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ぜんぺん!

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 開幕戦の阪神甲子園球場は熱狂につつまれていた。一塁側スタンドだけでなく三塁側スタンドすら縦縞のユニフォームを着ていた。球場の外ではチケットを入手できなかったファンがそれでも集まっていた。全ての野球ファンが歓喜し、涙を流す人までいた。
 その背中には『6』を背負って。
 バックスクリーンでは巨人のスターティングメンバーの紹介が終り、阪神へと移っていた。
「一番、ショートストップ、鳥谷敬!」
 一番から順に紹介されていき、ベンチから選手が姿をあらわしていく。その度に観客席ではわっと歓声が起こる。
 三番のマートンが紹介される。彼が姿をあらわし、バックスクリーンのネームプレートがまわった。
 彼への声援はすぐに掻き消えた。それはマートンがファンに好かれていないというわけではない。むしろ逆である。
 しかし、球場の、いや、全国の野球ファンは声をひそめたのは次にやってくる熱狂のビッグウェーブに備えたからである。
 そのファンの期待を裏切るようにコールされたのは五番、新井の名前だった。一瞬のどよめきの後、事態を理解したファンは大きな声をあげた。
 そして四番を除いた全てのメンバーが紹介されると、再び阪神甲子園球場は水を打ったようになる。
 誰もが、誰しもが次に呼ばれる名前を待っていた。阪神タイガースの熱狂的ファンは一年。一年待ったのだ。彼らだけじゃあない。本当に全ての野球ファンが彼が再び球場に帰ってくるのを待っていたのだ。
 ひときわ気合の乗った声のアナウンスが満員の甲子園球場にこだまし春の夜空へとのぼっていく。
「四番、レフトォ、金本ぉぉぉ! 知憲ぃぃいっ!」
 その瞬間だ。アナウンスの声は怒号の中に消え失せた。球場全体から、周囲から、日本中からわきあがる歓声が空気を震わせているのだ。チャントの音。ファンの雄叫び。歓喜の声が甲子園球場を席巻している。
 そして、その声すべてを受け止めるように金本は手をあげて応える。その目には涙をたたえている。普段は気丈な男である。涙を見せたのは恩師への弔辞を読み上げた、あの時が最後であった。
 その金本が涙を見せたのだ。

 昨年、シーズンが始まる前のことだ。金本は野球選手としてはすでに高齢の部類であり、いくつもの怪我を抱えていた。その彼の肩の怪我が悪化していることが開幕直前にわかったのだ。診断の結果は右肩腱板の部分断裂。試合にでられる状況ではなかった。
 そうであるなら治療に専念し、今シーズンの途中、もしくは来シーズンの復帰を目指す。それが普通である。言い方は悪いがそれだけのことであった。
しかし、だ。しかし、金本は苦悩することになる。苦悩せざるえなかった。
 彼は、金本知憲は普通の選手ではないのだから。
 彼には一九九九年七月二一日から続く連続試合フルイニング出場という記録があった。その記録は一四〇〇を越え、一五〇〇という節目が目前まで迫っていた。
 金本の肩にはファンの期待がのっていた。誰もが「鉄人」と彼を呼び、その記録は達成されて当然のものと考えられていた。そのファンの期待を裏切ることをしてもいいのかという思いが彼の中に生まれ、同時に無様なプレーしかできない現状で試合にのぞみ、その姿でファンを喜ばせることができるのか、と思い悩んだ。
 また球団側からの重圧もあった。すでに連続一五〇〇試合フルイニング出場の記念グッズやイベントを計画しているという話だ。
 球団には恩がある。その恩も返せずになにが男か。金本はそう語ったという。
 金本は肩の治療をしつつ、調整を続け、試合にでる道を模索していた。
 また、このことは秘匿とされニュースが報じられることもなかった。
 
 オープン戦。金本は出場できない日々が続いた。
 当初、阪神ファンたちもそのことを気にしていなかった。オープン戦は若手中心でレギュラー当確選手が試合にでないということはままあることだからだ。
 しかし、オープン戦も終盤になり、いよいよ開幕ムードが高まってきたとき、ファンたちはにわかに騒ぎ始めた。これまで一度も金本が試合にでていないともなれば当然である。
 なにかあったんじゃないのか、という声は急激に高まり、球団側に事情説明を求めたが、彼らは口をつぐんだままであった。
 そして、開幕戦を明日に控えた夜のことだ。
 監督室の前に一人の男が立っていた。金本知憲である。
 金本は扉の前でひとつ深呼吸をすると、扉をノックした。中では真弓監督が翌日のオーダーに頭をなやませていた。
「入ります」
 そう言った声の主が金本であることに真弓は彼の姿を見るまで気がつかなかった。
 金本の顔を認めると、多少驚いた顔を見せ真弓は言う。
「どうかしたのか?」
 しかし真弓はすでに理解していた。金本が何をしに来たのか。彼の目には決意の色が明確に灯っていたからだ。
「明日の試合、もしスタメンで自分を使うつもりだったんなら降ろしてください。明日だけやない。それからもずっとです」
 つまりは今シーズンいっぱい使わないでくれという嘆願である。それは記録を捨て治療に専念するという表明でもある。
 わかっていたとはいえそれは衝撃の言葉である。
 もはや金本の記録は金本だけのものではなくなっていた。その記録を自らとめるということがどういうことなのか金本にわからないわけがなかった。
 真弓は金本をじっと見つめ、一呼吸の間をおいた。
「ええのか?」
 試合にでないことだけではない。おそらく欠場することを叩くファンもいるだろう。期待が大きければ裏切られた時の反動は大きくなる。熱狂的なファンほど騒ぎ立てるであろう。
ファンだけではない。球団側からもだ。すでに一五〇〇回記念の話は真弓にも届いていたし、直接的にではないが金本を試合に出し続けるような含みを持たせたことを言われていた。
 真弓の言葉の真意を理解して、金本は頭をさげた。
「監督には迷惑かけると思います。でも!」
 真弓は金本の言葉を手で制した。
「いい。言わんでも な」
 叩かれるのは金本だけではない。ファンにマスコミに、そして球団に真弓も同様に叩かれるであろう。
 おそらく多くのファンは金本の決断を理解してくれるだろう。記録のために野球があるのではないことを理解してくれるだろう。
 それでも目先のことにとらわれ、理解しないものもいるだろう。そういう彼らの悪意を真弓も肩代わりすることになる。
 しかし、そんなことは真弓には問題ではなかった。金本知憲という選手が来年、万全の状態で戻ってくるというのであれば、そんなことは苦にならなかった。

 その翌日の開幕戦。縦縞のユニフォームを着たファンたちの口からは落胆の声が漏れた。
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