放課後に俺はふわふわとした浮つかない気持ちで名和さんと文芸部室へと歩いていた。
事の起こりは授業が終わり、掃除も終わり、さて部室に行こうと俺が思案していた時に彼女が声をかけてくれた事にある。望外の喜びに思わずガッツポーズを決めそうになったほどである。
勇の嫉妬と羨望の混じった眼差しを背中に強烈に浴びながら颯爽と俺は名和さんは歩き出した。
何を話していたのかはよく覚えていない。しかし、神様ありがとうと心の中で叫んでいた事、彼女のあどけない細面の笑顔は憶えている。心の中では彼女の部室でのあのありえない言動が一抹の翳りとして残っていたが、そんな事は今はほとんど気にはならなかった。
それよりも彼女の側にいて、談笑しているという事が重要だったのだ。俺は四階にある文芸部室がもっと離れたところにあればいいななどと夢想していたのだ。まことに赤面すべき事だが……。
しかしそんな妄想は当然かなわず、教室から僅か数分で文芸部室に着いた。アインシュタインの言った通り、実感はもっと短かった。
文芸部室には明かりが付いていなかった。名和さんは
「誰もいないんですかね。ということは入れないのではないでしょうか」
と心配したが、俺が試しにドアに手を伸ばすと簡単に開いた。鍵はかかっていなかったのだ。不用心な事である。まあ、あの鷹揚な部長がしそうなことだ。
明かりを付けて、俺たちはとりあえず座った。ふと、これは絶好の機会ではないかと気づいた。ここで親睦を深め、あとは野となれ山となれだ。
さて、何の話をしようかと熟考していると彼女のほうから話しかけてきた。
「そういえば、この部屋には全然漫画とかそういう類のものがありませんね。お堅い小説ばっかりで……。どこかに隠されているんでしょうか」
その話はしないでくれ。名和さんよ。そんな現実は見たくないのだ。しかし、しょうがなく返事をする。
「さあ、探してみますか」
おれは冗談のつもりだったのだが、名和さんは探し始めてしまった。おれはやれやれと思いながら付き合う。しかし、本棚にはまじめな本しかなかった。
が、前に来た時には全然気がつかなかったが部屋の奥のほうには戸がある事を発見した。部室に入ると正面は窓で、横がわにはずらりと本棚が陣取っており部室の奥にある引き戸に気づく事が出来なかったのだ。文芸部室が細長い部屋である事が災いしたと言えよう。
窓ガラスからは明かりが漏れていた。そこには人影があった。部長はここにいるのだろうかと俺は推察しながらノックして声をかけた。
「部長。名和さんも一緒にいます。入っていいですか」
返事は一向に返って来ない。部長ではないという事は一体何者なのだろうか。名和さんが
「入ってもいいんですかね」
と言って戸を引こうとした。が、俺はその柔らかい手を掴み、制した。華奢な彼女にこんな危険な任務をさせるわけにはいかない。もしかして不審者なのかもしれないのだ。ここは俺が格好よく先陣を切ってポイントを稼ぐ、いや間違えた。男を上げる時なのだ。俺は
「入りますよ」
と一言宣言して戸を開けた。
そこにはパソコンをしている一人の男子高校生がいた。彼は俺たちが入ってきた事に驚いたようだった。背後には本棚があり、漫画が山と置かれていた。なるほど、ここにあったのかと納得した。それにしても魑魅魍魎の類を期待していた俺はがっかりした。せっかくのポイントを稼ぐ機会が、いや彼女の安全が一番だ。
俺は声をかけた。
「どうして、返事をしてくれなかったんですか」
「ぼぼぼ僕は梶原と言います。ああなたは達は」
梶原という人物のしどろもどろな言葉を不審に思いながら、俺は続けて尋ねようとした。そのとき、ドアノブをひねる音がした。数秒後戸を開き、木曽部長が入ってきた。
俺たちが呆然としていることなどおかまいなく、部長は
「あー、あんたたちが会うのは初めてなんだね。紹介するよ。この人は二年生の梶原義友君。一応副部長をやってるの。まあ、二人しかいなかったからしょうがなくだけどね」
と梶原副部長の肩を組んで喋った。くぅ。羨ましい。しかし、彼はむしろ嫌がって体を少し揺らした。何という罰当たりな奴だろうか。
梶原副部長の容姿を一瞬で理解するにはオタクという言葉がふさわしいだろう。ここで小説家志望のくせに語彙が乏しいと指摘した、あなたには一度彼を直接見てもらいたい。自分の無知と非礼を恥じて何も言わずに帰っていく事間違いなしだ。もし、俺が辞典の編集者だったならば他の編集者の必死の説得を無視し、おたくの項には彼の写真を貼付けることだろう。
オタクと言われて思い浮かべる典型的容姿は次の二つだろう。太っているか、やせているか。副部長の場合は明らかに後者だった。その容姿はまるで日本の北にある某国の虐げられている人民にそっくりである。
もっとも、俺は彼の趣味、嗜好のことなど全く持って知らないからそうでない可能性もあるにはある。だが、考えてみてほしい。もしあなたがまげを結っている巨漢に出会ったら、その男の職業をなんであるのかを把握していなくても勝手に決めつけるのではないか。簡単明瞭に言えば、そういうことだ。
それからとりあえず俺たちは椅子に座った。部長と名和さんは意気揚々と話し始めた。漫画やアニメの話題で盛り上がっているようだ。この部屋には小さなテレビまであった。一体どこで手に入れたんだか。
その時、俺は突然思い出した。そういえば、部長はかわいい子がいると言っていた。しかし、部員は二人しかいなかったというではないか。これはどういう事かと思って尋ねると、部長は悪びれる様子もなくこう答えた。
私がいつ梶原君が男だって言ったの。かわいいって言葉は男の子にも使えるでしょ。それに最近は男の娘っていう言葉もあるんだから。男のむすめと書くの」
木曽先輩の新本格推理小説ばりの叙述トリックに、遂に俺は反論するのをあきらめた。この人には何を言っても無駄だという事を遅まきながら悟ったのだ。