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プロローグ『サーカスが街に来るという』

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 放課後の文芸部室は遠くからさしこむ黄昏で真っ赤に染まっていた。その赤色の底で、先輩の足は夕暮れに降り立った天使のように荘厳だった。白い肌が濃密な宵闇を照り返してぼんやり輝いている。先輩は足をテーブルの上にのせて本を読んでいるので、スカートが限界までめくれあがってしまっている。そのせいで、すこし遠くに離れている僕でも、あらわになった細い太ももの筋肉の動きすら見てとれるのだった。時々ぴくりと痙攣するようにひくついて、それを陰影のコンストラストがどきりとするくらいエロティックに見せてくれる。そのとき、僕はどうしようもないほどに男子高校生だった。思春期だった。性欲に溺れていた。そして先輩の生足は、それはもう力強いエロスにみなぎっていた
 生唾を飲み込むと、喉の動く音が身体中に響いて、すこし焦る。
 僕の視線に気付いているのかいないのか、先輩は平気な顔で世間話をもちかけてくる。もちろん視線は本の方を向いたままだ。横から見ていても器用な人だなと思う。思いながら足を見ている。
「でさ、今度の日曜に移動サーカスが来るらしいよ」
「移動サーカス? こんな田舎にまで来るんですか? なんて物好きな」
「らしいよ。詳しくは知らないんだけど、九州のほうで有名なのがあちこちまわってるとか。なんでもドラゴンが見られるとかなんとか」
「ドラゴン!? んなもん連れまわして大丈夫なんですか?」
「さあね~」
「うっわー。やばいんじゃないすか。最悪、この街壊滅しちゃいますよ」
「国ね、国。単位間違えてるよ」
「よけい危ないじゃないですか」
「だよねぇ。政府もなんでこんなの許可してるんだか。ま、なんだかんだで見に行くけどね。生のドラゴンなんて見たことないし」
 話しているうちに先輩の膝の角度がだんだんと曲がっていき、ついに九十度になったところで止まった。ももが真上を向いていて、正面にいけば下着がみえる角度だ。すぐにでも走りだしたい衝動を、しかし決死の思いで噛み殺す。ももの裏には淡い静脈が走っていて、先輩がたしかに同じ生き物であることを教えてくれた。薄く透けた肌は逆説的にそのなめらかさを際立たせて、撫でるといったいどんな感触がするのだろう。
「しかもね」
 ふいに、足がぴんと伸びる。勢いにあおられ、スカートがひらめき、だけど絶妙な角度でその奧は見えない。一瞬燃えさかった期待が、行き場をなくしてぷすぷすとくすぶった。
 先輩はこころもち楽しげな口調で言う。
「そのサーカスにはいわくがあって」
「いわく?」
「どっちかと言えば都市伝説にちかいのかな。なんでも、でるらしいよ」
「でるって、あれですか。幽霊ですか」
 両手を胸の前でだらんと垂らす。先輩は首をふった。
「いや、通り魔」
「通り魔!?」
 驚いて、思わずおうむ返しだ。通り魔というのは、幽霊と比べてあまりに現実的なひびきだった。
「そそ。どうもサーカスが滞在している間、一日にひとつ、不審な死体があちこちから見つかるらしいよ」
「はしゃいでアルコール一気飲みしちゃったとかじゃなくてですか?」
「聞く限りでは、例外なくぐっちゃぐちゃになってるって話だけど」
「ぐっちゃぐちゃ……」
「凶器はたぶんバールだね。あれで滅多打ち。じゃん! 挽き肉いっちょ出来あがり~」
「やめてくださいよ。今晩ハンバーグだったらどうするんですか」
 先輩はこっちを向いてにっこりと笑った。可愛かった。
「美味しく食べちゃえばいいじゃないか」
「……さっきまではそのつもりだったんですけどね、先輩のまっくろジョークのせいでもう食べられそうにないです」
「んな大袈裟な」
 肩をすくめて、ふう、とため息をつかれた。なんともアメリカンな挑発だ。これが須田あたりにやられたのだったら、問答無用でぶん殴ってやるのだけど、先輩は可愛いので、むしろそんな仕草にもときめいてしまうのだった。まるで恋する乙女のような僕だった。いや、どう見ても乙女ではなかった。男子であった。汚い男子高校生だった。
「でね、その通り魔の犯人ってのが面白くてね」
「! もしかして志村けんですか?」
「志村けんはたしかに面白いけど、方向性が違うでしょ」
「先輩先輩、あれやってくださいよ。あれ。あいーん」
「あいーん」
 ひどくぎこちない印象のあいーんだった。声に抑揚がなかった。顔に表情がなかった。あからさまに思い切りが足りなかった。他の人がやったのなら小さく愛想笑いしてお茶を濁すだろう。須田あたりがやったのなら問答無用でぶん殴ってやるだろう。けれど先輩がやったのなら、それは世紀のギャグなのだった。
「おおおおお! もう一回。先輩、もう一回!」
「あいーん」
「クールっす! イカすっす! 先輩まじぱねえっす! ワンモア!」
「あいーん」
「あざっす! トリプルあいーんあざっす! いただきましたあああ!!」
「あいーん」
「ひゃっほおおおう! 先輩のあいーんは世界一だぜえ!」
「あいーん」
「オッケーイ! あいーん、オッケーイ!! ネクスト!」
「あい……あいーん」
「あいーんF(フェイント)! 伝説のあいーんFじゃないですか! いやあ、いいもの見たなあ!」
「あいーん」
「ここでまさかのストレート!? あえて引っかけずに直球勝負! さすが先輩。男らしいです!」
「あいーん」
「ひゃっほおおおう! 先輩のあいーんは世界一だぜえ!」
「それ、さっき言ったよね」
「……すいません」
 さすがにボギャブラリーも尽きてきたのだった。というか、それ以前に恥ずかしくなってきたのだった。なんだよ、あいーんFって。
「んで、話戻すけど」
「えっと、なんの話でしたっけ?」
「通り魔の正体の話」
「ああ、そうでしたね! あれですよね。生足ぶん回すんですよね」
「いや、そんなこと言ってないけど」
 たしかに言ってなかった。生足をぶん回したいのは僕だった。いや、ぶん回したくはなかった。しかし、なで回したいのだった。
 先輩は言う。
「なに? きみはぼくの話なんて聞きたくないの? さっきからずっと邪魔ばっかしてない? してるよね!」
 すねた。先輩は頬杖をついて、明後日の方向を向いてしまった。先輩は先輩だけれど、一方ですこし子供っぽいところがあるのだった。いや、この場合は僕が悪かったです。ごめんなさい。
「そんな訳ないじゃないですか! たまたまですよ。たまたま。ほら、先輩見て見て。あいーん!」
「あははははは」
 見た。笑った。可愛かった。素直な先輩が僕は大好きだった。
「もう。じゃあしょうがないから、正解したら教えてあげる。犯人」
「え、クイズですか? せめてヒントとかもらえません?」
「なし。がんばりたまえ」
「そう言われてもなあ。……あ、あれですか? ドラゴンの呪いとか」
「あー、たしかに可能性はあるかもね。でも噂の内容とは違うのでバツ!」
「エド・ゲインの亡霊?」
「ゴーストは科学的に否定されました。ぶー! そもそもなんでエド・ゲインよ」
「なんとなく……」
「なんとなくじゃ駄目!」
「むう……。じゃあ、女の子とか」
「女の子? 幅が広すぎない?」
「ちっさい女の子ですよ。こう、小学生くらいの」
「あ~。惜しいなあ」
「え!? 近いんですか? じゃああれだ。メアリ・ベルの亡霊」
「だからゴーストなんていないし、だいたいメアリちゃんはまだ死んでないからね。というかきみ、今晩ハンバーグ食べられないとか嘘でしょ? ほんとはシリアルキラー大好き人間なんでしょ? ねえ?」
「ハンバーグ? なんですか、それ。シリアルなら好きですけど」
 先輩はかたをすくめて、ふう、とため息をついた。可愛かった。
「なんでもない。はやく犯人あてて」
「そう言われてもですね」
 さっきから頭をフル回転させてはいるのだけれど、まったく当てられる気がしない。仕方がないので、冗談のひとつでも言うくらいしかできない。
「あ、もしかしてあれですか。妖精とか」
 僕は笑いながら言った。
「そうだよ。妖精さん」
 先輩はこくんとうなずいた。
「え? 妖精なんですか?」
「なんだよ。きみ、自分で言ったんじゃないか」
「いや、それは冗談で……。え、だって妖精には呪いが……」
「うん。人を殺せないよう呪いがかけられてる。だから呪いのかけられていない野良の妖精なんじゃないかって」
「そんなのいるはずが……」
「まあ、あくまで噂だからさ。なんか犯人の目撃証言がまったくないらしくてね、だったら妖精なんじゃないのか、あいつらなら常人には見えないから、ってそんな短絡的な感じで」
「噂ってのは無責任だからなあ。あー、厄介なことになりそうだ」
「そういえばきみのお母さん妖精つかいなんだっけ? まだ差別みたいなの残ってるの?」
「そうなんすよね。僕らくらいの年代はいいんですけど、ほら、世紀末世代は頭固いの多いから」
「ああ。目に見えるようだよ」
 先輩は目を閉じて、複雑な表情をしながらこくこくとうなずく。
「ま、ぼくん家のじいさんはそんなことないけどね」
「あれは……まあ、特別でしょうよ」
 僕は学校でも有名な彼女の祖父を思い浮かべる。ニコラ・テスラの末裔だと名乗り、妖精発生装置なる妖しげな機械をどうどうと見せびらかすあの奇っ怪な爺さんのことを、しかし先輩は尊敬していて、彼のことを悪く言うと本気で怒る。しょせん、女の子の気持ちなど理解できるような類のものではないのだ。
 横目で先輩のことを見ると、また本を熱心に読みふけっている。いったんの話の区切りもついたことだし、これ以上先輩の読書の邪魔をすることはないだろう。僕は本を読むふりをしながら、ふたたび先輩の足を鑑賞することにした。ふくらはぎのやわらかな曲線の美しさに目を奪われ、ハイソックスの濃紺に宇宙を感じ、太ももの偉大さを再確認する。
 そういった時間が無言のままに過ぎた。その間、僕は生命の絢爛な華麗さを飽きるほどに味わって、先輩はやたらと分厚い本を半分まで読み進めた。
 やがてチャイムが鳴る。先輩は名残惜しそうにしながら、ゆっくりと本を閉じる。そうして、身体の向きを変える。僕の方を向いて、椅子から降りる。瞬間、スカートがひらめいて、その奧の淡い水色が見えた。見えました。わあい!
「ね、ところでさ」
 先輩が小首を傾げて聞いてくる。
「はい、先輩」
「いったいいつまでぼくの足見てんのさ」
「……あはははは」
 あわてて目をそらすと、その先に沈みゆく夕日が見えた。暗闇はすでに西をも覆いつくそうとしていて、夕暮れとの境界線が歪んだエメラルド色に透き通っている。身震いするくらいに非日常的な景色だった。そんな中、大排煙塔から吐き出される煙だけが見慣れた現実で、安堵と切なさの入り交じった感情が僕を襲う。夕日はずんずんと沈んでいく。エメラルドの空も闇に呑まれて、いずれは消えてしまうのだろう。
 ああ、夜も近い。
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