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 また春が巡ってきた。大野と会って一年を過ぎたくらいだ。期末テストは散々な出来だっただろうが、特に気しない。

 テストがあって、三週間以上会っていなかった大野の病室へと向かう。土産に、大野が好きな桜の絵を徹夜で仕上げてきた。

 車椅子に乗れなくなってから三ヶ月、大野の希望の場所に行っては絵を描いて見せてやることが習慣になっていた。大野は変わらず俺の絵について良い意見を言ってくれたし、純粋にその絵を見て楽しんでくれていた。

 病室の扉を開けると、珍しく大野が絵も描かずに、リクライニングしたベッドから外を眺めていた。首だけ動かしてこっちを見ると、またあの人懐っこい笑顔を向ける。

「よう。久しぶり、珍しいな。何も描いてないなんて」
「久しぶり。手が動かなくなちゃったからね」

 大野はやんわり微笑んだ。

「そっか」

 なんて言えばいいのか分からなくて、俺は曖昧に笑い返した。笑っていないと、泣き出してしまいそうな気がした。

 エーエルエス。別名、筋萎縮性側索硬化症。重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患で、運動ニューロン病の一種。きわめて進行が速く、半数ほどが発症後3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する。有効な治療法は確立されていない。

 かなり前にネットで調べた知識が頭をよぎる。いずれ今日のような日が来るのはわかっていたことだった。分かっていたはずなのに、いざ目の前にすると俺は何か言葉一つでもかけてやることが出来ない。なんて情けないんだろう。

「和樹、今日も何か描いてきたくれた?」
「え? ああ、もちろん」
「見せて見せて」

 大野は相変わらずだ。俺が描いてきた絵を見ては、子供みたいに喜んで、いろんな意見を言ってくれる。けれどそれを伝える声も、最近は少し変わってきた。いずれ発話出来なくなる。けれどこの病気は性質が悪いことに、意識は末期まで鮮明だ。その時俺はどんな顔をすればいいんだろうか。どんな顔で接してやれるんだろうか。

 絵を描こうかどうか迷った。これまでは大野が一緒に描いていたけど、俺だけここで描いてもしょうがないんじゃないだろうか。

「和樹、我侭聞いてほしい」
「何?」
「僕のことモデルに描いて」
「……ああ」

 どうしようか迷ってる俺を見て気を使ってくれたんだろう。直ぐに準備して描き始める。ちょっと前まで、椅子に座った俺の隣には、大野が横で絵を描いていた。なんだか真正面にいるのには違和感がある。

「和樹と友達になれてよかったよ」
「突然なんだよ?」

 お別れみたいで嫌だから、勘弁してくれ。

 真っ白なキャンバスにさっさと荒く明暗を付けていく。手が震えてしまわないように、わざと荒っぽいタッチで。

「だってさ、一樹がいなかったら、僕同世代の友達なんか出来なかっただろうし」

 ああ、なんだ、そういう単純な話か。俺は隠して胸を撫で下ろした。

「一樹は、昔僕が美術館に投稿した絵のことを覚えてる?」
「夏の校庭の? 忘れられるわけないだろ」

 そういうと、大野は少し苦く笑った。

「一樹はさ、あれに何か欠落があるって言ってなかったっけ?」
「まぁ……でも良く分からなかったけどな。それに、俺はそれが、ある意味魅力の一つだと思ってたから。それがあるから、あの絵はお前が描いた絵っていうかさ。その欠陥が、お前の世界の断片なんじゃないかと思った」
「そうなんだ。すごいね、一樹は」
「……何が?」

 大野がやけに感心して言うが、俺には何のことだか分からなかった。

「僕はね、あの絵を描いている時、時間を切り取ろうと思って絵を描いてた。おかしな話だよね、絵を描いてる間にも、どんどん時間は流れていくっていうのに。だけど認めたくなかった。時間が止まって欲しいと思った。僕が生きている今がずっと続けば良いと思った。死にたくないって、そればっかり考えて。この一瞬を留めて、何よりも現実に近いものを残そうと描きながら、何よりも非現実なものを望んでた。一樹にはそれが分かってたのかもね」

 そうなのだろうか。だけど、そう、確かに俺は背筋が薄ら寒くなるようなものを感じていた。それの正体は大野の妄念だったのだろうか。

「一樹はあの絵を見てから、しばらく絵が描けなかったって言ってたね」
「ああ」
「僕もね、あれを描いてからは、何も描く気力が起きなかったよ」
「……そうか」

 俺は考える。今という時間を切り取ろうとして、確かに大野はあのキャンパスの中に、その時間を閉じこめた。だけど、日を追う事にあの絵と異なる情景を、現実は大野に見せつけたはずだ。その時、大野はどんな気持ちであの絵を眺めたのだろうか。

「一樹の絵を見て、凄く楽しそうに描いてるんだろうなと思った。僕はそれが凄く羨ましかった。だから君が美術館に来て、僕と絵を描こうと言ってくれた時は、凄く嬉しかった。僕はまた絵が描けるようになった。描きたいと思えるようになったよ。だからありがとね、和樹」
「ばか、そんなお別れみたいなこと言うな」
「ごめん。でもしゃべれなくなっちゃってからじゃ、遅いから」
「大野……」
「大丈夫、まだしばらくは元気だよ」

 ベッドの上から動けもしない大野は、そう言ってやっぱり笑った。

 俺はなんて言えば良いか分からなくて、ひたすら手を動かしていた。

「和樹、ちゃんと描いてね。もう少ししたらしゃべられなくなって、顔の筋肉までやられちゃったら、うまく笑えなくなっちゃうかもしれないからさ。いまきちんと笑えてるよね?」
「ああ、大丈夫だよ」

 俺はそれだけ言うのが精一杯だった。

 描いている途中、何度もこの時が止まって欲しいと願った。真っ白な壁に囲まれた部屋で、春のようなこの空気を、その中で一足早く咲いた桜のような大野の表情を、何一つ欠落することなく、全てをこのキャンパスに切り取ってやりたいと。

 そして気付く。大野もこんな気持ちであの絵を描いたのだと。そして、その時大野はこんな優しく笑ってはいなかったことに。

 なぜそんなに穏やかに笑っていられる? どうしてお前はそんなに幸せそうなんだ? 絵を描くことすら、手を動かすことすら出来ないのに。

 絵を描いている間、頭の中を疑問だけが通り過ぎては、答えを見つけずに消えていった。耐え切れなくなって、描いている手が止まった。意識は答えのない問いに淀んで、何も考えられなくなった。意味もないのに、視界が涙で霞んだ。俺は大野の視界から逃れるように、キャンパスを盾にして描きかけの絵を見つめていた。

 大野は俺を見て、それでもやっぱり微笑んだままだった。その柔らかい空気の儚さを改めて認識するけれど、その時はただその暖かさに耽溺した。そうすれば、俺は何も考えずに絵を描き続けることが出来た。いつもの、今まで通りも俺でいることが出来た。

 余分な気持ちを棄てて、最初から絵を描き直した。大野は何も聞かずに、少しだけ目を細めて笑った。思い出しそうな気持ちを振り払うように、俺も少しだけ笑った。

 俺はお前の前でちゃんと笑えていただろうか。
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