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20.molto allegro con fouco -最も速く、火のように-

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 地面を蹴る。
 走れ、駆けろ、風になれ。
 荒らしのごとく、最後まで。
 最も速く、火のように。
 転がるようにして非常階段を駆け下りると、そこには小さく古めかしい裏門が待ち構えていた。鍵は壊れているようだったが――なんて無用心な――それを開くのももどかしく、勢いをつけて飛び越える。左手右足で着地して、不格好にもふらつきがら、自分の運動神経のなさを呪う暇もなく、ただただ身体を前進させる。長期休暇を迎える学舎を、一足先に後にする。溶け出しそうなアスファルトを踏みしめて、木々に左右を囲まれた林道を矢のように疾く飛んでいく。
 蝉の声も、夏の日差しも、何もかも。
 世界は後ろ向きに進まない。
 僕は遅れてるんだ。一年のビハインドがある。遅れを取り戻すためには、普通に歩いてちゃダメなんだ。だから。
 走れ!
 なりふり構わず、何も考えず、フォームなんて気にもかけずにダッシュで山道を登る。前のめりになっても、こけそうになっても、推進力を拠り所にして力押し。それでもなんとかなるのは上り坂だからだろう。そうやって小さな民家を幾つか通りすぎ一本道を駆け抜けると、視界がひらけて眼下に街並みが広がる。そこまで来て息をしてなかったことに気づき、肺いっぱい熱気を吸い込んだ。
「っは! ……はあ、っはぁ……!」
 瞬間、後ろから突き飛ばされたような衝撃で、僕はよろめいて膝に手をつく。頭がふらふらして、視界はすり切れたビデオの砂嵐になっている。首を思い切りもたげて、口と背中でぜえぜえ息をする。いきなり全力で走ったからだろう、運動なんか滅多にしないのに。今日に限れば体調だって優れていない。これは当然といえば当然の帰結だった。
「ちっ……くしょ、はあ、……、情けねー……」
 ぷるぷる震えて焦点の定まらない眼球を瞼の裏にギュッとしまい込んで、とにかく体内に酸素を循環させる。吸って吐いてを繰り返すうちに、さすがに身体は落ち着いてきた。瞼を持ち上げて再び網膜に映像を映す。光が脳に充満するのを確認。よし、まだいける。
 と、その時だ。
「やあ、少年。こんな昼間から会うとはね」
「……」
 また、この人か。
 顔を上げれば、そこには見慣れた――見飽きたと言ってもいい、中年男の姿があった。
「お急ぎのようだ。なら引き止めはしないよ、安心してくれ」
「あなた、画家ですよね」
 少々唐突ではあるが、訪ねてみる。
「おや? 話した覚えはないが、その通りだよ。それがどうしたんだね」
 ロケーションだのミレーだの聞いていれば、いかに絵画に疎い僕といえど予想くらいはつくさ。そもそも、こんな昼間から会うとはね、と言うならそれはむしろこの人のほうだろう。普通の社会人なら白昼堂々散歩などしないからな。
 ふと、思い出される。
『第三問、ミレーの『落穂拾い』はどんな情景を描いたものですか?』
 結局あれは、どう答えたら正解だったんだろうな。いや、むしろ正解していたら警戒されていたかも知れないし、そう考えるとあの時の僕は最良の答えを選び抜いたに違いない。そんな羽月とのやり取りをほのかな昔に感じつつ、聞こう聞こうと内に秘めていた疑問を形にする。
「普通画家は、ドルマークに三本線が引いてある理由なんて知ってるものなんですか?」
「……随分と答えの限られる質問だ。そうだな」
 不思議そうに顎に手を当てて、しばし思考を巡らせて後、彼は口を開いた。
「まあ、人によるんじゃないかな。西洋絵画をしっかり勉強した人なら知る機会もあるだろうがね。そう多くの人間がそれを知ってるとも思えない」
「……なるほど」
 少なくともこの人は正解――何故ドルマークに三本線が引いてあるか、を知っているらしい。でなきゃ、西洋絵画を勉強すればわかる、なんてそんな答え方をするはずはない。
 まあ、だからといってどうということもないけどな。
「それがどうかしたのかね」
「いえ、ちょっとした好奇心です」
 そう、これは単なる気の迷いだ。
「なので、このことに関してはまたそのうちに。息も整ったので、そろそろ行きます」
「そうか。では、頑張りなさい」
 この人とも話はしたいけれど、今はその時じゃない。目線のベレー帽とすれ違いかけて、足が止まる。汗を拭って、振り返る。
 まだ言うことはあったな。
「娘さんとは、まだわかりあえてないんですか?」
「ああ、どうやらね」
「なら、娘さんに伝えて欲しいことがあるんです」
「……何かね」
 虚を突かれたらしく、画家は少し目を見開く。
「何よりもまず、好きな人を悲しませるな。と」
 今度は白髪の交じる眉毛が二つ、くいと持ち上がった。
「そんなに悲しそうに見えるのかい、僕は」
 僕は、肩をすくめてそれに答える。
「さあ、どうでしょうね。それは定かではありませんが、これは最近僕が若いなりに考えて出した一つの方法論です。特に、立ち止まっている人間に対して有効な」
 僕の背伸びした台詞に、彼は両手を肩の高さまで持ち上げて言った。
「ならば素直にそう伝えておくとしよう。同世代の若者からの稀有なアドバイスだとね」
「お願いしますよ」
 ちょうどいい休みになったな。彼のどこか優しい眼を――かすかに笑っていたようなその顔を一瞥して、僕は再び走りだす。
 最大多数の最大幸福、なんていうけれど。
 それって全員で前に進むことなんだろう。
 自分を犠牲にして得られる幸福なんてものは、時として結局誰かを不幸にしていることに気づけ。自分のケーキを誰かに上げたって、自分が食べないきゃ、それは不幸だ。自分の不幸を見て不幸になる人がいることに気づけ。自分が幸福になって初めて幸福になれる人がいることに気づけ。だからそんなことしちゃいけない。絶対にダメだ。幸せになって欲しいと願ったその人を不幸にしたりしていたら、それはもう悲劇なのだから。
 だから、自己犠牲なんてものが成立するのは、後戻りができない時だけなんだろう。
 逆にそうではないならば、それは単なる甘えで逃げで、道化で、自棄で、諦めだ。
 そんなのは自分に酔ってるナルシストだ。
 自分を棄てていいのは、進んで進んで、行き止まりに突き当たって、絶望した時だけだ。どうしても壊せないような壁にぶち当たった時だけだ。
 だから。
「!」
 羽月、君はまだ間に合う。
 僕が保証する。
 前にすすめるよ。
 だって。
「おぉい!」
 僕が連れて行くから。
「羽月――――っ!」
 静楽器店の前に日陰にポツンと一人、薄桃色のワンピースに身を包んだ少女が立っていた。夏風にシルバーブロンドを靡かせて、反則的な笑みを浮かべて、小さく手を振ってくれている。全速力でその天使の元までたどり着いて、僕は再び膝に手をついた。額から垂れた雫が地面に小さな染みをいくつも作っていく。
 彼女が、くすりと笑った。
「……英波くん、こんにちは」
「あ、ああ、こんにちは、はぁ」
 やべえ、格好つかねえ。
 待っててくれるなら、歩くかバスに乗るかすればよかったかな、やっぱり。
「ありがとう、本当に走ってきてくれるとは思わなかったよ。なんだか感激しちゃった」
「……」
 いや、走ってよかった。
 僕は呼吸をなんとか整えて、上体を起こす。
 あれ?
「あの、喋り方」
「う、やっぱり敬語のままがよかった? 一応私のほうが先輩だし、いいかなあ、って思ったんだけど。変、かな?」
「いや、全く変じゃない」
 上目遣いに困った笑顔を向けられて、即答。敬語じゃない? いやそんなことは、一向に構わないさ。むしろ今、新鮮な喜びと驚きに打ち震えているところだ。
「そう? よかった。実は結構疲れるんだよね、敬語」
 ふむ。確かに今のほうが余裕が感じられるし、その分だけ大人びて見える。幼く見えた顔立ちも、どこか先輩じみていた。多分、彼女に積み重なった過去を知ったからだろう。その分だけ、今の羽月には陰影が付いて感じられるんだ。
 まあ、彼女のほっぺたがマシュマロだということに変わりはないが。
「というか、先輩後輩を言うなら僕も言葉遣いを直すべきじゃ」
「いいのいいの、英波君は。今更敬語なんか使われたら照れちゃうよ」
 言いつつ目元をわずかに紅潮させて、困ったように目を細める彼女。長いまつげが重なりあって、柔らかいタッチをふんわりと演出していた。
 ここで立ち話するようなことは、もはやそんなにないだろう。
 単刀直入に、切りだす。
「君に、きいて欲しいことがあるんだ」
「うん」
 羽月は、動じない。どうして僕の周りには、こう肝の据わった女の子ばかりいるんだろうな。飴色に輝く瞳が、僕を捉えて放さない。
「入ろう」
「うん」
 言いつつ彼女の手を引いて、僕は店内へと踏み込んだ。
 棚に置かれた大量の楽譜、左右にところ狭しと飾られた楽器たち。弦楽器のニスの香りが漂っていて、それを鼻から吸い込むと気分が少し落ち着く。いつも通り青いベストの凛さんが、小さなハタキを手にコチラを向いた。
「おぉ、最近よく来るね。それもこんな時間に、珍しいな。山田さんもいらっしゃい」
「凛さん」
 注意が羽月にそれる前に、僕は彼を呼ぶ。
「ん? どうした阿部君」
「今日は頼みがあるんです」
「……言ってみなさい」
 緊張を感じ取られたのかもしれない、凛さんは表情を引き締めて僕を見る。息を吸って、吐いて。くそ、肺の中に水でも注がれた気分だ。吐き気がする。目をつむったら涙まで出てきそう。手もじんわりと湿ってきて。
 女の子にしては大きな羽月の手が、それをぎゅっと握ってくれた。
「っ……」
 するとどうだ、余計に緊張してきちまったぞ畜生。
 だけど、同時に勇気も湧いてくる。こんなところで躓いているわけにはいかないという気にもさせられた。彼女なりの激励だったに違いない。
 だったら、言おう。言わなきゃダメだ。
 もう一度、息を大きく吸って。

「僕に、ピアノを弾かせて下さい」

 息が止まるかと思った。
 忘れかけていた呼吸を再開して、羽月の手を握り返す。
 言った。
 言えたぞ。
 もう、凛さんの表情を確認している余裕もない。勝手に頭がふらついて、視界がぐるぐる回ってる。今すぐふかふかのベッドに倒れこみたい。
「……阿部君」
 呼ばれて、再び顔を上げる。
 凛さんは、穏やかな眼で僕を見て、言った。
「三十分、三千円だ」
「!」
「払えるか?」
 お金を、取られるらしい。
 それってつまり――
『子どもから金を取る気はないからさ、タダだよ』
 凛さんは口の端を上げて、亜鉛のように柔らかく笑っている。心臓が鼓動して、お腹の底が熱くなるのを感じた。僕は半分嬉しくなりながら、答える。
「大丈夫です」
「そうか。じゃあ、後払いでいいから」
 そのまま彼は右手の戸を開けてくれた。
「どうぞ、思う存分お楽しみ下さい」
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