電介異聞
ぼくにはお気に入りの場所がひとつある。そこは元々はどくろ亭という居酒屋もどきの二階だったのだけれど、最近なにもかも吹っ飛ばされて壁も天井も綺麗さっぱりなくなってしまった。野ざらしのそこは、今ではぼくやコロポックルたち、小さなあやかしのたまり場になっている。けれども、ぼくはこう見えて結構ワルなので、ひとりになりたい時は後ろ足を振り回して邪魔者を下界へと落としてやる。一度それでネコマチにこっぴどく叱られたけどあんな厚化粧の言うことは聞いてやらないことにしている。
その日もぼくは板の間に丸くなって、布団代わりにちょうどいい夕陽の中でうたた寝していた。あの世の国なんていうものはやることがほとんどないので、どうやって寝るか、どうやって暇を潰すか、それが一番の仕事だったりする。自分たちのことながらなんて贅沢なんだろう! ……と思っていても、やっぱりやることがないのは辛く、みんなそれぞれ時間との付き合い方に苦労しているらしい。結局は深く考えないというなんともまあ当たり障りのない結論に至ってしまうのだけれども。
だからというわけでもないが、ぼくは最近寝てばかりいる。それもこれも相棒がいなくなってしまったせいだ。いづるはあれから一度もぼくたちの前に現れない。消えてしまったのだ、とみんなが言っていた。かすみは違うとずっと言い張っていた。ぼくもかすみの肩を持っていた。でも、どんなに信じても帰ってこないものはこないのだと、近頃どうしても思ってしまうようになった。かすみはどうだろう。かすみも諦めてしまったのだろうか。かすみの姿もあまり見かけなくなってしまった。消えたわけじゃないだろうから、どこかそのへんにはいるんだろうけど。
そんなことをうとうとしながら考えていたら、眠くなってきた。ぼくはゆっくり瞬きするのをやめていき、眠りに落ちた。
夢を見た。
ぼくは、あの不思議な水槽の中にいる。目の前には牛の頭を首に乗せた大男が立っている。牛頭天王だ。骨のようなその頭の奥で赤い瞳が揺れている……あの日、ぼくは生まれて初めて、誰かと争ったのだ。雲の上には敵はいなかった。その代わりに味方もいなかった。もう思い出せないくらいずっと前、お母さんが雲の波間に飲み込まれてから、あの白い世界でぼくはひとりぼっちだった。ずっとずっとそうだった。いづるに捕まるまでは。
牛頭天王は、錫杖を振り上げて襲い掛かってくる。ぼくはとっさに飛びのいて杖先をかわした。杖は砂にめり込んでつぶてを巻き上げた。牛頭天王は首だけをこちらへ向けてぼくを見ていた。ぼくは怖くなった。
殺される、なんて思ったのは初めてだった。ぼくにはみんなが言う「すうじ」とか「かいい」とかいうものが理解できなかったから、ただ一生懸命戦うしかなかった。死に物狂いだった。一瞬も相手から目を逸らせなかった。逸らした時が死ぬ時なんだと思った。
杖先を避けて、ネコマチのおかげで大きくなった爪で何度も切りかかったけれど、すべてかわされてしまった。ひとつかわされるたびにひとつ自信が減っていった。それをなんとか繋ぎとめて、必死に生きた攻撃を繰り返した。不思議なことに、集中すればするほど余計な考えが頭の中をいっぱいにしていった。思い出すのはいづるたちのことだった。いづる、キャス子、アリヅカ。ぼくが降りてきてから出会ってきた、生きていない人たちとの思い出。なにひとつ形として残っていない、この魂の中だけにある記憶。それが気泡のように蘇ってきた。ぼくはそれを心の内側で眺めながら、心の外側で爪を振り回していた。牛頭天王の瞳だけが見えていた。
いづるが言っていた。牛頭天王も元々はニンゲンだったんだって。でもぼくにはそうは思えなかった。牛頭天王の目にはもうどんな光もなかったから。それはもうただのカラッポウで、ひょっとしたらぼくだけが、あの中に何も入っていないことに気づいていた。それが最初からだったのか、途中からだったのか、あるいはぼくと出会った瞬間からだったのか、それはわからない。でも、確かなことはただひとつ、あの瞳の中にはどんな思いも迷いも宿ってはいなかった。それがわかったのは、ぼくが雷の化身だからなのかもしれない。お母さんが言っていた。ぼくたちは生命を司っているんだって。だから、むやみにその大切なものをいじくらないように、偉い人がぼくたちを天上へ追いやったんだって。お母さんが何を言っているのか雲の上を転がっている時はわからなかったけれど、今ではわかる。ぼくには生命が視えるのだ。ぼくはそれが悲しい。なぜって、生命が視えるということは、それがない状態、つまり死んでいるということもはっきりくっきりわかるということだから。
牛頭天王は死んでいた。キャス子もアリヅカも死んでいた。でも、いづるだけはどうしてか、時々生命がちらっと視えた。シマもそうだった。ツノが生えていたからだろうか。ニンゲンじゃなかったからなのだろうか。
それでも、いづるもシマも、決戦の日が近づくにつれて目の中の光が薄らいでいった。懐かしい死の影が二人のそばにくっきりと焼きついていた。ぼくには、それをどうすることもできなかった。本能でわかっていた。それが、正しいことなんだって。それが自然で、本当は、二人が消えずにいることが間違っているんだって。そう、思いたくはなかったけれど。
でもたとえ、消えてしまうとしても、ぼくはいづるの役に立ちたかった。ずっと雲の上でひとりぼっちだったぼくをいづるは引きずり下ろしてくれた。下の世界はとても広くて、綺麗な赤色で満ちていて、おいしそうなにおいも立ち込めていた。ぼくはいづるの足元を縫うようにしてそこを歩きながら、何も考えずに彼のうしろを追いかけていくのが好きだった。それをなかったことにはできないから、ぼくは最後まで、いづるについていこうと決めたんだ。
何日も何日も、闘っていたような気がする。ぼくと牛頭天王の攻撃はお互いに当たり始めていて、ぶつかるたびに赤い小金がぱっと散らばった。ぼくは負けたくなかった。前足に力を入れ、後ろ足で思い切り蹴って、跳びかかり、牙の先が数ミリだけでもいい、届けと念じて攻撃し続けた。
赤い小金が上から降ってきた時は誰か消えたのかと思った。それがいづるが落としてくれているものだと知って、ぼくはいづるが消える気なのだと悟った。
泣きたかったけど、ガマンした。いづるの魂を全身全霊で吸い尽くした。力が身体中にみなぎって、身体が一回りも二回りも大きくなったような気がした。ぼくはためらわずに、牛頭天王の首を噛み千切った。
外へ出ると、かすみが泣いてた。
ぼくの夢は、そこで醒めた。
誰かがひげを引っ張ってる。ぼくはぐるぐる唸って目を開けた。コロポックルたちが日頃の仕返しとばかりに悪戯していたのだ。今度会ったらお手玉にしてやる。
ひげなんて引っ張られたせいで目が覚めてしまった。おまけにひりひり痛む。ちょっと泣きそうだった。前足で顔をけしけしやっていると、うしろに誰かがいる気配がした。ぼくは振り向いた。かすみだった。
久々に会うかすみは、こともあろうにぼくを捕まえようとしていたらしい。中腰になった姿勢のまま、急に振り向いたぼくと至近距離で目が合った。なにか上手い言い訳を考えているのが丸分かりな顔をしている。どう考えても手遅れだ。ぼくはだっと逃げだした。が、開き直って跳びかかってきたかすみに抱きすくめられてしまった。不覚だ。
「おらおらあ、あたしから逃げられると思ってんのか? こわっぱが!」
泣き虫に言われたくない。
「まーたコロポックルたちをいじめてたな? この性悪にゃんこめ。そんな悪い子はあたしが飼っちゃうぞ」
ぼくは心底びびった。上目遣いを使ってなおなお鳴いて必死に媚びた。かすみはにやにやしている。
「ふふふ、おまえはあったかいなあ。湯たんぽにしたい」
そんなことをされた日には抱き潰されて座布団にされるのがオチだ。なんとかして逃げ出さなければ。でも、かすみは電気を通さない新素材とかいう変なぐにゃぐにゃしたものを腕に巻いていて、ぼくの電撃でもちょっと倒せそうにない。
かすみはどうしてかご機嫌だった。ぼくを両腕で抱いて、だるまのように左右に揺れている。なんだかぼくは恥ずかしくなってきた。お母さんにだってそんなことされたことないのに。
「照れてるな?」
「……にゃーお」
「ういやつめ」
かすみはぐわしゃしゃしゃしゃとぼくの毛を撫で回した。そして急に静かになって、ぼくに額を押し付けてきた。
「あのな、電介、あたしな、今度ジョシコーセーになるんだ」
ジョシコーセーってなんだろう、とぼくは思った。
「猫町が通ってるガッコーにいくんだ。知ってるか? ジョシコーセーはセーフクを着て、ベンキョーして、レンアイとかウンドーとかするんだって」
何を言っているのか全然わからないが、かすみがどこかへ行ってしまうのだということはわかった。ぼくは、……自分の気持ちがよくわからなかった。なんだか身体の中がざわざわしていることがだけが、やけにはっきりとわかった。
「もう親父はいないし、牛頭天王もいなくなったし……外に出てみたかったし。な、電介、あたしジョシコーセーになれるかな? みんなとうまくできるかな……」
「なお」
「そーか? 大丈夫そう? 信じるからな、駄目だったらぶっ飛ばすからな」
ひどいやつだ。ぼく悪くないのに。
「きっと」
かすみが言った。
「きっと、いいこと、あるよな」
ぼくには答えられなかった。ぼくは喋れなかったから。
痛いくらいに抱き締めて来るかすみの腕の力を感じても、ぼくにはなにもできない。いづるが帰ってきてくれたらいいのにと思った。そしたら、かすみの悩みなんてすぐに解いてくれるだろうし、ぼくもすごくすごく嬉しい。
いづるがいてくれたら。
背中ですすり泣きを受け止めながら、ぼくは空に向かってお祈りする。
明日はきっと、いい日になる。