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永遠の中で訪れる喪失と言う別れ

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 また明日。
 そう言って教師が出て行くと教室が少し騒がしくなった。
 僕は習慣のように、いつもと同じように窓越しに雪が降るのを見つめた。
 そうしている間にも他の生徒達は教室から出て行き、僕もややあって鞄に手をかけた。
「蛍君、帰るの?」
 そう、まだ残っていた若葉に声をかけられ、僕は頷こうとしたけれど、ふとイブに言われていた事を思い出す。
 彼女に渡された封筒は今は鞄の中に入っていた。
「今日はちょっと行くところがあるんだ」
「先輩と?」
「いや、そうじゃない」
 じゃあ、どこに? と聞かれ西区に行くと答えると彼女は首を傾げた。僕がなぜ西区に行くのか理由が分からないようで、僕はイブに頼まれてね、とその疑問を埋めると彼女は小さく「あぁ」とだけ口にした。
「ねぇ、蛍君、イブって人どんな人なの?」
「あぁ、若葉は会った事ないんだね」
「うん、名前くらいは知ってるけど……あとは噂くらい」
 少し喉にひっかかるような言い方。
 もしかすると彼女が知っているのは酷く断片的な情報なのかもしれない。彼女じゃなくても、イブの事をあまりよく思っていない人がいるのは確かだ。元娼婦のホームレス。それだけを切り取ってしまえばそんな風に思ってしまうのもしょうがないのかもしれない。
「いい人だよ。僕――僕達と言うべきかもしれない――にとっては仲のいい母親みたいな存在かな」
 今まで僕を見下ろしていた彼女がすぐ傍の席に腰を下ろし、それを見て僕は鞄から手を放す。
「それに話していると単純に楽しい、かな。僕の知らない事を沢山知ってる。彼女ほど長く生きている人はいないから彼女の話を聞いているだけで僕なんかは驚いたりする事もある」
「前に、蛍君がその人と歩いているの見た事あるの」
 彼女は僕の台詞に対する返事とは少しずれた言葉を口にした。
 風が吹いたのだろうか、窓が小さく音を立てた。僕の鼓動とシンクロするような小刻みな音。
 いつの事だろう。先日彼女と腕を組んで歩いていた事を思い出す。
 それを若葉は見たのだろうか。
「イブって人、綺麗な人だね」
「……そうだね」
「蛍君楽しそうだった。並んで歩いていただけだけど」
「……そうかな」
 彼女に見つめられて、僕は弱々しくそう口にした。自分でもそれをはっきり自覚し、僕は自分の滑稽さに押し潰されそうになる。
 なにがそうかな、だ。楽しい、とついさっきはっきり言ったのは僕だろう。一体なにを舞い上がっているんだ。自分で自分の首を絞めているだけだ。
「その、彼女は面白い人だから、僕もつい笑う事が多くなるんだ」
「……本当に仲いいんだね」
「彼女は皆と仲いい。皆彼女の事を慕ってて、家族みたいなものなんだよ」
「蛍君も家族の一人?」
 出来る事なら、今だけは彼女の視線から逃れたかった。
「そうだよ」
「そう」
「あの」
「なに?」
 饒舌な視線を閉じてしまえ。その瞳の向かう場所を逸らしてしまえ。
 僕は結局逃げる事を選んだ。
 ただ、不器用な口調で話題を変える、と言う方法で。
「これから西区に行くんだけど、若葉もよかったら来ない?」
「私? どうして?」
 イブに頼まれたからだとは言えなかった。
「初めて行くところだし、一人で行くのも退屈だから。若葉がよかったらだけど、どうかな」
「イブから頼まれた事なんでしょう? 私がついていっていいの?」
「いいよ、そんなの気にしないでさ。行こうよ」
 僕はそう言いながら、彼女が考える猶予すら与えず立ち上がった。そうしてすぐにも歩き出そうとする僕に引っ張られるように「じゃあ、行く」と彼女は頷いた。
 僕は卑怯者だ。彼女の口からイブの名前が出てくる事に怯えて、それに答える術を持たず、こんな風にうやむやにして逃れる事でしか先に進めないのだから。
 どう言えばいいのか、どう言えば、僕自身が納得できるのか分かりもしないのだから。


 切符を二枚買い、一枚を彼女に渡した。
 セントラル駅内のホームにあるベンチに並んで座り電車が来るのを待つ事にする。
 僕が誘ったのに、切符を手にした時彼女は「ありがとう」と言った。
「今日も寒いね」
「そうだね。いつまでたっても慣れない」
「私も。ねぇ、蛍君」
「ん?」
 少しでも冷気から逃れようとするように、コートの襟を寄せながら僕の名を呼んだ。僕は軽く視線を向けて答える。
「えっと」
「どうしたの?」
「その……私、生まれてから四年くらい経つんだ」
 少し恥ずかしがるように、ベンチから伸ばした足をブラブラと揺らしながら彼女はそう言った。
 右足と左足が交互に上下するのを、僕はなんとなく見つめる。その交叉がしばらくして収まるまで、僕も彼女も無言のままだった。
「……私、お姉さんって事になるのかな、蛍君から見ると」
「どうかな。若葉が僕より長く生きている事は知ってたけど、あまりそれを意識した事はなかったよ」
「じゃあ、ちゃんと同い年?」
 一体彼女がなにを言いたいのか僕には分からなかった。だけどその確認するような口調は、きっと冗談で返される事を強く拒んでいる事だけははっきりと理解出来た。
 この世界で生き続けている事。
 だけど彼女が聞きたいのはそういう事ではないのだろう。
 同い年の僕達のはずなのに、実際は彼女の方がずっと長く生きていると言う事。
 そこに距離はあるのだろうか、ないのだろうか。
「……同い年だよ。僕達はちゃんと同じ年齢の十六歳で差なんてない」
「本当に?」
「本当に」
 念を押すように僕は彼女に頷いた。
 僕達の脳は、成長しない。衰える事もない。前進も、後退もしない。
 ずっとそのまま。
 だけど、仮に心があるとしたなら。僕達の活動を行うための脳とは別に、もう一つ僕達の行方を決めるものとしての心があるなら。
 それは生きる事によって姿を変える事があるのかもしれない。今までの僕達と違う僕達が明日かもしれない未来に現れる事があるのかもしれない。
 その心が彼女をただの十六歳から少し変えてしまっているとしたなら?
 きっと大した事ではないのだろう。その距離はきっといつか埋められる。
 ゆっくりとした足取りだったとしても、僕はいつか、彼女の背中に追いつき、並んで歩く事も出来るだろう。
 ただの十六歳として。
「そう、よかった。ありがとう」
「なんで礼なんか」
「なんとなく、安心したから」
 もうすぐ電車来るね。
 そう言って彼女は立ち上がった。彼女のすらりとした後ろ姿を見て、僕も釣られて立ち上がる。
 そうしてなんとなく彼女のすぐ隣にならんで、ちらりと覗き見るように彼女の横顔を見た時、彼女が笑っていたように見えたのはきっと錯覚じゃない。
 ホームへと電車が滑り込み、その風圧に雪の粒達が逃げるようにばらばらな方向へと飛び交っていき、彼女の黒い髪が、小さく揺れた。
「蛍君、西区に来たのは初めて?」
「そうなんだ。住所を聞いては来たんだけど……」
「どのあたり?」
 西区にやってきてホームの正面から出た僕は、中央区とは違う街並みの様子に面食らっていた。どちらかと言うと繁華街や歓楽街をメインに作られている中央区と違い、西区は閑静な住宅街と言う様子で落ち着いた造りだったが、駅から伸びる道の両脇に建てられた家屋は僕が住む安アパートとは違い、豪奢な造りの物が殆どだった。どうやらこの地区は僕達よりも裕福な層が多いのかもしれない。
 どうせ言っても分かりっこないだろうと思いながら、彼女に住所を教える。
 すると彼女は僕の予想に反して、しばらく悩んでから「そこ、知ってるよ」と答えた。
「え?」
「その住所……ずっと前だけど聞いた事あるような気がする」
「若葉西区に来た事あるの?」
「うん、もう随分昔だけど一度だけ」
 彼女は住所を確認するように、小さく口元だけを動かしながら、何歩か歩を進め辺りを見回した。そうしながら記憶を揺り起こそうとしていたのか、振り返った時には「確か、こっちだわ」と駅から伸びる道の一つを指差した。
「本当に?」
「大丈夫よ。そんなに遠いところじゃなかったから歩いていこう」
 はっきりとそう言うのでタクシーを拾おうとしていた僕は、彼女に従う事にした。どうせ間違っていたとしても遅れた事に文句を言う人など誰もいないし、彼女と並んで歩くのも悪くないと思えた。だけどそれでも彼女がその家の場所を知っているという事が僕はどうしても気になっていた。
 僕はイブが彼女を連れて行け、と言った事に大した理由があるとは考えていなかった。せいぜい彼女が悩んでいた僕にどうせなら、その彼女と少し遠出でもしてみればいいと思って口にしたのだろうくらいにしか思っていなかったのだけれど、目的地を彼女が知っているとするなら、他にも理由があるのかもしれない。
「どうかした? 蛍君」
「……ねぇ、若葉。前に来た事があるって、その時は誰と来たの?」
「……思い出せないの」
「一人で来たんじゃないんだろう?」
「うん、そうだったと思う。この家に住んでいる人の事、私はよく知らないし」
 要領を得ない返事に僕は首を傾げたが、彼女自身もなんだかはっきりしない自分に戸惑っているようだった。よく知らない、と言う事はきっと若葉の知り合いと言う事ではないのだろうが、ならば、その時も誰かがイブに頼まれたという事なのだろうか。
 だけど彼女の友人の中で、僕以外にイブと面識があると言う人は僕の記憶の限り思い浮かべる事は出来なかった。
「誰だったんだろう……多分仲のいい子だったと思うんだけど」
 そうじゃなきゃ西区にまで付き合ったりしない。
 だけど、そうならなぜその人の事を思い出せない?
 彼女の足が止まり、導かれるように歩いていた僕も、その場に立ち呆けた。
 また当時の記憶を振り返ろうとしたのか、周囲に視線を何度か巡らせ、そうやって思案に暮れている間、僕はただ沈黙し、彼女が口を開くのを待った。
 何度か、左右に振られたあと、諦めるように止まり、そしてその細い顎がゆっくりと持ち上がり、彼女は今度は空を見上げていた。
「おかしいね。道程やこの景色も覚えているのに、誰と来たかを覚えていないなんて」
 そんな事ないよ、と言う気には到底なれなかったけれど、だからと言ってそうだね、と言う事も憚られた。
 一体どんな台詞が一番ふさわしいのだろう。と僕は正解を探そうとするのだけど、いつまで経ってもそれを手繰り寄せる事は出来そうになく、僕に出来たのは彼女が苦笑するまで、辛抱強く待つ事だけだった。
「その時雪が降ってたかどうかも覚えてないみたい」
「こんな風に僕達の後ろに足跡がついていたかどうかも?」
「うん、ダメね。なんでだろう。嫌な事でもあって無理やり忘れちゃったのかな」
「随分と器用な忘れ方に思えるけど」
「私もそう思う」
 そう言って諦めたのか再び彼女が歩き出した。
 一体その時来た相手とは誰だったのだろう。
 そんな事を僕が考えても、彼女が思い出せないのだから分かる訳がなかった。そしてその事を思い出せない彼女は、それでも幾つかの交差点を越えながら、その間一度も道に迷う事無く進み、再び彼女が足を止めた時、僕達はメモに書かれている住所の場所に辿り着いていた。


 門脇、と書かれている表札の下に置かれているインターホンを押し反応を待つ間に溜め息が一つ零れていた。
『はい』
「あの、イブの使いです。届け物をもってきたんですが」
『少々お待ちください』
 それだけを言うとインターホンがブツっと音を立てて途切れた。相手の声はそれなりに若さを感じさせたが、慇懃な様子ではあるのだけれどどことなく機械的でもあり、僕はもう一度溜め息を零し、目の前に広がる自分の背丈よりも高く、向こう側を覗く事を頑なに拒んでいるかのような外壁をもう一度見上げた。
 西区の様子から想像はしていたが、その中でも一際大きな豪邸に門脇さんは住んでいるようだった。
(……一体、イブとはどういう関係なんだろう)
 オートロックらしい門扉がガチャリと音を立てた。なんだか想像していたよりも面倒くさそうな事態になるんじゃないだろうかと多少憂鬱になりながら僕は門をゆっくりと押す。
「凄い豪邸だね」
「うん、私も初めて来た時は驚いた気がする」
「さっきの声の人が門脇さん?」
「ううん、あの人は……」
 そう彼女が言いかけたところで、僕は広い庭を挟んだその向こうにある玄関が開けられ、一人の男性が姿を見せた。彼は僕達の姿を認めると、その位置からこちらへと深々と頭を下げた。
「執事さんだよ」
「あの人が?」
「そう」
 若葉が囁き、僕は歩きながら彼に会釈を返した。執事と言えば僕には堅苦しいイメージがあるが、その想像よりも彼は少し砕けた様子で、スラックスとワイシャツを着てはいるけれど、どちらかと言えばサラリーマンのように見えなくもなかった。
「こんにちは」
 彼に近づき、そう挨拶するとまるで鸚鵡のように「こんにちは」と返ってきた。インターホン越しに感じた冷たさは、直接だと更に冷たさを増したようで、僕は若干たじろいでしまう。
「お久しぶりです。円さん、でしたよね」
 そう若葉が切り出すと、円さん、と言われた彼は「ん?」と言う表情をして彼女を見つめた。
「……あなたは確か工藤若葉さんでしたか?」
「はい、そうです」
 そうやりとりをして、彼はふと目を伏せた。
「お久しぶりです。お元気そうでなによりです」
「円さんも。門脇さんの御容態はどうですか?」
「お元気ですよ。そうは言っても三年前と変わらずですが」
 そこでようやく彼は笑顔を見せた。
 僕よりも少し年上に見えるが、雰囲気だけは実際よりももう少し大人びていた。それはどことなく、彼が疲れたような様子だからかもしれないし、その冷めた印象のせいなのかもしれない。
「あの、イブから渡すようにと言われて持ってきたんですけど」
 鞄から封筒を取り出そうとした僕を、彼が手を伸ばして制した。
「いえ、それは主人へ直接お渡しください。ご案内いたします。中央区からここまでお疲れでしょうがお願いします」
「いえ、ここまでの道を彼女が案内してくれたので」
 その言葉に玄関に手を伸ばしていた彼の動きがピクリと止まった。
 それは一瞬で、その後彼は何事もなかったように玄関が開かれたが、背を向けていた彼が再び僕を見た時、彼の眉間に小さく皺が寄っていた。
「……彼女に案内を?」
「え? ええ。僕は西区に来た事も初めてでしたから」
「……あぁ、そうでしたか。それは失礼しました。私、円と申します。お見知りおきください」
「え、あ、はい。相原蛍です」
「……それではどうぞ、中へ」
 建物の中へと彼が入っていき、僕達はそれに促されるように中へと足を踏み入れながら、自然と若葉と目を合わせていた。
 彼女も僕と同じように、どこか違和感を覚えているらしく奇妙な表情を浮かべていた。
 彼は、僕の事を誰かと勘違いしていたのだろうか?
 もしかすると彼が口にした「三年前」に若葉と一緒にいた「もう一人」だと思っていたのかもしれない。
 だけど。
 ……工藤若葉さんでしたか。
 彼ははっきりと殆ど迷う事無くそう口にしたのだ。そう、彼は彼女の事をしっかりと覚えていた。三年前の事なんて僕は生まれてもいないからその時の事なんて知らない。もしかすると若葉だけが彼の印象に残るような出来事があったのかもしれない。だからその「もう一人」の事は覚えていなかったのかもしれない。
 もしかすると、それとは関係なく他にもここを訪れただろう「イブの子供達」の中に僕に似た人がいたのかもしれない。
 それだけの話なのかもしれない。
 だけど。
 誰の記憶に残る事もない。
 誰の記憶からも忘れ去られてしまった。
 その「もう一人」とは一体誰なんだ?
18, 17

秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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