恋セヨ苦労人
「恋セヨ苦労人」
何ガ恋ダ、愛ダ。阿呆共メ。
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二度目の大学二年生を迎えた春。私は、初々しく輝いている新入生を跡目に、そそくさとサークルの部室へと逃げ込んだ。私の所属のしているサークルは実に高尚であり、誰もが一度は憧れているであろう、写真研究会である。部室棟に駆け込み、乱暴に部室のドアをこじ開けると、途端にむわっとホコリの臭いが私の鼻を突き刺し、思わずむせ返ってしまった。これが現実である。
写真研究会の部員は20名ほど。本気で写真活動の向上と親睦をはかり、写真文化の発展を目指す勇者など誰一人いないであろう、此処にいる約20名は、写真研究会と称したお遊び部であり、男女のくだらん縁を育む不道徳な輩の溜まり場なのである。
私の居場所はここでは無い。汚らわしい連中の仲間でない。絶対来るものか。そう誓ったはずなのに、急に懐かしくなってしまい部室に来てしまったのだが、之は余りにも酷い。穴がぽっかりと空いた窓、その穴を開けたボールが床に転がり、ソファーにはどっさりホコリが被っている。何週間この部室を開けなかったのだろうか。誰も掃除をしなかったのだろうか。私は、ただ呆然とその古びた風景を眺めた。
やるしかない。私はそう決断し、シャツの袖を捲りあげ、掃除ロッカーを開けた。
デジカメでお気軽にとった男女のツーショットや陽気に変顔をして大爆笑している飲み会の写真やら、ありったけの憎悪を込めてゴミ袋に投げ込んでやった。何が要るものなのか、要らないものなのかは私の基準で決めた結果、殆どの写真や書類がゴミ袋に溜まっていった、後で文句を言われたら知らない振りをしておこう、文句を言われなかったら結局写真に対する愛情も敬意も、それっきりという事だ。そう自分に言い聞かせ作業を進めていった。
次に目に留まったのは何重にも重なり合った毛布の群衆だった。まだ使えそうだが、破れていたりホコリが被っている為、要らないと判断した私は毛布をはぎ取った。その時、ちらりと見えた白い太ももは今でも、しかっりと覚えている。
要塞のごとく何重にも重なり合った毛布の下には、肌の白い清楚な女性がいたのだった。
「し、失礼!」
本当はもっと白い太ももを拝みたいという気持ちもあったが、紳士であろう私がそんな不道徳な行為を許す事も出来ず、目を逸らした。この場合、某アニメでは「のびたさんのエッチ」と叫ばれながらビンタが飛んでくると言うお約束がある。私は覚悟をして歯を食いしばった。
しかし、いっこうにビンタも平手打ちもエルボーも飛んでや来ない、もしや私が見た白い太ももは白骨体であり、生前の幻影が見えてしまったのかもしれない、もしくは女性との交際が、からっきしない私が不覚にも厭らしい感情が芽生えてしまった為、欲望が投影されてしまったのかもしれない。どちらにしろ、反応が無ければこちらから伺うべき、私はおそるおそる視線を戻した。しかしそこには誰も居なかった。居た痕跡もなく、ただ穴だらけのソファーが顔を出すばかりだったのだ。
自分は疲れているのだろうか。
やっと気付いた留年への後悔、自分の信じてきた紳士たる生き方、急に何もかもが馬鹿らしく思いゴミ袋を放り投げ、ため息をついた。
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あれから数日後、部屋を綺麗にしたおかげで部員達が着々と溜まり始めた。ちゃらけた男女が当然のごとくデシカメを振り回し、せっかく綺麗にしてやったテーブルの上に足を乗せ、どんちゃん騒ぎをしていた。この野郎、誰のお陰で部屋が綺麗になったと思っているんだ、私は目立たぬよう部屋の隅っこのカーテンの裏で身をひそめながら腹を立てていた。すると、目の周りを黒々の塗りたくった女子部員達が私の方へデジカメを向けて連写をした。
「心霊写真みたいじゃーん」
「あんな奴いたっけ?」
私は、わざと聞こえない振りをして窓の外をぼんやり眺める事に徹していると、阿呆な女子部員は、わざと聞こえるように大きな声で私の悪口を言いだした。「あいつ留年したらしいよ」「まじきもい」聞くに堪えない暴言が飛び交ってくる中、
「あの人が此処の部屋掃除してくれたんだよ」
小さくか細い声が微かに私の耳に届いた。予期せぬ言葉に私は息が詰まりそうになり、顔が熱くなるのを感じた。その一言で一方的な言葉のドッチボールが終わったわけではないが、ほんの少しだけ救われた気がした。
気がつけば、女子部員達の声は消えて一人の男の話しに集中していた。話の内容は新入生歓迎会の内容であった。祝う気なんてさらさら無い私には無縁の話、そそくさと部屋を出ようと荷物をまとめていると、かつて同学年であった、石橋(いしばし)が私のベストの胸倉を掴みニンマリと笑って見せた。無言の脅迫とはこの事だろうか。
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某居酒屋で新入生歓迎会が行われた。飲み会と言うものは、結局似た者同士が集い明暗をはっきりと分けてしまうものだと思っていたが、予想とは裏腹な事に、私が石橋の隣の席を座る事になってしまったのだ。当然私は出口に近い席に座ろうとしたが、手をひかれ隣に引き寄せられてしまった。正直、不気味で仕方がない。新入生がぞろぞろと部屋に入ってくると同時に私たちは歓迎の意を込めて盛大な拍手を送った。くそっ、という本音をいつ吐き出してやろうかと考えていると、石橋が大きな口を開け笑いながら私の背中を叩いて言った。
「せっかくの酒の席なんだ、楽しくやれよ。な?」
こいつは阿呆か馬鹿か。私は最初っから楽しむ気も、はしゃぐ気も無いと言うのに・・・、キツく石橋を睨みかえすと、石橋は人を馬鹿にしたような声でゲラゲラと笑った。何が可笑しいのか分からないが、私のイライラはいっこうに収まらないまま歓迎会は始まってしまった。部長である石橋は誇らしげに意味不明なスピーチをして、もはや写真部でもなんでもない一発芸をやって見せた、新入生も皆につられて大爆笑をしていた。石橋は指をパチンと鳴らし注目を引きつけこう言った。
「さてさて、次は副部長から」
石橋が100%スマイルで自慢のエアーマイクを私の口元に突き出した。なるほど、そういう事か。私は副部長ではないし、在部しているかも怪しい幽霊部員なのだ。これは石橋の陰謀。石橋は単なる〝引き立て役〟が欲しかったのだ、私がたどたどしくスピーチをしている最中に茶々を入れて〝面白く元気なリーダー〟を演じたいのかもしれない。そんなシナリオは問屋が下ろしても、私は断固下ろすものか、むしろ逆らってやろうじゃないか。私は石橋のエアーマイクを退け、立ち上がり咳払いをした。
「皆さん、私から言う事はありませんが、この歓迎会・・・・費用は全部部長が持ってくれるらしいですよ!」
そう吐き捨てた瞬間、新入生は「おおっ!」と歓声を上げ喜んだ、訳も分からない部員達もテンションに流され声を上げた。私は「遠慮する事はないですよ!じゃんじゃん飲みましょう!」と付け加えると、足元にあった荷物をまとめ急いで外へ飛び出した。今頃石橋はあたふたしながら困っているだろう。実にいい気味だ。ごちそうさまでした、と。
居酒屋から走り抜けてから数分が経ち、少ない体力が底をついた為一休みをしようと自動販売機へと足を運んだ。缶コーヒーを買ってプルトップをこじ開けると同時に激しい後悔が押し寄せい来る。自分は悪くないんだ、ちょっとした仕返しなんだ。そう思っていたはずなのに、複雑な気持ちになっていく自分が居た。私は、ぐびっと缶コーヒーを飲み干し、無意味な感情と共にゴミ箱へ放り投げた。慣れない事をするもんじゃなかったと私は反省をし、帰ろうとした時だ。背後から砂利を蹴る音がした。
「うわぁっ!」
石橋かと思い、ついつい情けない声を出して身構えてしまったが、彼ではなかった。固く瞑った目を少し開けてみると、一人小柄な女性が立っているではないか。見覚えのある顔でホッと安心したが、名前が全く出てこない。私は「えーっと・・」と、頼りない声を出しながら思考を巡らした。彼女はポーチのポケットから妙に見覚えのありまくる携帯を取り出し、笑って見せた。私はハッとして、ズボンのポケットに手を突っ込んだが、いつもの感触は無く私は焦った。友人の少ない私には必要のない物かもしれないが、唯一の連絡手段である携帯を敵の手に渡ってしまったのは痛手である。私は彼女を睨みながら「返せ」と手を伸ばした。すると、取らせはしないと彼女も手を引き、小学生のような取り合いをした。ようやく、敵から携帯を取り返したところで私はそそくさと家に帰ろう足を動かすと、彼女はクスクスと薄気味悪く笑いながら口を開いた。
「副部長さんは随分酷い事をする方なんですね」
「わ、私は副部長なんかじゃない」
「そうなんですか?」
彼女の澄み切った純粋な目が私には痛かった。私より小柄な女性に対してビクビクしている自分が情けなく思い、彼女を睨みつけようとしたが、視線が合えばとっさに目を逸らしてしまう。以前にもこんな事をした事が有るような気がする。すると、ふっと思いだす。
「あっ・・・君は・・・」
以前、部室を掃除した日に出会った白いフトモモの子ではないか。
妙にテンションが上がった私は続けて言葉を繋いだ。
「写真研究会で寝てませんでしたか?」
「だとしたらどうします?」
「いや、別に・・・なんというか・・・」
イエス、ノーで答えてくれたまえ、なんて偉そうな事は言えるはずもなく照れくさくなってしまった。何故あんなところで寝ていたのか、毛布のホコリぐらい掃ったらどうだ、入学後そうそう何やってんだ、言いたい事は山ほどあるはずなのに言葉が詰まってしまう。私は緊張しているのだろうか、誰かが言っていたジンクスで、手のひらに〝人〟の文字を数回書いて飲み込むというおまじないを聞いた事がある。それを試そうか。いや、今そんな奇妙な行動をしたら変態さんではないか。私はすっかり狼狽してしまった。彼女は、身悶えする私に呆れたのか、完璧な愛想笑いをした。なんだか、虚しい気持ちが込み上げてくると伴い、恥ずかしさも増して、私は思わず逃走をしてしまった。なんて情けない事だろうか。
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すっかり夜も更け、雲のかかった薄汚い月がひょっこりと顔を出していた。彼女から尻尾を巻いて約2時間。私は生まれたての子犬の様に震えながら寝室に閉じこもっていた。まだ、家に帰ってきたばかりで部屋の中は冷たく寂しい空気が垂れ流れていた。たかが異性と会話をしただけなのに、こんなにも身ぶるいをするものなのか。私はぐしゃぐしゃに髪の毛を掻きむしりながら考え込んだ結果とんでもない結論に導かれてしまった。
この世に生を受け継いでから約20年、一度たりともこんな感情に芽生える事が無かったが、きっとそうだ。ずっと都市伝説だと思っていたアレなのだ。
そう―
これが、恋である、と。
恋セヨ苦労人。