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『あんたになりたい』

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「何回でも射精できるよ。もうドッバドバ」
 それを聞いて、としおはとても喜んだ。なぜならとしおはトラックに跳ねられたばかりで、つまり死んで、これから異世界へ転生しようというところだったからだ。
 やった、ととしおは思った。
 自分の聞いていた噂は正しかった。
 やはり不遇のまま死ぬと異世界へ転生させてもらえるのだ。
 三十歳を超えて童貞だったら魔法使いになれるというのは、歪曲して伝聞された真実だったのだ。
 これで報われる、これで報われるぞ、ととしおはガッツポーズを作った。
「ありがとう、神様」
「いや、俺は悪魔だけれども」
 黒のスイードに身を包んだ悪魔は、焼け死んだ人間の骨のように茶色く煤けた椅子に腰かけて、足を組んでいた。
 青白い美貌、尖った鼻、氷のような瞳。
 きっとリア充なんだろうな、ととしおは不愉快だったが、ここはなんとしても持ち得る限りのおべっかを使い切る必要がある。
「ありがとう、悪魔様。これで俺は異世界へ転生し、美女をはべらかし、魔法を撃ちまくり、気に喰わないやつらはブチ殺しまくれるんですね! しかも何度でも美少女を抱ける絶倫体質で!」
「うん、そうだよ」
「ずっと夢だったんです、異世界へ転生することだ。冴えない顔面に好きでもないのにされて、学校ではずっとぼっち、社会へ出てからも仕事なんてありゃしない。でも、だからこそ俺は転生する資格があるんですね。幸せになるための労働を不幸っていう貯金で蓄えたんだ」
「ああ、その代わり、異世界へいったら惨死確定だけどね」
 としおは、そのアバタだらけの顔からすっと表情を消した。
「どういうこと?」
「えっ?」
「どういうことです? 惨死って何? そんなの聞いてない」
「いや、いま初めて言ったし」
 としおは座っていた椅子からガタンと立ち上がった。部屋の暖炉がごおっと燃え、薪がパチリと音を立てて割れた。
「ふざけないでください。訂正して。惨死って何?」
「落ち着けトッシー」
「トッシーって呼ぶな」
「ごめんよトッシー」
 こいつ殺す、とトッシーは思った。
「質問に答えて。悪魔なんでしょ? 魂でもなんでもあげるから、言うこと聞いてよ」
「ああ、そうだったな。いやね別に、異世界へ転生した挙句、惨死する運命にするよ、って俺が決めてるわけじゃない。俺はただみんなを快適な空間にお届けしてるだけ」
 悪魔はスーツのポケットに手を突っ込んだまま、やる気をなくした就活生のような態度で言った。
「トッシーの言う通り、みんな望んでいたものを手に入れることができたよ。それは保証する。魔物や亜人がいる世界で、魔法や剣を振り回して、それはもう幸せになったもんさ。嫁さんが二十や三十じゃ足りないってやつもいたし、完全に領土を統治して独裁国家を作り上げたやつもいたね。ヒットラーみたいに破綻したりもせずに、まじめに農地を開拓したり水質改善したりしてたやつもいたから、まァ、悪人ばっかりだったってこともねえだろう」
「じゃあ、なんで惨死するのが当然みたいな言い方したんですか。謝ってください」
「だって別に俺のせいじゃないし。みんな最後には勝手に自殺していくんだよ。信じてくんない? 俺だってたまには止めたんだぜ」
 悪魔はひらひらと手を振った。
 としおは噛みつきそうな顔で、震える膝をなんとかなだめすかして、椅子に再び腰をおろした。倒れたそれを起こす時、少し死にたくなった。
「信じられない。なんで幸せになったのに、自殺なんてするんだ。そんなの間違ってる。あんたが騙したに決まってる」
「さっきも言ったが、俺は何もしてねぇ」悪魔の声が少し低くなる。
「が、少し考えればわかることだと思うがね」
「わからない。早く答えて」
「そればっかりだな」悪魔は少しうんざりしていた。
「だからさ、その程度のものだったってことだよ」
「何が」
「幸せになるってことが」
 としおは嘲笑した。
「意味不明。幸せになることがその程度って、は? じゃあ人間はなんのために生きてるのさ。幸せになるためでしょ?」
 悪魔はふるふると首を振った。
「まさか。それこそ自殺していった異世界転生者が自殺していく動機の理由づけになってない。おおよそ欲しいと思えるもの、その全てをやつらは手に入れたのに自殺した。その死因は様々さ。火炎魔法を最大火力で自分の足元にぶっ放して一瞬で塵になった奴もいたし、突発的に自分の剣を泣きながら喉に突き刺した奴もいた。わざと戦争を起こして数千万の死骸に紛れながらこっそり死んだ奴もいたし、ま、毒薬なんかも人気だね」
 悪魔はちょっと口を切った。それからとしおのことを、まるで初めてそこにいることを知ったような顔で見た。
「なんでだと思う?」
「だから、それは俺が聞いてる」
「答える気はない。お前が答えろ」
「は?」
 それから疲れ果てるまでとしおは悪魔を罵倒したが、その黒一色の悪魔は、石像になったように微塵も動かず、最後にはとしおは怖くなって黙ってしまった。
「……幸せでいることに、飽きたから?」ようやくそれだけ言った。
「たぶんそれだ」まるで一秒も経っていなかったかのように悪魔が答えた。
「人間の精神は、幸福という刺激にすぐ慣れる。では、その対処法は?」
 これはとしおの答えを待たずに悪魔が答えた。
「記憶の消去。……そんなところだろ? あってもせいぜい。そう、確かにそういうことをしたやつもいた。一定期間を終えて、自分の記憶を全消去して、また異世界転生をやり直す。確かにそいつは今でものんきにナントカ森のヘンテコ石を探してるよ。でもな、自分がどこから来たのか、誰と出会ったのか、まるで覚えていない」
 悪魔がとしおのほうに身を乗り出す。
「それって、死んだのと大して変わらなくねぇ?」
 としおは何も答えない。ただ裾上げ失敗したチノパンの膝に、まるまるとした手を置いているだけだった。
 悪魔は続ける。
「そしてたまにはそれに気づく奴もいる。で、少しでも自分を残そうとするんだな。いまじゃ現世じゃパソコン万能時代。『アップデート』って言葉が悪いのかな、ずる賢くも『少しずつ記憶を消していき、新しい記憶も取り込めるようにする』って言い出す奴がたまにいる。もちろんできるよ、やってやる。お望みならね」
 としおは恐る恐る聞いた。
「……そいつは、どうなった?」
「死んだよ。俺も上手くいくかと思ったけどな。ビックリだ。自分という存在が残る程度の記憶の消化効率じゃ、刺激を求める精神の速度に追いつかれるんだよ。あれやった、これやった、あとはなに、っていう段階でようやくだいぶ前の『あれ』を忘れる頃なんだ。それより早く記憶を刷新していくと、ほとんど健忘症に近くなる。……結局、そいつも自殺したよ。道路のど真ん中で花売りの女の子に見られながら猛毒を吸ってね。刺激に飢えると、人間、少しでも苦しい死に方がしたくなるらしいぜ。不思議なもんだな」
 としおはもう、叱られた犬のようになっている。
 それを見て悪魔は、バリバリと自分の髪をかきむしった。
「あー、悪い。おどかすつもりじゃなかったんだけどな」
「……俺は、どうすればいいんだ。そんな話を聞かされて」
「それは俺も疑問だ。どうするのかな、お前は。べつにいいんだぜ、このまま転生させてやっても。一番長く人生が楽しめるのは、最後に言った奴かな。ある意味、それほど心配することでもないかもな。少なくとも最初の三日くらいは満足できると思うよ」
「三日だけ? たった三日?」
「そんなもんだよ」
 としおは途方にくれた。
 悪魔は組んだ足をぶらぶらと振った。
「決めるのはお前だよ。いくらでも悩むといい。元の人生にはもう戻れないんだし、考える時間はそれこそ永遠にある」
「あんたになりたい」
 悪魔は足を止めた。
「……なんだって?」
「あんたになりたい」
 としおは俯き加減の顔で、潤んだ目ばかり輝かせていた。
「元の人生に戻るのもいやだ。このまま死ぬのもいやだ。異世界転生も怖くて出来ない。このままここにいるのも、いやだ。俺は自分でなくなりたい。その全部を叶えたい。たった一つだけ方法がある気がする」
 としおが悪魔を指さす。
「あんたになりたい」
 悪魔は笑った。
「いいカンしてるぜ」



                  END


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