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第二話『白い少女』

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 祖母の家の近くには小さな森がこんもりと茂っている。その外れには古ぼけた井戸がある。あんなものとっくに枯れてしまったよ、と祖母は言う。だからあまり近寄らないようにな、とも。
 けれどそこは木々に囲まれて、日溜まりの温かい、とても静かな場所だから、晴れの日にたびたび訪れては、石の壁にもたれて本を読んだり、昼寝したり、そんなことをして時間を潰していた。

        ○

「やあ、こんにちは」
 天気のいい日のことだった。降り注ぐ真昼の日光が世界を黄金に染めあげて、まるで鮮やかに輝く宝石のなかに飛び込んだような、そんな温かい日のことだった。
 井戸に少女が訪れた。
「今日はいい日だね。本当にいい日だね。珍しいことだよ。太陽がこんなにも優しいなんて」
 見たこともない少女だった。ふわふわフリルのついた、中世の西欧を思わせる意匠な純白の服を着ている。ニーソックスも靴も真っ白で、胸に結んだリボンだけが殊更に赤い。なにより驚くのはその肌の色で、白に塗り込められた服の色よりなお白い。よく透き通った、混じりけのない柔肌は、触るだけで汚れてしまうような、神秘的な清潔感をはらんでいる。頬にはわずかに朱がさして、黄昏のような瞳は丸く、長い睫毛がまたたく。風になびく金髪が日溜まりに溶け込んで、きらきらとまばゆい。
 人形や絵画などでは到底おっつかない圧倒的な美しさにしばし息も出来ないほどに見とれた、啓示のような出会いだった。
 視線がまじりあった。
 一秒一秒がとてもゆっくりに感じられた。
 心臓の鼓動がよく聞こえた。
 その間延びした時間いっぱいに、
 ぐううううううう。
 と、音が響いた。
 腹の虫の鳴き声だった。
「あのさ……。なにか食べ物、持ってないかな?」
 そう言って、少女は恥ずかしそうに笑った。
「いいよ。ちょうどお稲荷さんがあるから、これをあげよう」
 この辺は狐が出るから、と祖母が持たせてくれたものだ。毎朝せっせと作ってくれるのはありがたくもあり、申し訳なくもあり、ただ味の方は無類で、おやつ代わりなんかにもなるのでとても重宝した。
 パック詰めを手渡すと、少女はにっこり嬉しそうに、
「ありがとう!」
 そうして、よほど腹が空いていたのか、手づかみでむしゃむしゃと頬張り始める。がつがつとした猛烈な勢いに反して、見た目にはちっとも下品に見えないのが不思議だった。
 そうして、あっという間にたいらげてしまって、満足そうに重々しくうなずく。
「うん。これはちょっと本気で美味しいね。芸術といってもいいくらいだよ。……きみが作ったの?」
「いや、祖母がね」
「そっか。おばあさん、大切にしなくちゃ駄目だよ」
「もちろんだよ」
 僕が言うと、少女は何故か悲しげに笑った。その意味するところが分からなくて、じっと彼女の顔を見つめると、その首を振って、
「ううん、なんでもないんだ」
 と、一言。それから大きなあくびをひとつ。
「ちょっと眠くなっちゃった。ね、膝をかしてよ」
 わずかに潤む瞳でそんなことを迫ってくるのだから、一瞬思考が蒸発してしまう。霧散したシナプスを必死にかきあつめて、「どうぞ」と、あぐらに足を組み替える。
「おじゃましまーす……あいたっ」
 ゆっくり横たわって、ももに頭をあずけた瞬間、跳ねるように飛び起きた。
「ね、ポケットになにか入ってるよ」
「え?」
 手を突っ込むと、確かになにか固い手触りがする。つかんでひっぱりだしてみると、例の不可解な青い石が手の中で輝いている。
「わぁ……」
 少女が小さく声を漏らした。
「これ、真昼の星だね。きみのなの?」
「うん。もらい物なんだけどね」
「へえ。……もうちょっと近くで見せて貰っていいかな?」
 そう言って、にじり寄ってくる。ただでさえ近い距離がさらに閉じて、ついにはぴったり重なり合った。少女は肩に頬をなすりつけるようにして、ぼおっと光を味わっている。
「へへ。あたたかいね」
 それは日溜まりのことなのか、石が発する明かりのことなのか。口調からはどちらとも判断できなかった。
「うん……」
 曖昧に語尾を濁した。くすくすとくすぐるような返答が跳ねかえってきた。
「きみのことだよ」
 はっとして少女の顔を見ると、少女も僕のことを見ている。ふたり、じいっと瞳を見つめ合う形になる。宝石のように複雑な瞳の光彩はやはり夕焼けの郷愁に似ていた。
「あたたかい……ね。あたたかい。それって、生きてるってことだ。うれしいね」
 少女が呟くと、小さな夕焼けがじわりとにじむ。眼の端から涙がひとすじ流れ落ちる。しばらくそうして静かに泣いて、それから大きく嗚咽をあげて、僕の胸に抱きついてきた。服越しに少女の体温を感じる。その熱量が僕の腕の中で爆発して暴れ狂う。少女の小さな身体の内に、沸き上がる生命の源流を感じた。どうして彼女が泣いているのか、すこしだけ分かった気がした。
 少女は叫ぶ。
 僕に向かって叫ぶ。僕の向こう側で笑う何者かに叫ぶ。
「きみの鼓動が聞こえる! ……綺麗だ。とても綺麗だ」
 唾が飛び散るのにもかまわず悲痛な声を吐き出す彼女の、その真剣な表情はまるで澄み切った刃物のようだ。狂気にも似た香りを漂わせ、手のひらが血まみれになるまで先端を研ぎすませている。
「あああ。そうだ。ぼくはきみだ。きみはぼくだ。そうなんだ。ね。ぼくらは似ている。そうなんだろう」
 やっとのことでそれだけ言って、ふたたび嗚咽の海がひろがる。

        ○

「その石のせいだ……」
 少女は眼の周りを真っ赤に腫らしながら、なにか腹を立てているような、自己を嫌悪しているような、複雑な口調で言った。
「なんていったって、あの青い光がいけない。じっと見つめていると、どうにも感傷的な気分になってしまう。それがよくない。頼むから、その石はもう部屋の引き出し深くにしまっておくれ」
 真上にあった太陽もすでに遠くに傾いて、夕映えが世界を劇的に染めている。匂い立つような黄昏に、まるで少女の瞳の中にいるみたいだ、とそんなことを思った。
「さっきのことはもう忘れてくれ。きちがいのたわごとだと受けながしてくれ。いいね」
「うん。一切をなかったことにする。約束する」
 と言っても、あれを忘れることなど出来るはずもなかった。間近にまでせまった彼女の顔を受けながすことなど出来るはずもなかった。
「よしよし、いい子だね」
 僕の気持ちを知って知らずか、少女は笑って、すっと立ち上がる。
「じゃあ、ぼくはそろそろ帰るよ。お稲荷さん、ありがとう。美味しかった」
「大したことではないよ」
「それに、……いろいろと迷惑をかけてしまった」
「それも、だ。大したことじゃない」
「それでも、だ。大したことじゃなくても、さっきのことは忘れてくれ。ぼくはあんな簡単に泣くような女じゃないし、誰彼構わず抱きつくような人間でもないんだ。ぜったい。ぜったい忘れておくれよ」
「ああ、うん。それは分かってる」
 頷きながらも、忘れろ、忘れろ、と拒絶するような言葉の冷たい印象にすこしさみしくなった。それが表情に表れたのだろうか。少女はすっと手を差しだして、
「また会おうね」
「もちろん」
 握った彼女の手のひらは、草原の日なたのようにあたたかかった。
「じゃあね」
「うん、また」
 別れを交わすと、少女は背を向けて、今この瞬間も沈んでいく夕日の方向へと歩いて行った。西には草原が広がっていて、真っ赤に焼ける空を背景に、少女は小さな影法師だ。その背中をしばらく見送っていると、ふいに振り返って、鈴を鳴らすような声が響き渡る。
「そうだ、名前! 言うの忘れてたよね!」
 少女が大きく手を振って、その頭上には金星が輝く。
「なこ! ぼく、なこって言うんだ!」
「なこ! いい名前だね! 僕はね……」
 名乗ろうとして、いつのまにか、なこがどこかへ消えてしまっていることに気付く。あたりには黄昏だけが濃密にたちこめている。しばらくの間、そのけぶる宵闇を手のひらでもてあそぶ。そこにはまだ、彼女の熱がわずかにくすぶっていた。

        ○

 家に帰ると、冷蔵庫にはまだお稲荷さんの余りがしまってある。明日もこれを持っていこう、と。そんなことを思った。
2

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