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傷の舐め合い

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 彼女は強い人だった。
 私は弱い女だった。
 私と彼女は、似ていた。
 世間が怖く、周りを見ても敵しかいない。血が繋がっていても、それはおぞましい事実としか感じられないほど、両親は信用ならなかった。
 そんな血なら、すべて体から出してしまいたい。
 そう思った時には、反射的に手首をカッターナイフで切っていた。
 しかし、どうしてだろう。そういう時に限って、生と死のタイトロープを渡り切ってしまうのは。
 天国みたいな白が目の前に現れたと思ったら、黄ばんだ白が目の前に現れて、落胆した。
 あの美しい世界に、どこまでも白が続く無の世界にいたかったのに。
 どうして、私はこの汚れた世界に戻ってきたんだろう。
 この世界にいる意味なんて、私にはわからない。
 看護師が私の顔を覗き込み、意識が回復したのを確認すると、部屋を出て行き、医者と一緒にやってきて、『命は大切にしろ』とありきたりな事を言い残して、去って行った。
 命を大切にしろ、というなら、そう思える環境を用意してほしい。
 この世に生きる人間の、半分くらいは、『停滞する』事の怖さを知らないのだ。特に、医者という、高い社会的地位にいる人間なら、尚更だ。
 命を助ける事に理解はあっても、
 生きる心を育む医者に出会った事はない。
 進めず、かと言って戻れず。
 どこへ行けばいいのかもわからないまま、退院してから、私は毎日窓の外を眺めていた。
 できる事と言えばリストカットだけだった。
 私に人間の血が流れているというおぞましい事実を確認する行為であり、その血を捨てる、私にとって神聖な行為。
 その度に倒れて、その度に医者の元へ連れて行かれ、何度目かの頃には心の医者へと連れて行かれ、知った風な口と、錠剤をいくつかもらっただけ。
 人間は、他人から理解される事を求める生き物だと知っているけど、理解された気になるのは我慢出来ない。
 心療内科の待ち合い室で、処方箋を見ながら、私はそんな事を思っていた。
 誰にも理解されない。
 理解されるつもりもない。
 私は、とにかくこの世界から逃げ出したい。
 みんなは言う。
『逃げるのか』
 私は言う。
『逃げちゃダメなの?』
 なんで? 逃げるという行為は、悪なのか。
 私は、敵わないと思ったなら、すぐに逃げる。それでいいじゃない。
 まるで、逃げたら死ぬと言わんばかりで、私にとっては、それが目的で。
 つまり、私と考えている事が反対なのだ。
 いや、何も考えていないのかもしれない。
 この世で思考しているのは、私だけなのかもしれない。
 やっぱり、ここは私のいるべき世界じゃない。
 私の頭が回る限り、私の思考も堂々巡りしかしない。
 そんな時だった。私は、私以外の人間に、初めて出会った。
 いや、その時、初めて私は、隣に座っていた女性の存在を感じた。
 隣に座る女性が、私の処方箋をジッと見ていたのだ。
「……なんですか?」
「ああ、ごめん」
 彼女は、こう言っていいのかわからないけど、しゃんとしていた。
 私は、心療内科に来る人というのは、基本的にゾンビみたいな人ばかりだと思っていて(そんな事はなく、むしろ私が一番それらしかったと思う)、コーヒーみたいに芳醇な黒髪を腰まで伸ばし、きちんとしたメイクの、黒いパンツスーツの女性だった。
「それ、なんて読むの? あなたの、名前」
「……|涙城一生《るいじょういつき》です」
「面白い名前ね。一生って書いて、「いつき」だなんて。名字も、聞いた事無いわ」
「皮肉な名前です」
 一生と名のつけられた女が、一生を全うせず死のうとしている。私の考えうる限り、最高の名前負けだ。
「あたしは|甘露寺雪香《かんろじせつか》。よろしく、いつき」
「……名前で呼ばないでください」
「いいじゃない。いい名前よ」
「……だから、嫌いなんです」
 私を苛む呪いだから。
 名前は、親が込めた願いだというのは知っているけれど、それに付き合わされるこっちはたまったものじゃない。
 私は、いつきという人間である事を、強制されている。
「いい名前、だから嫌い、か……」
 くくく、と、彼女は喉の奥で声を押し殺すような笑い方をして、私を見た。生命力にあふれる、しなやかな瞳をしていて、私は思わず目を逸らした。
「ねえ、近くに美味しいコーヒーを出す店があるんだけど、いかない?」
「……お断りします」
 立ち上がって、逃げようとした。
 けれど、彼女は私の腕を掴んだ。
「行きましょ。おごるわ」
「えっ、ちょっ!」
 強い力で引っ張られて、病院から出てしまった。そして、三分ほど歩いて、近くの喫茶店の、奥の席へといつの間にか座らされていた。
 親が付き添いで、一緒にいたのに。
 まあ、いいけど。
「コーヒー二つ。砂糖とミルクは?」
 首を振る。
 こうなったら、早く終わらせてしまおう。
 終わらせて……。
 終わらせて、どうする?
 また、家に帰って、青空を眺めながら、血を出すの?
 やっぱり、私は止まっている。進めない、戻れない。この場から逃げて、どこへ行けばいい?
「……警戒してる?」
「当たり前でしょう……」
「まあ、そうよね。別に何かしようとか、お金ふんだくろうとか、そういう気持ちは一切無いって、誓うわ」
 そう言われても、信じる気にはなれなかったけれど、この場から逃げようという気にはならなかった。
 どうせ私は、もうすぐ死ぬ。なら、なにがどうなったって、関係ない。
 それに、この場から逃げたって、何もない。何かがある場所にいたい。
 コーヒーが、私たちの前に置かれて、甘露寺さんは、そのコーヒーを口にした。
「あなたもどうぞ」
 そう言われて、私はそのコーヒーを口にした。
 ……苦い。苦くて、香りが鼻に抜けて行く。
 とても豊かな味だ、そう思う。
「それで、いつきはなんで、病院にいたわけ? ……いや、大体察しはつくけどね」
「自殺願望ですよ。ただ、死にたいんです。無性に。この世界にいたくない。私は人でなくなりたい」
「そっか。……私と似た様なものね」
 そう言って、彼女は、左手の袖を捲り、品のいい腕時計を外して、手首を見せた。そこには、見覚えのある、私のそれと同じ傷跡があった。
「私も同じ。この世界はうんざり。死にたいと思う。でも、周りで死にたいと思っているのは私だけ。そして、みんな似た様な事を言う。『自殺は逃げだ』『辛いのはお前だけじゃない』ってね」
 あぁ、やっぱり、どこも同じなんだ。
 どこでも、死はタブーで、死にたがっている人間は、まるで公害みたいに扱われる。『お前だけじゃなく、周りの人間に死にたがりが伝播したらどうする』そう言いたげに。
「でも、私はここにいたら、死ねない……。どうしても、助かってしまう」
「そっか」
 ずずっ……。
 甘露寺さんは、コーヒーを啜った。
「なら、ウチに来る?」
「……は?」
「余生はウチで過ごせばいい。私も、そろそろ死ぬつもりだけど、でも、やっぱり最後くらい、誰かと一緒にいたいし」
「そんな、非常識な……」
「死にたいって思うのは、常識的なのかな」
 にこやかにそう言われて、私はなんとも言えなくなってしまった。確かに、自殺より非常識な事なんて、そうはないだろう。
「でも、親になんて言えば……」
「言わなくていいんじゃないの。死んだら関係ないし」
 それもそうだ。
 あぁ、死ぬと思えば、なんでもアリに思える。
 私は、甘露寺さんの提案を、受け入れる事にした。
 残りの人生を、彼女の部屋で過ごすという提案を。

  ■

 甘露寺さんは、大きなマンションに住んでいた。
 二〇階以上ある、その真ん中くらいの部屋が、甘露寺さんの自宅だ。3LDKのそこに、彼女は一人で住んでいるらしい。
「……何か、仕事してる人なんですか?」
 そう聞いてみると、彼女は
「いや、何も。両親の遺産で食いつないでる」
 と、笑っていた。
 そんな状況でも、人は死にたくなる。贅沢なモノだと思う。
 私たちは、特別な話は何もしなかった。
 だから、私は甘露寺さんの事は何も知らない。
 彼女との思い出は、主にベットの上の出来事だった。
「そろそろ、寝ましょうか」
 晩ご飯にボンゴレパスタを食べて、二人で風呂に入って体を洗うと、甘露寺さんは突然そんな事を言った。
「……私は、どこで寝ればいいんですか?」
「ああ、こっち」
 甘露寺さんに導かれ、寝室へとやってきた。
 そこは、大きなダブルベットがあるだけ。簡素な寝室だった。
「一緒に寝ましょう」
「はぁ!?」
 思わず、甘露寺さんの顔を見る。彼女は、何も考えていないらしく、なんとも自然な笑顔をしていた。
 もしかして、変な事をする為に、私をここに連れて来たのか?
「変な事なんて、しないわよ。ほら、寝ましょう」
「……はぁ」
 私は、もう諦めた。このくらい、覚悟してなきゃ、そもそもここまでついて来ていない。
 私たちは、向かい合うようにして、寝転がる。
 そうしていたら、彼女が私の左手を取った。いきなりで驚いて、体がびくりと跳ねる。
 そうして、彼女は私の傷を、舐めた。
「ひゃっ……!」
「傷跡って、敏感なのよね」
 くすくすと、いたずらっぽく笑う甘露寺さん。
 そして、私に、自分の左手を差し出した。
 舐めて、と言われたわけではなかった。
 けれど、その時の私は、それが使命なんだと思ったみたいに、彼女の傷跡を舐めた。
 私のよりも深い、圧倒的な違和感と、存在感を放つしこりが、そこにはあった。これは、彼女の、心の傷なんだ。
 そうわかると同時に、私はなんだか、酷く安心した気分になって、私の傷を、もっと彼女に舐めてほしいと思った。
 私達はどれほど、お互いの傷を舐め合っただろう。
 手首がよだれで濡れて、安心もピークになり、眠気が襲って来た頃、彼女はそっと、私を抱きよせた。
 彼女の胸に包まれて、私は母親を感じていた。
 私の、何をしてもヒステリックに怒っていた、ケダモノめいたあの人ではなく、もっと本能的なモノだった。
 私は、この関係の虜になっていた。
 甘露寺さんと、傷を舐め合い、何をするでもなく、その場にいるだけ。
 進むでもなく、止まるでもないけれど、誰かが、私と同じ事を思ってくれる誰かが、隣にいてくれる。それだけで、ただ、この時間が、人生が、愛おしくなった。

 そう、思っていた。

 彼女が、突然自殺するまでは。
 甘露寺さんと、どれだけ一緒にいたのか曖昧になった頃、私は朝寝坊をした。
 そうすると、血塗れたソファに座る彼女がいて、私は「あぁ……」と溜め息を吐いた。
 甘露寺さんは、先に死んだのか、と。
 彼女がなぜ死にたがったのか、私にはわからないけど、いつかこうなる日が来るとは思っていた。
 でも、できれば、私はもっと、甘露寺さんに抱きしめてほしかった。
 もう一度溜め息を吐いて、私は、彼女の隣に座って、寄り添い、彼女の右手に握られていたカッターナイフを手に取ってから右手を持ち上げ、夥しい血が流れる傷口を舐めた。
 残酷な味がした。
 私を安心させてくれた、あのぬくもりが次第に失われて行き、早くしなくちゃと思って、私は甘露寺さんの腕を抱きしめたまま、自分の左手にカッターナイフを押し当てて、傷口を開いた。
 私の傷を舐めてくれる人は、もういない。
 甘露寺さんと同じ所へ、いけたらいいな。
 そうしたら、もう一度抱きしめてもらいたい。
 優しい暗闇が私の頭を包んで、それから、私の望み通り、二度と目を開く事はなかった。
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