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7.lamentabile -悲しげに、物憂げに-

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「どうやら君も絡まれたみたいだな」
 僕は上品でアンティークな『静楽器店』の小さなテラスで、アイスティーを振舞われていた。クーラーに当たってばかりいては駄目だから、という理由で屋外に放り出されはしたものの、パラソルで日陰になっているウッドデッキは案外涼しくて、汗ばむ肌に風が心地よく絡んでくる。
「僕も、と言いますと?」
 透明なコップを手に取り、よく冷えた琥珀色をぐびりと味わう。口の中に甘い香りと少しの渋みが広がった。今日はダージリンか。上等な芳香の中で少し優雅な気分に浸っていると、店の中から青いベストを着た凛さんが、高そうな皿の上に五種類のスコーンを乗せて持ってきてくれる。
「好きなのを食べていいよ」
「ありがとうございます」
 凛さんは静先生の兄だ。兄弟だけに似たような彫の深い顔立ちをしているけれど、目元は凛さんのほうが優しい。無精髭なんか生えてないし、髪の毛もおとなしめだ。青いベストを着ていて、腕まくりをしているところは同じだけど、腕に巻いてる時計はずっとシンプル。要するに、あの弟よりずっと落ち着いていて、大人なのだ、この人は。今はこうして小さな楽器店を営んでいるけれど、元は彼も音楽の教師だったらしい。
 そして来店の度に高級なお菓子と紅茶を振舞ってくれる、メチャメチャいい人だ。それもタダで。子供から金はとれないという彼の言い分は少し気に入らないけれど、そのおかげか、美味しい紅茶の淹れ方だとか紅茶に合うお菓子についてはそこらへんの男子より詳しくなった。目の前に並ぶスコーンも、微妙な色合いの違いから味を判別できるのだ。
 僕は薄茶色のサクサクをメイプル味だと睨んで取り上げ、かじりついた。
 キャラメル味だった。
「君、聴いたよな? あの音声データ」
「? ええ、聴きましたよ」
 ちょっとヘコんでいた僕は、話の流れが掴めないまま返事をする。
「あれに混じってただろう、変な声が」
「……まあ、混じってましたね」
 例のあれを思い返すと、かなりうるさかったような気がする。あれのせいで一番の盛り上がりどころも聞き取れなかったし。
「実はね、最近あれを録る部屋の隣に変なおじさんが越してきたんだ」
「変なおじさん」
「家賃の安さに比例して壁がかなり薄いからね、音が筒抜けなんだよ。それで録音を開始すると邪魔してくるんだ、あんな感じで」
「はあ」
 それは確かに明らかに、変なおじさんだ。あんなに素晴らしいものをタダで聴けるというのに、何を考えているのだか。
「で、それが君がさっき会った人」
 隣に立って遠く海を眺めがら、凛さんが言った。ベレー帽をかぶったおじさんが、僕の脳内スクリーンに再登場する。
「そうなんですか?」
「ああ。この辺りをうろついては手あたり次第に人に声をかけていてね。軽く不審がられているんだよ。実際俺もかなり不審に思うし」
 その話を聞く限りだと、実際怪しそうではある。僕に対してもいきなり『この街が好きかい?』だし。でも、そこまで常識はずれな変態だとは思わなかったけど。むしろ、良い人にさえ見えた。
「俺の場合はいきなり『自慰はしているかい?』と尋ねられたんだ」
「……」
 変態だったようだ。
「とにかく、気をつけた方がいいよ、あのおじさんには。君が何を言われたかは知らないけど、気にする必要もない」
「……ご忠告どうも」
 下手をすると壺売りや燕飼いよりよっぽどやばい男だったのかもしれない。そう考えると身震いした。
「で、そういえば今日は何の用事だ? 君がここにくるのも久しぶりじゃないか」
 言われて、本題を思い出す。
「ああ、今日は楽譜を探しにきたんです」
「楽譜? 学校にないやつか?」
「あー、なんといいますか。学校の楽譜が何者かに盗まれたんですよ、何冊か」
「……盗まれた?」
 僕の言葉に細い目を丸くして、凛さんはあごに手を当てた。しばらく考え込むような仕草を見せてから、そういえば、と口を開く。
「清の奴がそんなことを言っていたかな」
「それでちょいと、パシられてるんですよ。次の音声データを質にね」
 僕はやれやれと首を振った。
「へえ、君はそこまでしてあんなものが欲しいのかい」
「凛さんも男ならわかってくれるでしょう? それにいつまでもタダで、ていうのもさすがに気がひけますし」
 静先生よりも少しマイルドな声で、凛さんはくつくつと笑う。
「そうかい。制作者としては光栄だがね」
「あれほど情欲をかきたてられるものもそうそうありませんから」
「とても紅茶を飲みながら口にする台詞とは思えないな。それで、盗まれたとかいう楽譜はいかほどなんだ?」
「ここに書いてあります」
 僕はウエストポーチから小さく折りたたまれたメモを取り出して、彼に手渡した。凛さんはそれにざっと目を通して、細い目をさらに細める。拉致された楽譜たちの共通項に気付いたようだ。
「……随分偏ってるな」
「どうも片手の幽霊を気取ってるみたいなんですよ、楽譜泥棒の野郎」
「片手の幽霊?」
 半分だけ眉をあげて、彼はいかにも不思議そうにした。
「へえ」
 一拍間を置いて、くすりと笑う。
「面白い幽霊もいたものだな」
「ですね」
 表面に水滴のついた清冷なガラスのコップの中で、氷がひとりでにカランと音を立てる。夏の音だ。
「それで、これらの楽譜、あるにはあるが、全部買うとなると結構な額になるよ?」
「いくらくらいなんですか? 手持ちで払える額なら」
「まあ、ざっと見積もって三万くらいだな」
 僕は耳を疑った。
 三万? それって何万だ?
「凛さん、月の土地でも買うつもりなんですか?」
「まあ、案外そうなのかもしれないね。月の土地って三千円で買えるし」
 じゃあ月の土地十個分という計算になるわけだが。
「……」
 無理だ。
 そもそも月額の小遣いが五千円で、その大半が交通費に消える今日この頃、貯金に貯金を重ねベストメンバーをチョイスした僕の財布にスタンバイしているのは、それでも諭吉一人だけだった。頼れるやつだとは思うけれど、いかんせん人的資源不足が深刻化している。
「……まあ、人生生き急ぐものではないですからね。探します」
「そうしなさい。清も、同じ戻ってくるなら使いなれた楽譜のほうがいいだろう」
 探します、バイト。
 一気にアイスティーを飲み干した。ストレートで淹れられたダージリンのいがいがした風味がいい感じに冷えている。頭蓋骨の内側をトンカチで叩かれたみたいに前頭葉が痛んだ。
 さて、これからどうするかな。
 日が傾いたせいか、膝下辺りまでが陽光に埋まってきている。
 多分、今このくらいなんだろうな、僕の人生も。日が沈むころには、顔もはっきりするようになるだろう。でも、そんなのは一瞬で、すぐ夕闇に埋もれて消えていく。人生の全容が陽に照らされて見えるようになるのなんて、人生の一番終わりで、一番短い。わかった次の瞬間には、全てが闇に消えていく。だけどその一瞬を目指して、どんな人間も生きている。だから僕がどんな顔をしていて、何をするのかなんて、今は僕自身にもわからないのだ。陰に隠れてしまっているのだから。
 君はこの街を出ていくのか?
 視線を落とすと、半ズボンから覗く脛に、一年前の切り傷が浮かび上がって見えた。僕の罪の証だ。
 まだ、ダメだ。この脚じゃ、どこにも行けない。行きたくても、無理なんだ。このままじゃ。
「そういえば、今日もあいつ、見ていくか?」
 芯のある凛さんの声で、はっと顔を上げる。
「……あ、まだ売れてないんですか? あれ」
「そう簡単にはね。それこそ清が買いとっていかない限りは売れないよ。どこの馬の骨とも知れないやつに売る気もないしな」
 まだ売れてない。そりゃそうだろうな。少しだけ、ほっとする。そして少しだけ、脛の傷が痛んだ。
「それで、どうする? 今は他の客もいないし、好きにしていいぞ」
「……今日はやめておきます、気分じゃないんで」
「じゃあまた今度だな」
 笑ってそんな風に言ってくれるこの人は、本当に優しい。こんな時はいつも思う、僕はまだラッキーなほうだなって。
「紅茶とお菓子、食い逃げしちゃってすいません」
「いいんだよ、安部君の顔が見れただけでも十分元は取れてる」
「……ありがとうございます」
 ちょっと恥ずかしかったけど、ちょっと顔が赤くなっちゃったけど、素直に嬉しい僕なのだった。
「そのうちまた来ると思います、あれを見に」
「いつでも待ってるよ」
 僕を待ってくれてる人がいるということを確認できただけでも、あの坂を登ってきた価値はあったかな。なんて思いを馳せつつ、僕は立ち上がって木製の階段を降り、またアスファルトの上に降り立つ。
 そして、見覚えのある女の子の背中を、視界の端に見つけた。
「!」
 あいつ、何でこんなとこにいるんだ?
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