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13.pietoso -哀れみをもって-

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 十分ほど緑色のバスに揺られた後再び地に足を降ろすと、そこは既に山の上と言える高度であり、右手の眼下には見慣れた神戸の街が広がっていた。その街並みを薄く広く覆う色はまた、蒼天を思わせるセルリアンブルーだ。しかしあと一時間もすれば東空は碧く暗く塗られ、西空の赤く白い絵の具と混じりあって、宇宙を思わせる幻想的なグラデーションを作り出す。花火らを待たせているとしたら、急いだ方がいいかもしれない。暗くなる前にことを済ませるほうが色々な意味で安全だろう。僕は歩きだした。
 足を動かす一方で、静先生の言葉が頭の中にリフレインする。
 俺の魂がある限り、俺の音楽は止まらねえ。
 思い返せば、全身が痒くなるくらいに気障で気取った台詞だった。だけど、そうじゃないと伝わらないモノだってある。音楽と同じだ。彼が格好つけたがりだ、というのもあるかもしれない。しかし伝えたいものがあるのなら、自然と格好ついてしまうものなのだ。何か人に理解してもらいたいものがあって、初めてそこで音楽という道具が役に立つのと同じように、歌いたい衝動があって、初めてそこでメロディーという言葉が役目を果たすのと同じように、静先生のやたらに洒落た口上だって、そういうことなのだ。
 事実僕は、彼の秘めたるモノを垣間見ることができた。そうさ。幽霊が音楽を愛しているのなら、それでいい。それは正解ではないけれど、それが免罪符になるわけでもないけれど、僕の目指す一つの答えまで辿り着く筋道はおかげで見えてきたように思う。
 幽霊だって、左手だけだって、完璧なピアノが奏でられなくたって、音楽は止まってない。だから僕も彼女も、まだ先へ進んでるってことなんだ。進めてるってことなんだ。
 そうだろ?
 少しだけ、ほんの少しだけ勇気がわいてきた気がして、勇ましく顔を上げた時だった。
「何かいいことでもあったのかい?」
「!」
 聞き覚えのある声に思考と足を止めて振り向くと、見覚えのある顔がそこにある。
「あ、この間の……」
「やあ久しぶり。やはりまた会ったね。君の背中が何やら楽しそうに見えたものだから、思わず声をかけてしまった」
 落ち着いた雰囲気の変質者、もといおじさんは、今日もまた頭に手塚治虫モデルのベレー帽を乗せていた。服装はグレーのシャツにブラックのジーンズと、シックにまとめている。彼は僕を見てニコニコしていた。楽しそうに見える、というのなら自分のほうがよほど楽しそうだ。そんな風に考えていると、またもや彼のほうから口を開いてきた。
「今日も買物かい?」
「ええ、まあそんなところです」
「精が出るなあ」
 うっすら髭の生えたあごを親指と人差し指でさすり、うんうんと頷く彼に僕は何を考えるでもなく問い返す。
「今日もロケーションですか?」
「ん? いやあ、今日はただの散歩さ。いい天気じゃないか。こういう日に家に籠っていては想像力が鈍ってしまうよ。それになんとなく、君に会える気がしてね」
「はあ、そうですか」
 一体どういう意味なのだろう。
「君は面白い目をしているから」
 一体どういう目なのだろう。
 という心の声が顔に出てしまっていたのかもしれない。男は少しだけ目を細める。彼の黒目の奥が、虹彩が、カメラのレンズがピントを合わせる時みたくぎゅうんと小さく丸まって、僕を鋭く射抜いた気がした。
「悩める若者の目だ」
 どうしてなかなか、ドキリとさせる台詞である。
「……悩める若者」
 半身を傾けるだけでは失礼かと思い、僕は坂道の下方へと全身で向き直った。
「丁度僕の娘のようにね」
「娘さんがいるんですか」
 少し、意外だった。
「ああ、ちょうど君と同じような年ごろさ。彼女もおそらく悩みを抱えているはずなのだがね」
 僕はその言い回しがひっかかって、思わず聞き返してしまう。
「はず?」
「まあ、なんだろうね。格好つけて言うと、すれ違いっていうやつかな。僕の望む彼女の幸せの形と、彼女の望む彼女の幸せの形が、合致していない気がしてね。お互いがお互いを想っているはずなんだが」
 男は、眦の下がった目を細めて、虚空を見上げた。そのまま何かを懐かしむように言葉を紡ぐ。
「人は常に、何らかの困難にぶち当たっているものなんだ」
「は?」
 いきなり、何の話かわからなくなったぞ。
「子供でも大人でも老人でも、みんなそうさ。だけどおそらく、思春期、君たちの年代くらいからだろうな、自身の選択の意味について考え始めるのは。困難を乗り越える方法は一通りじゃあないからね」
「……」
 全くもって抽象的で、絵画的な会話だったけど、僕にもなんとなくわかる話な気がする。だから、黙って耳を傾けた。
「彼女は、僕の為に何かをしようとしてくれている気がするんだ」
「……それはダメなことなんですか?」
「いいや? ダメなこともダメじゃないことも、僕が決めるわけじゃないからね。あくまでもそうするという選択肢を選んだ人間が考えることさ」
「じゃあ、どうして」
 どうしてそんなに憂いに満ちた顔をしているのだろうか。
「君は、誰かの為に何かをしたことがあるかい? それとも今、何かしているのかな」
「誰かの為に……」
 脳みその真っ白なキャンバスに、使いなれたパレットから色を選んで乗せた。自然とそれは人の顔になって、その顔はよく知った女の子になる。
「僕は――」
 言葉が、続かない。バックの距離が足りなかったチョロQみたいに、口から出た言霊は失速して地に落ちた。
「落ち穂拾い、という絵画を知っているかい?」
「は?」
 話のヒューズがよく飛ぶ人だな。
「ミレーという画家の絵画だ」
「はあ、まあ知ってますけど」
「あれはね、実は義母を思う娘の絵画なんだよ」
 男は僕に向き直って、こころなしか目を輝かせる。
「あの手の西洋絵画には大抵宗教的背景があるものなんだ。ゴッホも同じような情景をよく描いているね。ミレーの『落ち穂拾い』は、ルツとボアズという聖書の話なんだけど、本当は最下層の民がする恥ずべき行為である落ち穂拾いを、義母の為にルツは進んでやっているんだね」
 知らなかった。そもそも、絵画に対する知識なんて微塵もない。それでもこのおじさんの唐突な話に興味をそそられたのは、この絵画の名前をどこかで聞いたような気がするからだ。しかしそれがどこだったか、よく思い出せない。
「もし興味があれば是非いろいろと調べてみてほしいな」
「はあ、そうですか」
「とにかく、人の為に何かをする、というのが必ずしもダメなわけじゃあない。情けは人の為ならず、という言葉もあるしね。ただ、君からも似たような雰囲気を感じるんだ、僕の娘と。人の為に何か無理をしていないかい?」
 また、鋭い目だった。
「……そうなのかもしれません」
 そのせいか、自分でも驚くほど素直に言葉が出てくる。
「だけど、無理をしたって、それが僕の想う人の為になるなら、僕はそのほうが幸せです。結果それが僕の利益を損ねることになったとしても、無理せずのうのうと自分一人だけ幸せになるくらいなら、そっちのほうがよっぽどマシだ。大事な人を傷つけてまで得た幸せに、僕は多分価値を感じられないと思います」
 彼の目を射抜き返すつもりで、一思いにしゃべりきった。そして実際、どうだ? とばかりに、男を見返す。
「……そうだな、そういう考え方もあるだろう。しかしどうだろうな、君はまだ若い」
「どういう意味ですか?」
「老成した考え方を持つことは必ずしも得策じゃないということさ」
「……?」
 不敵に笑うベレー帽の下の目に、僕はまたもや返す言葉を探せない。夏の暑さは、まだまだ収まる気配もなく。
 一体この男は、僕に何を言いたいんだ?
 そうこうしているうちに、右太ももあたりで携帯電話がブルッと震える。何だと思って少量の苛々と共に開いてみると、そこには短く、しかし全てを的確に伝えるメッセージがあった。
『件名:遅いんですけど』
 本文は。
『怒』
「……」
 これはまずい。おそらく、超絶にまずい。苛々? 僕ができる立場じゃないことを、思い出した。
「どうした? 顔が青いぞ。とても涼しそうだ」
 確かに、涼しくなったな。一気に、さーっと。汗が噴き出てでてくるくらい涼しい。涼しすぎて、今までの会話の内容なんか頭から吹っ飛んでしまった。
「すいません、友人を待たせてるのでそろそろいきます」
 平静を装ってみたが、上手くいっていたかどうかはわからない。
「おお、そうか。それは引きとめて済まなかったな。君の師匠にもよろしく頼む」
「はい!」
 言って、僕は駆けだす。坂の上へと向かって。
 師匠――凛さんのことだろうか。
 ん?
「師匠、って凛さんのこと知ってるんですか?」
 僕はもう一度だけ振り返って、少し小さくなった彼のシルエットに声を飛ばした。
「ああ、あの音源を制作している彼のことだろう。何度か話をしたことがあるからね」
 そういえば凛さんもそんなことを言っていたかもしれない。どうしても気になって、僕は再び声を張る。
「何で録音を邪魔したりするんですか?」
「ん? ああ、いや、すまないね。ただ、丁度僕の娘がいない時間帯だからさ、大音量で声を出したほうがストレスの発散になるんだよ」
「……」
「まあ、ストレスというよりは、欲望の発散と言った方がいいかな」
 平然と、それこそ涼しい顔で答える男に若干呆れつつ。
「凛さんにもそう伝えておきます!」
食えない男に最後の返答を返して、僕はまた走りだした。
 走りだして、五分は走り続けて、とにかく汗をかいて、太ももとふくらはぎをパンパンにして、静楽器店に辿り着いて最初に得たものは、罵声だった。
「おっそい!」
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