責任も持てずに、毎晩毎晩馬鹿みたいにやってたんだもんなあ。俺には見えるよ。俺も、おまえも、諦めて、嫌になって、投げ出す未来が。なにもしない俺に言えたことじゃないけど――」
彼女は前を向いていた。
「そうかもしれない。あたしだって、責任、っていうのは100%は持ちきれない。きみの言うとおりになる可能性も、ぜんぜんある、むしろ高い――でも」
また、おなかを撫でて。
「それでも、希望は消えないとあたしは思う。馬鹿だって笑ってもらっても構わない。ふふふ、ねえ、きみ、あたしがきみの博打にいくら投資したか覚えてる? 覚えてないでしょう、あたしは覚えてる。八十三万四千五百五十円。だから今度は、あたしに投資してよ。信じるって投資。ずっとそばにいてくれるって賭け金。あたし、怖いけど、なにもできないきみがいるとほっとするんだ。きみも、子どもも、あたしがちゃんと育ててみせるよ」
そう言って、にかっと彼女は笑った。
俺は自分がどんな顔をしているのか気になって、手で顔に触れてみると、どうやら俺も笑っているらしかった。
未来のことはともかくとして。
そのとき、俺たちは確かに、笑っていたんだ。
仕事をしてくる、と大法螺を吹いてアパートを出た。まァ仕事にならなくもない。勝つ可能性は無論ある、いつだって。たとえそれがソープ嬢である彼女が汗水たらして働いた金であろうと。しかし、もう麻雀はやめるつもりではあった。そして、その結果に関わらず、俺は彼女に打ち明けようと思う。
彼女の知る俺の名前が偽名であることを。
彼女に俺が語った素性は、なにもかもでたらめだということを。
俺は、中途半端な屑になりたくなかった。本物の屑に近づけば、少しはこの世の本当の重さというやつが実感できるかと思った。そう思って、俺は孤独に苦しむ彼女に近づいた。最初は好きでもなんでもなかった。ただ、ソープ嬢と付き合って、その金をむしるっていうのは格好いいなと思っただけだ。
今は違う。
こんな風に、最初は救いようのない始まり方でも、それでも綺麗な終わりはやってくるのだろうか。世界はそういう風に廻ることもあるんだろうか。俺と彼女とまだ見ぬ子どもの未来も、そういう風に。
俺にはわからない。俺は博打が苦手なのだ。
曲がり角を曲がったところで、黒塗りのベンツが路駐されているのを見て、俺の全身は総毛だった。嘘だ、あれは、親父の――
声をあげるヒマもなかった。
うしろから腕をひねりあげられ、民家の塀に叩きつけられた。情けない声が出て、目に涙が滲んだ。その視界に、羽織袴を着た初老の男がのこのこと入ってきた。
親父だった。
「おまえのことは忘れよう、とも思ったんだがの、ええ、おい」
そして親父は俺の名を呼んだ。その名前で呼ばれるのは久々だった。呼ばれた瞬間に身体から力が抜けた。なにが勝ちでなにが負けなのか、曖昧だったが、そのとき俺は「負けた」と思い、事実、たぶん、負けていたのだろう。
「親父……なんで、いまさら」
「うむ――久々に会ってそのセリフもあるまいて。まあよかろ、気持ちはわからんでもない。わしにも覚えがあるよ。わしの親父もな、昔、わしがせっかく囲った妾の家をめちゃくちゃにぶち壊してくれてな、ま、血は争えんということか。肝心なときに弱いの、わしらは」
「放せっ! 放せよっ! ほっといてくれ! あんたのツラなんか見たかねえんだ!」
「そりゃあわしも同感だ。だがの、おまえには用はないんだが、おまえの股間には用があるんだ」
「――は?」
「世継ぎだよ、呆け者」それまでどこか好々爺然としていた親父の顔に突然、醜悪な皺が寄った。
「虎次が死んだ」
「虎次が――? な、なんで」
「開帳していたホンビキの場でな、ビョーブ札(仕掛けのある札)を使った馬鹿がおってな、そいつを捕まえて指を落としたまではよかった。ところが、それを家族あてに送りつけたりしたものだから性質が悪い」
ごくっと俺は生唾を飲み、四つ下の弟の鷹のように鋭い目を思い出した。
「恨みを買ったのだろうな、護衛に若い衆をいつもはべらせてはおったのだが、その若いのの中に、始末したイカサマ野郎のせがれの仲間が紛れていたらしい。身内から後ろを一突きブスッ! それで終わりだったよ、わしのかたっぽの息子の人生はな。あの馬鹿者、老いてから寝首をかかれたくないから子はギリギリまで作らんとかぬかしておったくせに、詰めが甘いのだ、忌々しい! わしにまだ生殖能力があればとこれほど悔やんだことはなかったわい」
そこで、と親父は無表情に俺を見た。
「おまえに白羽の矢が立ったわけだ。よかったな、ん? 本来はおまえが我が一門の当主などちゃんちゃらおかしくてヘソで茶が沸くところなのだが、まァこんなくだらんことで絶一門にしても仕方あるまいて。さ、帰ろう、息子よ。我が家へ」
「誰が……!」
「そう言うと思ってな、おまえには嫁を用意してやった。極上のやつをな。おまえがどこの誰としけこんでいたのか知らんが、まァ勝ちはすれども負けはすまい。気に入らなかったら種づけしたら別れてもよい。――加賀美」
「はっ」
「わしの息子を車に乗せろ。丁重にな」
「かしこまりました。……申し訳ありません、坊ちゃま、失礼します」
俺は後部座席に逆さに押し込まれた。天地を確かめた頃には、もうリムジンは発進していた。見慣れた下町の風景がどんどん流れていく。流れ去っていく――
ああ、畜生。読みきれなかった。いったいどこで、この展開を予想できただろう。彼女に子どもができたと聞かされたとき? 話が穏やかにまとまって俺にあるまじき平和があの六畳間に満ちたとき? それとももうずっと前、俺が親父から逃げ出したときにこうなることは決まっていたのか。いや違う。なんとかなったはずだ。なんとかできたはずだった。
どうしようもなくなったいま、なにもすることもできないが、後悔だけならタダでできる。そう、タイミングが悪かった。いつだって、一瞬のアトサキなんだ。
もう二度と会うことはないだろう、彼女の顔を、窓に映った俺のやつれた顔の向こう側に見た。なあ、聞いてくれよ。俺だって馬鹿じゃない。
麻雀打って、とんとん拍子に勝ったりしたら、きっといつもと違う道を通って帰っていたんだ。きっとそうだ。俺は俺ってやつをよく知ってる――
博打を打って、勝っていれば。
そしたら、もう一度、おまえをこの手に抱けたのに。
ああ、それがどうして、悔やまれる――
夢を見るのもタダじゃない。
叶わぬ夢なら、なおさらだ。
ああ、俺の身体が、脳が、生存戦略を始めてる。
俺はきっと、今夜にも、あいつのことを忘れてしまうだろう。それよりも、親父の下で、親父の人形になる方が、これから俺の人生が必要とする事柄だ。わがままは言っていられない。俺だってもう二十一なんだもの。驚くには値しない。俺は俺をよく知ってる。
どれぐらい屑なのかってことも。
そう。最初からわかってた。
叶わぬ夢を楽しむには、
俺はいくらか、小賢しすぎた。