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一日目/その1『パンツみたいな空の下で』

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「うんこ」と、そのクラスメイトは言った。
「うんこ」と、一度ならず二度も言った。
「うんこ、うんこ、うんこうんこうんこ」
 爽やかな日曜の朝だった。空は先輩のパンツのように鮮やかな水色で雲一つない。呼吸にすら色がついているような、そんな気持ちのいい朝のことだった。
「うんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこうんこー!」
 幼いころ、全盛期のマイク・タイソンの試合をテレビで見たことがある。彼は速く、重く、そして強いボクサーだった。あの目を見張るアッパー・カットは今でも忘れることができない。画面越しに見ていた僕すらもノックアウトしてしまうような、そんなパンチだった。芸術といってもいい。いや、あれはまさしく芸術だった。
 何度も練習した。風呂場で、部屋で、洗面所で。あの華麗な動きを頭に描いて、想像の敵を夢中になって打ち続けた。生み出されるエネルギーはともかくとして、動きだけはあのアッパー・カットと全く同じものであるはずだった。
 僕は幼き日の憧憬を心に浮かべる。それは噛みしめるほどに甘く、そしてすこし切ない。じくじくと心が痛んだ。じわりと涙がにじんだ。
 やがて思い出を振り切るように、僕はゆっくり拳を握った。
「うんこうんこうんぎゃあああああっ」
 決まった。僕の拳はクラスメイトの顎を完全に打ち抜いた。その瞬間脳裏に沸きあがったのは、わずかな高揚感と、そして渦巻くような悲しみだった。数えきれぬほどに夢を打ち続けた幼き僕の拳は、今、こんなにもやるせない現実に晒されている。それがなんともなしにさみしくて、拳をほどくと、てのひらに虚無を感じた。
「いきなりなにすんだ馬鹿野郎!」
 感傷に浸っていると、ふいに耳元で怒鳴る馬鹿がいた。須田だった。馬鹿であり、そして同時に須田であるのだった。かのシュレティンガー博士の実験のごとくだった。物理学の神秘だった。神秘であり、馬鹿だった。そして須田でもあるのだった。
「知ってるか? 馬鹿って言った奴が馬鹿なんだ。僕はこの格言が真理であると悟った。今さっき」
「そんなことはどうでもいい。何故俺を殴った」
「耳元でうんこ、うんこ、とうるさかったからだ」
 そう僕が言うと、須田は肩をすくめ、ふう、とため息をついた。もう一度アッパー・カットをしたが、おそらく予期していたのだろう、須田があっさりと躱してしまった。
「な……、なんだと」
「そんな愕然とするなよ。なかなかに鋭いパンチだったぜ」
 須田が笑い、覗く八重歯がきらりと光る。
 避けられたうえに塩まで送られてしまった。完敗だった。よっぽど耳を噛みちぎってやろうと思ったが、奴の耳を噛むという行為自体に抵抗があるのだった。
「ぼ、僕はもう切腹するしか……」
「まあ待て。死ぬ前に俺がうんこと連呼した理由を聞いていけ」
「興味ねえよ」
 僕の言葉を、須田は完璧に無視した。
「つまりだな、これはリスペクトだよ!」
 その時、僕はきっと思いっきり眉にしわをよせていただろう。須田の言っている言葉があまりに不可解だったためだ。はあ? という疑問の声は、しかし音になるまえに舌に張りついてしまった。
 須田は両手をひろげ、聴衆の前で弁論をふるう演説者のように、意味のわからないことをぺらぺら口走った。
「なにごとも大切なのは出だしだからな。それはキャラクターにとってもまた然りだ。ここできっちりアピールしておけば、まず記憶には残る。それでつかみはオッケーだ。名前が覚えられるまえに消えてしまうとか、ひさしぶりに出てきたらこいつ誰? みたいに思われるとか、そんな悲しいポジションに陥ることを防げたわけだ。戦略だよ。やっぱそれくらいしないと駄目だ。主人公の友人Aみたいな立場の俺は特にな。印象。キャラクターにとってはそれが全てだ。なあ、そうだろう? ……それに、うまくいけば話題にもなるかもしれない。掲示板とかで取り上げられたり。コメント数がやけに増えたり。ま、要は手っ取り早い売名だな。もしかしたら荒れるかもしらんが、俺はそんなの知ったこっちゃない。結果的に俺が得すればそれで万々歳だろ。はっはっはぎゃあああああっ」
 気がついたら僕は再びアッパー・カットを打ち放っていた。素晴らしいキレのアッパー・カットだった。僕の人生で一番のアッパー・カットと言ってもいいかもしれない。いや、それはまさしく僕の人生で一番のアッパー・カットだった。
「に、二度も殴ったな! 何故だ!」
「わからん。なぜだか無性にお前を殴らなければいけない気がしたのだ。それこそが僕の天命だと、そういう思いが泉のようにこんこんとわき上がったのだ。……というか、お前の言うことはさっぱり意味がわからなかったぞ。大丈夫か? その、頭とか頭とか頭とか。僕のせいじゃないといいんだけど」
「大丈夫じゃない。痛い。……くそ、コゲ爺にへんなこと聞くんじゃなかった。俺も意味なんかわかってねえよ。あいつに言われたことをそのまんまぺらぺら話したら、このザマだ」
 コゲ爺というのは、もちろん先輩のおじいさまのあだ名である。もしかしたら本名であるのかも知れないけど、詳しいところはよく分からない。なにせ知り合いに彼の名前を知っている人間がひとりもいないのだ。母が生まれたときにはすでに「コゲ爺」だったらしいし、母の母も彼のことを「コゲ爺さん」と呼んでいたという。なにせ、あの先輩ですら本名を知らないのだ。謎が謎をよび、複雑にこんがらがって、まるでひとつの神話のようになってしまっている。彼の名前に関する噂は枚挙にいとまなく、曰く、昭和天皇にさずけられた名前なのだ、とか、曰く、元放火魔であり家々を焦がしまわっていた罪で名前を変えられてしまったのだ、とか、曰く、昔は絶世の美男子で数多の女性を恋焦がしていた罪で嫉妬した男連中らに名前を変えられてしまったのだ、とか、語るにあたいしないくだらないものから中傷に近いようなものまで様々なバリエーションがある。中には前々世紀の文献に「コゲ爺」なる名称がでてきている、なんて話もあるが、それではまるっきりオカルトだ。もともとゴウタマ・シッダールタという名前だったのが数千年をかけてだんだんと訛っていき、やがて「コゲ爺」という単語に落ち着いたのだ、とかいう、もはやそこまでいくと嘘なのか本当なのかもわからなくなってくる壮大な嘘なんかもあって、こうなってくると単にどれだけ大きなホラを吹けるのか競い合っているだけ、という気がしてならない。そこで僕は偉大なるヴィトゲンシュタイン氏の言葉をここに引用したいと思う。――語りえないことについて、人は沈黙せねばならない。
 僕は半ばあきれながら須田に言った。
「あのひとの言うことは話半分に聞くべきだ。なにせ……、ほら、クレイジーなおひとだからな」
「きみは失礼な後輩だな。ひとん家のじいさんをおかしな人呼ばわりか」
 ふいに、背後から先輩に似た声が聞こえてきた。振り返った。まず腰まで伸びた黒髪が目に入った。続いて印象的なのは、細く筋肉質の太ももだ。そうして、ボーダーのニーソックス。黒目がちの瞳。透き通るようにまっしろな肌。ふわふわとしたワンピースの上にカーディガンをはおっている。ちいさな胸の横でちいさな手をちいさく振っているのが可愛らしかった。
 先輩だった。それは間違いなく先輩だった。
「先輩じゃないですか。なんでこんなとこいるんですか?」
「きみらと一緒だよ」
「僕らと一緒……?」
「あれ、きみたちサーカスのパレード見にいくんじゃないの? 街に訪れた記念に、大きな道路練り歩くって昨日広告きてたろ?」
 先輩は不思議そうな顔をして言った。
 パレード。はて、聞き覚えがあるな、と記憶の海に飛び込むと、たしかに僕はその言葉を聞いたことがあるのだった。というか、わざわざ須田なんかと一緒に駅前くんだりに訪れたのは、パレードを見に行こう、とどこかの馬鹿が提案したからなのだった。
「……ああ、そうでした。そうでした。こいつのせいですっかり忘れていました」
「こいつ?」
 僕はさっきからぼんやりと突っ立っているだけの須田をゆびさした。先輩の視線が向けられて、須田は曖昧な笑みを浮かべた。そうして、そっと僕の耳元で問いかけてくる。
「えっと、この人は?」
「文芸部の先輩だね。ほら、コゲ爺の孫の」
「どうも、先輩です」
 先輩は礼儀正しくおじぎしてにっこりと笑った。須田なんかにはもったいないほど会心の笑みだった。
「なるほど、コゲ爺のお孫さん! どうりで聡明そうなお顔立ちのハズです。目元に面影がありますね。言われてみればそっくりです」
 先輩の可愛さに、須田は完全に舞いあがってしまっている。やはりあんな笑み、もったいなかったのだ。これはいけない。まったくいけない。このような腐れ外道虫から先輩を守ることもまた、後輩である僕の役目であると言える。
「あら、本当に似てる?」
 先輩は頬に手をあてまんざらでもなさそうな様子だ。これはいけない。いよいよいけない。先輩はコゲ爺関係の言葉には弱いのである。しかしそんな甘言に惑わされてはいけない。腐れ外道虫は一度噛みついたら最後、ヒルのごとくに血をすすり、ハエのごとくに飛びまわり、ナメクジのごとくにぬるぬるして、セミのごとくにやかましい。対処法はたったの三つだ。目を合わさない。口をきかない。やられる前に殺る。しかし先輩は可憐なおかたであるのでこのように野蛮なことは得意とはしない。そこで僕の出番である。僕は須田の前にそっと割り込み、そうとは気付かれぬよう先輩をかばった。
「いや、どっちかというと口元のほうが似てますよ」
 と、僕は言った。
 しかし須田の馬鹿も筋金入りの腐れ外道虫である。僕の騎士道精神を見ても微塵も己の不明を恥じず、むしろ僕への対抗精神すら抱いて、押しのけるような勢いで口を挟んでくるのだった。
「たしかに口元も似ている。けれどやっぱり目元だね。うん、目元以外ありえないよ」
「おいおい、なにを言っているんだ。どう見ても口元だろう」
「はっ。この節穴アイめ。目の玉かっぽじってよく見てみろよ。どう見ても目元だろう」
「いや、口元だ」
「いや、目元だ」
「「先輩、どっちですか?」」
 ふたり同時にに先輩を見た。先輩はすこし嬉しそうな顔つきで、
「んじゃあ、どっちも似ている……ということで」
「「それじゃ駄目なんですよ!!」」
 僕らから発せられる鬼気せまるような迫力を、しかし先輩は無視した。
「いや、そんなことよりはやく行こうよ。パレードはじまっちゃうかもよ。」
「「それもそうですね!」」
 確かにその通りだった。いつだって先輩は良いことを言うのだ。
 そういうわけで、僕らは大通りにむかってふたり(とおまけひとり)で歩きだしたのだった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いえ、さっきまでそこに女の子がいたような気がしたんですが」
「気のせいじゃないの? ぼくはそんな子見てないけどなぁ」
「んー……」
 それはまっくろな服を着た女の子だった。ひどく端正な顔立ちで、どこか人形めいた印象だった。すこし、――本当にすこしだけ――、先輩に似ていたような気がする。電柱にもたれかかってこっちを見ている素振りだったのだけれど、いつのまにか消えてしまっていた。
「ま、気のせいっすよね」
 空は快晴である。絶好のデート日和である。こんな日にうじうじと悩みこむのは、それこそ馬鹿らしい気がした。歩調は軽やかで、今だけは宇宙にだって飛んでいけそうだ。太陽はまばゆく、日曜はまだ始まったばかり。深呼吸して、のびをすると、身体中の細胞が書き換えられたような爽快な気分が僕の精神をいっそう軽くする。
 遠くからラデツキー行進曲の軽快な音階が聞こえてきた。それと一緒に、人々の歓声が波涛のように押し寄せてくる。
「あ、パレード始まっちゃってるじゃん! 走ろう!」
「「イエス・サー!」」
 先輩のかけ声に僕たちは走り出し、たんと吹く水色の風になった。全力で走ることもずいぶんと久しぶりだ。目の前で先輩の長い髪がなびいて、それがなんだか嬉しくて、ははは、とちいさく笑った。
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