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5.piacevole -愛らしく、気持ちよく-

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 敢えてもう一度言おう。
 ブロンドを尻尾のように伸ばした紙袋が、僕の真後ろに突っ立っていた。
 換気の為外界へと開かれた窓に目をやれば、そこには水で薄めた青い絵の具のような街の遠景が遠くまで広がっていて、ああ世界ってこんなにも大きいものなのだなあ、なんて思っていると、空を全く楽しそうに飛びまわるツバメから、お前の目の前の悩みなんてちっぽけなものさ、という声が降ってきたりして、そうして僕は実にすがすがしい気持ちで音楽室のうすらぼけた空間に意識を取り戻してきた。
 僕の悩みは、旧態依然としてそこに立ち続けていた。
 そしてそいつはちっぽけでもなんでもなかった。
 身長的にはそんなに大きくないけれど、問題は彼女が紙袋をかぶっているということであって、そしてその紙袋がそもそもフェルマーの最終定理くらい問題なのであって、問題でない部分などおおよそ発見するのも難しいくらいなのだった。
「……ゑ?」
 これだけ間を持たせてようやくでた一言がこれだ。
 ってやべ、歴史的仮名遣いになっちまってる。
「えと、あべ、君? こんにちは!」
 すげえ可愛い声で挨拶された。紙袋に。
「……うす」
 無視するのも悪いので一言返しておいて、次の言葉を脳内検索エンジンでサーチする。
 が、検索結果、該当なし。
「エキセントリックな友人だな、少年」
 そうだな、確かにエキセントリックだ。エキセントリック少年ボウイだよ。
「ところで紙袋のお嬢さん、俺とチャイコフスキーのピアノ協奏曲でも聴かないかい?」
「とりあえず、外、でようか。うん」
 一刻も早くこの場から、特にこの無精髭野郎がいない空間へと退避するのが先決だろうと、僕は教卓から飛び降り、そそくさと彼女の手を引く。
「ひゃっ!」
 慌てる紙袋さんの足下に気を遣いながら――またこけられでもしたら堪ったものではない――後ろからゼリービーンズみたいな視線を送ってくる静を無視しきって、廊下へと躍り出た。
 左に折れて、一番近くの練習室に入る。アップライトピアノ一つと、二畳分ほどのスペースしかないそこで、僕は『はーちゃん』から紙袋をはぎ取った。
「あっ」
 ぎゅっと目を瞑ったまま小さく声を漏らす彼女と、こんにちは。
「あっ、じゃないだろ。あっ、じゃ。一体なんだ、何なんだ、どういうつもりなんだ、どういうつもりなんですか。あの非常識な男にまで非常識だと思われたら、それは一周回って常識的だとでも言うつもりか?」
「あの、確かに非常識だったことは謝ります、ごめんなさい」
「う」
 そんな真正直に陳謝されると、困る。何が困るって、この狭い狭い箱みたいな空間で、数十センチ鼻の先、飴玉みたいに透き通った瞳が、白桃みたいに柔らかそうな頬っぺたが、サクランボみたいに瑞々しい唇が、どれもこれも、切ないくらいに甘くて蕩けそうなのだ。
 それで悩ましい顔をされてみろ、困らないほうがおかしい。
「べ、別に謝らなくてもいいんだけどさ。あー、理由を聞かせてくれよ、何でこんなことしてるんだ?」
 ピアノの上のメトロノームに焦点をあわせなおして、しどろもどろに問う。
「……安部君が言ったんじゃないですか」
 自分の名前が出て、ついそちらに目を向けてしまい、そこにはチラチラと小犬のようにこちらを窺う彼女の姿があった。
「ピアノ、続き聴かせてほしい、って」
 そこで頬をほんのり桜色に染める。
 胸の中の何かがラムネになって、ジュワっとした。
「……」
「……あの?」
 ふと気付けば、彼女は赤らめた顔のまま僕を見ている。
「あ、いや」
 やべ。見蕩れちまってた。
 その一方で、頭の中のもう一人の僕が、僕に警告する。
 ――騙されるな、考えてもみろ。このブロンドは高校生であり、かつ可愛い女の子なのだ。これらの要素が二つ揃っているということはつまり、後はもう言わなくてもわかるだろ?
 ああ、わかるさ。
 ――こんな顔して、もう色々とご経験済みに違いないんだよ、なんかもう色々と。
 わかってるって、黙っとけ。
 雑念を押し籠めておいて、咳払いを一つ。不自然にならないよう、なるたけナチュラルに会話を続ける。
「確かにそうだけど、いろいろとおかしいだろ? 大体何なんだ? この紙袋」
「気にしないでください。ほんのファッション的なものです」
こんなにも前衛的なものをファッションの一言で済ませていいのだろうか。
「そんなことより! 安部君が言ったんですよ、私に今日、ここに来いって」
「いや、それはそうなんだけど……」
 何か納得いかない心地のまま、僕は違和感の一つを潰しにかかる。
「その前に、一ついいか」
「なんです?」
 首をかしげるその仕草が、一々男心をくすぐる、といえばいいだろうか。狙ってやってるのか? なんにせよ、見てるだけなら普遍的に優れたものなのだ、可愛い女の子というやつは。
「教えてもない名前で呼ばれるのはなんだか気持ち悪い」
「だって、さっきの教師の方がそう言ってましたから」
「それは理由になっていない。とにかく、ストレートに言おう。君は僕の名前を知っているのに、僕は君の名前を知らない。それは不公平というものだ」
「そんなことありません。私はちゃんと安部君に伝えました」
「あだ名をだろ? 僕が言ってるのはそういうことじゃなくて」
「そんなことありません」
「いや、話を聞」
「そんなことありません」
「……」
 意外と強情だぞ、この娘。眼に宿る意思に、揺るぎなさが見える。
「どうしても知りたいなら、今から私の言う質問に答えてください」
「質問? いいだろう。受けて立つぜ」
「第一問、私の名前に心当たりがありますか?」
「はあ?」
「いいから、答えてください」
「お、おう。まあ、いいえ、かな」
「第二問、ドルマークに何故三本線が描いてあるか、知っていますか?」
「は、はい?」
「いいから、答えてください」
「いや、まあ、いいえ、だけど」
「第三問、ミレーの『落穂拾い』はどんな情景を描いたものですか?」
「……、落穂拾い、なんだから、落ちてる穂を拾ってる情景、じゃないのか?」
 なんだ?
 何言ってるんだ? こいつ。
 かと思えば、次の瞬間彼女の顔は満面の笑みに輝いた。欲しかった玩具を買ってもらった子供みたいな輝きだった。
「安部君って、何にも知らないんですね!」
「その顔からそんな失礼な発言が飛び出すとはな!」
「いいですよ、私の名前、教えてあげます」
 そう言うなり、彼女は僕の耳元にその艶やかな唇を寄せてきた。暖かい息が耳たぶにふぅっとかかって、僕はものすごい勢いで焦燥する。実際何もないとわかってはいても、心臓がとんぼ返りを打った。
「はづき。ふかふかの羽毛布団に詰まってる羽に、お団子食べながら見上げるまん丸い月で、羽月。それが私の名前です」
 こんな狭い部屋の中なのに、僕と彼女の二人しかいないというのに、まるで盗聴器でも仕掛けられてるような調子のささやきで、彼女は――羽月は僕の鼓膜を震わせたのだった。
 羽月。
 彼女にぴったりの、綺麗な名前だ。
「他の人には言っちゃ駄目ですよ」
 すぐに僕から顔を離す彼女の、ブロンドにからまる仄かな甘い香りが名残惜しい。理由はわからないけれど、なんだか彼女と極上の秘密を共有した気分になって、僕はすこぶる単純に高揚している。
 男って、単純だ。実に馬鹿だ。
「だから安部君も、名前を教えて下さい」
 今度はちょっと悪戯っぽい笑みで、桜色の彼女は言う。しかし、意味がよくわからない。
「……僕の名前ならもう知ってるだろ」
 今しがた呼んでたじゃないか、安部君、って。
「違います。安部君は私のこと名前で呼べるけど、私は呼べません。それは不公平というものだ、ですよね?」
 少し威張る風に顔を作って――僕の真似のつもりだろうか――羽月は言った。
 どうせ、何を言ったところで言わされてしまう気がする。というか今この舞い上がった心地の中で、この娘に悲しい顔だとか、しゅんとした顔だとかをさせるほどの勇気が、僕にはなかった。
「……えいは。英語の英に、寄せては返す波で、英波だ」
 一瞬間をおいて、羽月は感心したみたいに頷きながら言う。
「恰好いい名前ですね」
「そうか? ちょっと変だろ」
「いいえ、とっても良い名前です! だってほら、苗字から続けて読むでしょ、そうすると安部英波って」
 言いつつ、彼女はやおら、アップライトピアノの蓋を開いた。そして、四つ順番に、音を鳴らす。
 ラ。
 シのフラット。
 ミ。
 シのナチュラル。
「ほら! ドイツ語読みしたアルファベットと同じでしょ? アー、ベー、エー、ハー」
 そう言って、僕を満足げな顔で振り向くなり、羽月はそのままピアノの椅子を引いて、そこにちょこんと座る。
「ああ、それな、小さい時に僕も――」
 その台詞は、哀れにも切り刻まれた。何に?
 弾むような音の洪水によって、だ。
 僕は正直言って、初め何が起こっているのかよくわからなかった。彼女の指が鍵盤を叩きだしたのだ。どこか不安定だけど、でも、次に鳴らしたい音の全部を掌握しきっているかのような、そんな即興演奏を始めたのである。ひょっとしたらそうではないのかもしれない。だけどこんな曲、僕は聞いたことがなかった。
 何せ、ABEHの四音で構成された主旋律を中心に、音楽という宇宙が回っているからだ。
 最も、彼女も探り探りなのはわかる。とても即興だとは思えないような複雑なアルペジオが、星みたいに音を散らしていたけれど、それでも曲調はフィーネに至るまで安定しなかった。転調を繰り返して、一所にとどまらない、流星群みたいな蒼白い輝きを持つ高音の音形。そこに巧妙に、主旋律を組み込んでくる。何度も鳴り響く、ABEH。
 ほんの一分にも満たない短い曲。でもそれは。
 それは間違いなく、僕の曲だった。なんだか少し面映ゆいけれど、でも。
 でも、この娘は――。
 羽月はそれに、革命のエチュードのような属七の和音で、唐突に終止線を引いた。
「ここまでですね」
 僕は、何も言えなかった。
「ここまでしか、まだ英波君のこと、わかりません」
 何も言えないまま、ただ、彼女の瞳に吸い込まれている。
「……だったら」
 でも、気付いたら、やっぱり僕は、本能だけで口走っていたのだった。
「明日も来いよ」
 僕も、知りたい。君のことを。
 なんて、さすがにそこまで口にはできない。でも、ピアノに座っている羽月を、先程とは別の女の子に変わってしまったような彼女を見ていると、そう思わずにはいられなかった。
 そんなこんなで僕は、僕の幼馴染と、紙袋好きのピアニストに振り回される、奇妙な生活の幕を開けてしまったのである。
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