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S.T.H

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「われわれの間には悲しいすれ違いがあったわけだが」
 と白垣は締めくくった。
 目にくっきりと青タンが浮かび上がりハムスターの頬袋のように顔が腫れている。
 下手人は開き直ってツンとそっぽを向いている。謝罪も賠償も踏み倒す腹だ。
 白垣は髪に手を突っ込み探し物でもするようにぼりぼり掻き回し、
「まあ、いまはひとまず水に流すとしよう。よく考えてみれば、この建物もスポンサーどものもので僕のものじゃないからどうでもいいや」
 シマと蛇崎と黒い構造物の間に白垣は挟まれている。大破したバイクはほっとかれて自然鎮火を待つばかりだ。
 黒板を背にした教師のようにトントンと指の関節で壁を叩き、白垣は続けた。
「きみたちに必要なのは、ゲームだ。それ以外にきみたちに価値はない、とスポンサーたちは思ってる。彼らはこのゲームの出資者たちで、彼らなくしてこの勝負はありえなかった。感謝痛み入り、きみたちを賭けの対象にしてポップコーンとコーラ片手にこの光景を見物している金持ちたちになにか言うことは? ちなみに僕の服についた小型カメラから彼らは絶賛観戦中」
 蛇崎は、ジャケットのポケットに手を突っ込んで口をすぼめて答えた。
「クソして寝てろ」
 シマは、両手首につけたブレスレットの位置をしきりに直しつつ答えた。
「寝てからクソしろ」
「――オッケーどうやら伝わったようだ。ポップコーン投げてる音が聞こえる。僕は知らないからな。じゃ、ルール説明に入ろう。なに、めちゃくちゃ簡単だから安心してくれ。人呼んで『三歳児の遊戯』、麻雀みたいに七面倒くさくない」
 白垣は、構造物を振り返って二つの扉を開け放った。
 蛇崎は乾いた一瞥をその中身にくれ、シマは首長族が身につけるような首輪をはめているせいで、覗き込む首が余計に長く見えた。
 階段だった。
 打ちっ放しのコンクリート、ところどころにひび割れが入っている。幅は大人が三人、力士がひとり通れるほど。親切にも両側にはパイプ状の手すりが備え付けられていた。等間隔に設置された蛍光灯のあかりが、空港の離着陸場を思い出させる。
 奥になにが潜んでいるのか、数十段ほど下がったところにある平らな踊り場の先は、視力2.0を誇るシマの目をしても見通すことはできなかった。
 だが、なにをするのかはわかった。
「もしかしてさ、ガッキー、この階段って、」
 ガッキーってなんだ、と白垣は思った。
「そう、きみの想像通りだと思うよ。制限時間は二時間。きみたちにはそれぞれこの階段を降りて、その段数を、」
 シマと蛇崎の呟きが重なった。

「数える……」

 にやっと白垣は笑い、二人の背後に回った。
「そういうこと。なにか質問は?」
 蛇崎が先手を打った。
「お互いの通路を行き来したりできるのか? もちろんできな」
「できる。踊り場が見えるだろ? 横に扉があって、移動できるよ」
「――なんで?」
「もともとこの建物は、ひとりの逃走者とそれを追う追跡者を観戦するのが主な使い道でね。今回のカウンティングは特例なんだ。だから、その名残」
 はいはーいとシマが元気よく手を挙げた。おめめが輝いている。
「じゃ、相手を殺しちゃってもいいの?」
 蛇崎が不愉快そうに眉をひそめた。
「いやいやいやそういうゲームじゃないからこれ。殺すってなに? いのちをだいじに! やせいおさえめ! お願いしますよシマ先輩、いくら血に餓えても相手を殺したら即失格」
 ふーん、とシマは生返事をし、空に読み上げる原稿があるかのように顎をあげて遠い目をして、じゃあさ、と続けた。
「踊り場って階段としてカウントされるの?」
「されない。階段としてカウントされる幅と長さ言おうか? ま、面倒くさいからいいか。正式な数え方で踊り場を階段に含めるかどうかはともかく、今回は含まないってことでよろしく」
「手すりと壁と天井は階段?」
「壁……?」
 白垣と蛇崎の脳裏に九十度回転した通路をスキップして降りていく楽しげな少女の姿がよぎった。咲き誇るような満面の笑顔だった。
 こいつならやりかねない。
「手すりと壁と天井は壁としてカウントしない。壁を歩きたかったらご自由にどうぞ」
「うん、わかった」
 それがどっちのわかったなのか空恐ろしくて白垣は聞き返せない。
「それじゃ、もういいかな。そろそろゲームに、」
 と、白垣は口を開けたまま停止し、じっと空中を見据えたまま動かなくなった。
 なにかに耳を澄ませているのだ。やがてひとつ頷き、
「いまスポンサーたちからきみたちへのありがたい『ボーナス』の話が来たよ」
「へえ、どんなボーナスだよ?」蛇崎がぺろりと舌なめずりする。
「三番目の踊り場からは、どうも宝箱が置いてあるらしい。これはきみたちが最初に入った通路のものしか開けられない。だから、敵の通路の宝箱は開けられない。宝箱は、相手より先に開けないと開けられなくなる」
「争奪戦ってわけ?」シマが首輪(蛇崎にはそれがシャクトリムシにしか見えなかった)の隙間を爪で引っかきながら言った。
 白垣が首肯し、
「そう、もちろんボーナス宝箱は開けてびっくり、なんと一億円の小切手が入ってる!」
 わーぱちぱち。シマの拍手が虚しく響く。
「これは完全にスポンサーたちからのご褒美だから、取られた方の負債になったりしない。そして、踊り場の数はいまのところ、きみたちにはわからないわけだ。最後にどれだけのものを手に入れられるかも……」
「じゃあ至れり尽くせりで問題はないんだな?」
「いや、蛇崎、そうでもない。この宝箱は、厄介なことに、ほっとくと爆発する」
 どかーん、と白垣は手を広げて笑った。
 二人は笑わなかった。
「いや、ごめん、爆発はしない」
「死ね」
「死ね」
「生きていたいといまは思う。で、爆発ってのは隠喩だよ、センスを発揮してくれたまえ諸君。この宝箱は相手にすべて取られたときに」
 白垣はぴっとシマを指差し、つうっと指を滑らせてぴたっと蛇崎を指し示した。
「取られた方が、無条件で負ける。残念だったねギャンブラー諸君」












 ――このゲームで、最初から動かず二時間待って『0』を申告することは、絶対にできない――











 むすっと押し黙った蛇崎の脇を、シマが肘でつんつん小突いた。
「だってさ、どう思う、キミ? やっぱゼロにする気だった?」
 蛇崎はつんつんされないように一歩遠のいて、笑顔の欠片も見せずに答えた。
「いまでも、そうするつもりだよ」
「え?」
 よく考えてみろよ、と蛇崎は肩をすくめた。
「二時間階段をカウントしながら降りるんだぜ。どんどん段数は上がってくるし、どんどん息は切れてくるし、どんどん膝は震えてくるし、どんどん不安になってくるんだ。予言する」


「――あんたは、決して最下層へは降りられない」


「――へえ?」
「なんで、せいぜいがんばって階段降りてくれよ。おれはのんびりあぐらでもかいて待ってっから、あんたが干上がっちまうのを。ラクな仕事だ。引退間近の最後の勝負ってのは大抵そういうもんだ。熱くもなけりゃ疲れもしない、そっと終わる、静かな去り際」
 そういうもんなんだ、と蛇崎はもう一度繰り返した。
 それがケリってことなんだ。
 そんなチャチな挑発を、黙って流せるシマではなかった。
 ぐいっと身を乗り出して、鼻と鼻が触れ合いそうなほど顔を近づける。
 濡れたように瑞々しい薄い唇から、研ぎ磨いたような犬歯がちらりと覗く。
 そっと囁いた。
「キミを熱くさせてみせるよ、焦げつくほどに……生身のままで」
「やれるもんなら」
 噛みつけるほどの近さで蛇崎は歯茎をむき出しにして笑う。
「――やってみな」




 シマと蛇崎が扉のノブを掴む。
 まったく同じ姿勢で、しかしその中身はどうだろう。
 白垣にはわからない。
 ただ彼は、傍観者らしく、観戦者らしく、野次を飛ばすだけだ。
「――勝負の内容はカウンティング”Stairway To Hell”!
 賭けるものはお互いの『全存在』!
 不肖この白垣真”Golden Gamblers Stage-NET”の全権限を担い、この勝負、仕切らせて頂くッ!」
 こめかみに垂直にかざされた手刀が、空を切った。

「――VIC LUCK」













 ばたん、と扉が閉じた。
 風の音さえしない。
 扉が完全に閉まる前、白垣真は確かに見た。
 蛇崎香介が、狭まっていく隙間のなかでぐいっと自分に向かって親指を立てるのを。






 その手がしっかりと、万歩計を握り締めていたのを。





 ゲームを知るということは、つまり、神になるのとあまり変わらない。

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