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錠剤

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 その薬を飲めばもう何も考えなくていいという。なんて素敵な話だろう、俺は無料配布され始め、世間に流通し始めたその薬を手に取った。なんの変哲もない白い錠剤。それを水で飲めばあらゆる苦しみから解放されるという。もう何も考えなくていい。借金のことも年金のことも無職のことも何も考えなくていい。ハローワークにいって心臓をドキドキさせることもないし派遣で突き飛ばされるような雑な扱いをされても平気な顔でいられる。生まれてきたのが間違いだったとストンと納得したまま生きていける。それはそういう薬だった。飲めばラクになれる。もう何も考える必要はない。
 手に取って、それを口に含み、水で流し込んだ。ごっくん、と食道を流れ落ちていく錠剤の感覚、今ならまだ手を突っ込んで吐き出せば後戻りができる、そんな気持ちを味わいながら、頭から布団をかぶって十まで数えた。足りずに、百まで数えた。そしてゆっくりと『それ』は来た。
 最初は、時間の流れがやさしくなったような気がした。部屋に充満していた黒い気配、それがすうっと消えていって、そして少し暗くなった。今までハッキリと見えていた机の肌色、本棚の黒ずみ、コミックの境目、電燈からぶらさがったヒモの釣鐘型の形、そういうものがいちいち意識に入ってくることが無くなった。体重が少し優しくなった気がする。鉛のように重かった身体から骨をテーブルクロス引きのように抜かれた感じ。けれども不快ではなく、ただ現実感がない。そしてやってきた。
 眠気が。
 ああこれでやっと眠れる。ゆっくりと眠れる。俺は目を閉じて襲い掛かってくる睡魔に身を委ねる。けれど少しも不快じゃない。またぞろ十六の頃から久しぶりにいった精神科で対処法なしと診断された俺にはこの薬しか残されていなかった。適応障害。俺が俺であること。全てそれが悪いのだ。だから俺は俺をやめることにした。眠って、目が覚めれば、今の俺はいなくなる。記憶と経験だけは引き継ぎながら、この赤茶色の苦しみのことなど悪い夢だったと不思議な顔をして生きていくのだ。それはもう俺ではない、だが俺が俺であることにもう意味はない。誰からも求められず、探されず、声もかけられない。それでいい。誰だって自分のことで精いっぱいだ。俺の分まで余ってはいない。だから俺はその空隙をこの錠剤で埋める。埋め尽くす。もう何も考えたくないから。明日がもう俺には来ないから。どんな思いをさせられてもいい、どんなにひどいことを言われても、傷つけられてもいい。心をこの胸から追い出したい。追放し、門を閉ざし、二度と来るなと怒鳴ってやりたい。この苦痛しか生まないぶよぶよしたもののせいで俺が今までどれほど苦しんできたことか。誰も責任など取ってくれない、誰も悪かったと謝ってなどくれない。お前が悪いのだと無言で、あるいは言葉で告げて来るだけ。俺が悪かった? 俺が悪かったわけがない、俺は俺をこの世界にわざわざ呼び寄せたことなど一度もない。俺は帰りたい。帰りたいんだ。自分がいなかった頃に。
 暗闇が迫ってくる。目覚まし時計に手を伸ばして滑り、ガシャンと音が鳴った。昔は敏感に神経に触ったその大きな音が排水溝を流れる水のようになんの感慨もなく俺の脳をすり抜けていく。なんのダメージもない。音が鳴ったかどうかさえ一瞬経てば分からない。かつては一つの音がわんわんわんわんわんわんわんわんと鳴り響いていた。眠りの玄関先までその音と声は俺にまとわりついていた。俺を夢の中に易々と逃がしてくれないその騒音が今はない。俺はゴム製品のようになった自分の両手を見た。
 これだ。
 俺はこれが欲しかったのだ。
 もう何も感じない。もう何も苦しくない。俺は救われた。これが『正常』なのだ。俺が備えていなかったもの、どこかに忘れて生まれてきてしまったもの、それがこれなのだ。俺が俺であることをやめたとき初めて『正常』は訪れる。これでもう迫害されない。これでもう阻害されない。これでもう愛されなくても平気だ。これでもう愛し損なっても当然だ。誰に嫌われても構わない。誰に憎まれてもわからない。全てはすり抜けていく無味無臭の光と水だ。それが俺の心でせき止められて、澱み濁り穢れていくことはもはやない。俺は何も感じなくなったのだ。俺の心にもう穢れていくだけの余白はない。最初から黒で染め上げてしまえば何を塗りたくってもわかりはしない。俺は黒くなった。俺は黒になったのだ。布団の中で歓喜の声をあげる。よかった、よかった、あれほどいなくなって欲しいと思っていた、誰かもそう願った『俺』がもういない。あとは最後の眠りに落ちていくだけ。それで全てがチャラだ。俺は何も持たずに生まれてきた、何も持たずに消えていく。それでいいんだ。元の木阿弥、それが人生だ。
 枕元に置いた、瓶詰の中の錠剤を抱き締めながら闇に身を委ねる。もう何も考えなくていい。もう何も苦しまなくていい。これですべて終わったんだ。妬みも嫉みももはやない。生きる価値を感じないのだから、誰かが生きていても興味が湧かない。そこに誰かがいるということ、俺以外の人間がこの世にいるということを俺はもう心の底では意識できない。他者も自己も吹っ飛び果てて、これからは他人に言われた通りに、誰もが望むような惨めな生き方をするのだ。それで何も感じない。それこそが幸せなのだ。何も得ず、全てを失う。自分自身さえもトイレに落として水でジャバア。それで終わりだ。
 ああ、汚物、そう汚物だ。汚物はトイレに流さないと。
 俺の魂さえも。
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