Neetel Inside ニートノベル
表紙

かすかなる風、ドラゴンの夏
01.ドラゴンの夏

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 べつに怖かったわけじゃない。
 人の方が幽霊よりイヤだっただけだ。
 




 一学期が終わった日、遊ぶ友達もいないので、竜宮夏臣はマーボーカレーを買って家に帰る途中だった。
 かわいいポニーテールのお姉さんが売り子をしている弁当屋『4U』は夏臣のいきつけの店だが、いまだに「いつもの」と注文して欲しい品が出てきた試しはない。実をいうと今持っているビニール袋の中のマーボー豆腐とカレーライスの合成品もちょっと食べるのに不安があったりする。
 お姉さんの曇りひとつない笑顔を信じてはいる。いるが、見たことも聞いたこともないものに人間は怯えるものなのだ。
 たとえば幽霊、とか。
 夏臣はぐっと唇を噛み締めて自己嫌悪に陥った。
 いま幽霊という言葉が頭に浮かんだのは、今晩の『1A主催夏休みが始まるよ記念大肝試し大会』に誘われなかったからでは決してない。そう思いたい。
 高校に入ってからいまだに発した言葉が「あ、これ落としたよ」と「次教室移動だって」以外にないのは事実だが、べつに寂しいわけじゃない。
 一人だと本が読めるし、ぼんやりと開け放った窓から夏の空を見上げて青いキャンバスに妄想を描きこむことだってできる。
 肝試しなんてバカバカしい。どうせあいつら、暗闇を口実にイチャイチャしたいだけだろうが。幽霊なんて、誰もホントは信じてないくせに、白々しいぜ。そんなんだったら最初から興味を持たなければいい。中途半端だ、そういうの。見てていらいらするし、気に喰わない。
 見に行くってことは、つまり、信じてなくちゃいけないんだ。
 夏臣は誰が見ているわけでもないのにフンと鼻を鳴らし、弁当をぶんぶん必要以上に振って歩いていく。
 それでも、通りかかりざま、ちらっと横目で盗み見てしまった。
 足が止まる。
 美津治(みづち)商店街は夏臣の母親たちが子どもだった頃は人の絶えぬ賑やかな商店街だったという。当時の写真を見ても、おかっぱ頭の薄汚いガキどものの後ろにはたくさんの買い物客の姿が写っていたものだ。
 それが今では軒並みシャットダウン。どこまでも続く閉店の張り紙がひらひらと風に揺れている。商店街全体がキョンシーにでもされたような異様さ。
 いかにも、出そうではある。
 真夜中に肝試しにくれば真偽はともかくおかしなもののひとつや二つには出くわしそうだ。
 けれど夏臣には関係ない。
 たとえ心霊体験をしようとも、話のネタにする男友達もいなければ、一緒にいこうと誘うガールフレンドもいない。
 こういう冒険は独り身には似合わない。
 心に静かに仕舞っておくだけになってしまうから。
 ふう、と夏臣は息を吐く。
 おとなしく家でマーボーカレー弁当を堪能しよう。
 一歩、二歩、と歩いて、三歩目で止まった。
 そのまま歩いた分だけバックして、でも、と夏臣は思い直す。
 ひょっとしたらこれが最後のチャンスなのかもしれない。
 幽霊なんてものに怯えるなんてセンチメンタリティは、これから背が伸びて肩が広くなってしまったら、味わえなくなる感情かも。
 どうもそれはもったいない気がするのだった。
 どうせ誰も見てやしない。悪いことなんてしちゃいない。
 ぼりぼりと頭をかいて、
「うるさい」
 誰に言うでもなく毒づいて、夏臣は色あせたアーチをくぐった。




 全店閉鎖の商店街、当然というかなんというか、物音ひとつしない。
 隠居して静かな老後を謳歌しているおじいちゃんおばあちゃんもいなければ、探検ごっこに胸をときめかせたガキもいない。最近のガキはゲームもろくすっぽしないで塾に通って将来の安定性を高めるのが流行りらしい。
 夏臣は目を凝らす。はるか彼方、夏臣が入ってきたのと反対側のアーチから白い夏が見えている。
 誰もいない。何もない。
 つまらない。
 夏臣はふうっと気だるげなため息をつく。
 あっけない。
 まァ現実なんてそんなもの。わかってはいたのだ。
 どんなにテレビが心霊特集をやろうとも、霊能力者と批評家がブラウン管で言葉の殴り合いをかましていても、本物が自分の前に姿を見せてくれることなんてないのだ。プラズマもオーブもくそくらえのでっち上げだ。大昔のビビリが大げさに騒いだだけで、そんな腰抜けも科学の力がそのうちみんな気合を入れてやって絶滅するのだろう。なにが起こっても誰かが説明してくれる。だから怖くない。なにが見えても聞こえてもそれは現代病が引き起こした膨大なストレスと悲しいノイローゼのせい。
 これで終わりだ、俺のガキの時代も。
 明日からは夏休み。
 高校生らしい予定も友達もいないが、ゆっくり冷房とアイスと少し色あせたホラーゲームをやれば、それが自分の肝をいくらか冷やしてくれるだろう。
 持ち上げてみるとすっかりマーボーカレーは冷めてしまっていた。やれやれ、と首を振る。
 帰ろう。
 そのとき、ポツンと水滴が首筋に落ちてきた。
 雨?
 しかし落ちてきたのは一滴だけでそれきり降ってこない。
 手をかざして空を見ても、雨雲なんてどこにもない。
 夏臣は仰いでいた顔を戻す。
 そして夏臣はそいつに出会った。


 誰もいなかったはずの場所に誰かが立っていた。それはパッと見た瞬間に夏臣の脳にひとつの概念を叩きつけた。
 白い人影。シャッターに前に張りつくように立っている。
 長い黒髪は目元を隠し、白いブレザーは天の国からの宝物のように滑らかで。
 ゆるやかな身体のラインは、その人がまだ少女であることを示していた。
 鈴のついたチョーカーを首に巻いていて、夏臣の目にはそれが何かとても背徳的なものに見えた。
 気配なんてぜんぜんしなかったのに。足音も息遣いもなかったのに。
 いまも、そうだ。瞬きひとつしたら消えてしまいそうで、声をかけてもそのまま背後のシャッターに冷たくぶつかるだけのような。
 夏臣の心臓は凍ったまま。
 ただ、身体だけが熱を求めて震えていた。






 真夏の誰もいない商店街。
 そこには、幽霊が立っていた。







 根を張ったように、足が動かなくなった。
 夏臣は紫色になった唇をひん曲げて無理やり笑おうとした。俺はちょっと神経過敏になっているだけだ。あれはちゃんと生きている人間で、話しかけてもこっちを食ったり千切ったりしない。鬼じゃないんだから。
 よく考えろよ、ガキじゃないんだから。常識ってものがあるだろう。
 なのに、なんだ。
 この寒気は。悪寒は。
 螺旋階段のてっぺんから、ふいに、地上を見下ろしたような、この震えは――
 ちりん、と。
 少女が首の鈴に触れ、澄んだ音の波が響き渡った。
 そして、少女は首をこちらに向けて。
 少女は夏臣を見た。
 夏臣も少女を見た。
 その碧い瞳を。
 この世のあらゆる醜いものを溶かし込んでグツグツにしたヘドロのような、碧い碧い碧い――――



 眼。







 気分が悪い。
 急に地面が柔らかくなって足元がふらつく。額の裏に冷たい痛みが駆けて目が開けていられない。日差しが侵入できないほど瞼を固く固く閉じて闇に包まれると、身体中の毛穴という毛穴から滲み出る汗がより強く鬱陶しく感じられた。
 踵を返して、足を動かす。骨が鉛に変わったように重たい。冷や汗が止まらない。額から流れた雫が鼻の横を伝う。気分が悪い。吐き気がする。頭が痛い。
 自分のと一拍ずれた足音が、する。
 なにも考えたくない。なんでこんなところに来てしまったんだろう。目を開けたらあのアーチの前に何事もなく立っていたらいいのに。眼を開けてみる。沸騰した景色の果てに遠く出口が待っている。あんなに遠くまで歩けるだろうか。その前に俺は、
 頭が痛い。吐き気がする。喉がひきつって息が吸えない。ひゅうひゅうと、湿った風だけが喉を通るばかり。
 頼むから、誰かあの鈴を止めてくれ。
 本当に、マジで、キツ――――
「ねえ」
 声をかけられ、
 肩をつかまれ、
 そして、
 ――――あ。
 張り詰めていた最後の糸があっけなく切れた。





「うわああああああああ――――――――ッ!!!!!!」







 遮二無二駆け出した。
 弁当の入った袋が手からすっぽ抜けたが構うものか。
 両手をぶんぶん千切れそうなほど振り回して、夏臣は逃げた。逃げなければ殺されていたに決まっている。
 あの目は人間のものなんかじゃない。自分にはわかる。あれは違うモノだ。人の薄皮を被っているだけの着ぐるみだ。
 そうでなければ、こんなに恐ろしくなるはずがないだろう。
「はあ……はあ……!」
 満面の笑顔と泣き顔を混ぜ合わせて、夏臣は走る。走る走る。
 けれどもどこにも人の姿はない。
 こんな真昼間に。
 終業式の日だというのに、みんなどこへ行ってしまったというのだろう。
 信号は赤信号のまま凍りついている。クレープを売る車、客はおろか店員の姿さえない。
 トイレにでもいっているというのか? この熱気の中で商売道具をほっぽり出して?
 ゴミ箱を蹴倒して夏臣は頭から空き缶とビニール袋と競馬新聞の滝を浴びた。誰かが食べてすぐ飽きて捨てたクレープが夏臣の頭に落ち、べっとりとジャムがついた。








 ちりんちりん








「あっ」
 鈴の音に顔を向けると、そこにはさっきの白い少女が腰に手を当てて立っている。
「どうして逃げるの?」
「あっ、あっ、あっ」
 少女は、ゴミを頭からかぶった夏臣を確かに視界に入れているはずなのに、顔色ひとつ変えない。
 それは、年相応の少女の態度ではなかった。
 口下手で無愛想な夏臣をキモイだのブキミだのと陰で罵る同年代の女の子たちとは、違う存在だった。
 その眼は、夏臣を捉えてはいても、その身体や顔を見ているとは思えなかった。
 焦点が合っていない。
 いや、違う。夏臣は震えた。




 あいつは、俺のナカミを見ているんだ――――




 くんくん、と少女は小さくて柔らかそうな鼻をひくつかせる。ちりん、ちりん。
 にいっ、と赤い歯茎と白い八重歯を見せて、少女は笑った。
「ああ、なんておいしそうな――――におい」
 限界だった。
 喉が張り裂けるほどの絶叫をあげて、夏臣は再び逃げ出した。
 あまりにも強く眼を見開いているものだから、いまにも眼球が零れてしまいそうだ。
 夏臣の中の冷静な部分が、狂騒している部分に映像を見せつける。糸を引いて顔から落ちた目玉。陽炎を立ち昇らせているアスファルトに落ちた目玉はぺしゃりと潰れて二度と役には立たない。
 夏臣は必死に目玉を張り付いたアスファルトから剥がそうとする。
 しかし短い爪ではいくら引っかいてもじゅうじゅう焼ける目玉は取れやしない。
「あたしがやってみるよ」
 夏臣はしずしずと少女に場所を譲る。
 少女は白い、小さな生き物を抱いて撫でることしか知らないとしか思えない無垢な手を目玉の縁に当てる。
 突然、その爪がにゅっと伸びた。ワシかタカの嘴のようだ。
 その爪はいとも簡単に夏臣の目玉を拾い上げてみせる。
 少女はちょっと得意気に、でもやっぱり恥ずかしそうにはにかんで、
 夏臣のよく焼けた目玉をぺろり、と






「ああああああああああああああ――――――ッ!!!!!!!」





 走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ!
 夏臣はこれほどの恐怖を感じているくせに乳酸を溜めてだるさを訴えてくる足をぶち殺したくなった。
 休んでいる暇なんてない。そんな時間はどこにもない。だって、



 ちりん、ちりん



 あの少女が、すぐうしろにいるんだから。
 脇腹が焼けた鉄を押しつけたように痛む。
 口の中はべとべとするよだれでいっぱいで、走れば走るほど汚い液体がうしろに尾を引いているが構うものか。
 女の子の幽霊がよだれぐらいで撤退してくれるなら万々歳だ。いくらでも醜態をさらしてやるというのだ。
 誰かに見られて二学期からあだ名がベトリーニョになっていようが、ゲタ箱の中によだれかけがハートのシールつきで贈られてきてあっても喜んでつけてやる。
 ここから生きて還れるならば。
 どれほど走ったか、もう夏臣にはわからない。
 ただ、ちりんちりんと鈴の音だけが夏臣を弄ぶようにうしろから追ってくる。
 夏の町には誰もいない。溢れかえった光の中に溶けていってしまったように……。
 光。
 夏臣は確かに見た。
 突き刺すような陽光を射し返す水面を。最近のゲリラ豪雨で水かさを増した川を。
 アスリートの腕を寄り合わせたように暴力的なうねり方をしている美津治川が、そのとき、夏臣にとっての蜘蛛の糸だった。
 迷っている暇はない。
 悩めばあの白い手が、自分の首にかかるだろう。
 川の前にはどこまでも広がっている柵が阻んでいる。構わない。
 全速力で突っ込む。
 ガァン、と骨まで染み入る音を立てて、夏臣は柵を飛び越えた。
 背後で、あっ、という素っ頓狂な声が聞こえた気がした。
 両手を広げて、夏臣は飛んでいた。
 時間はゆっくりと流れている。スローモーションになった川の形は、氷に似ていた。
 そんなもの幻想でしかなかった。
 ばしゃあん、と水飛沫を立てて夏臣は着水した。なんとか体勢を整えよう、なんてことは考えるだけ無駄だった。
 鼻ッ柱に強烈な水の拳が叩き込まれた。頭の中に火花が散った。
 こらえよう、なんて甘い考え方はその一発で吹き飛び、休むことのない連撃を喰らって、夏臣はなすすべもなく流されていった。






 意識を失う一瞬、また、あの鈴の音を聞いた。

     



 頬をこするざらざらした感触が気持ち悪くて、夏臣は目を覚ました。
 頭がぼうっとしてはっきりとしない。何かに乗っているようだ。救急車だろうか。
 それにしては、窓もなくむき出しの町が見渡せるのはどういうことだろう。オープンカータイプの救急車が流行りなのだろうか。
 そんなはずがなかった。
 夏臣はわけがわからないまま、おそるおそる身を起こす。
 どうやら川を何かに乗って下っているらしい。
 強すぎる陽光と、乗り物が切り裂く水の波頭で、眼を開けていられないほど眩しい。
「あ、起きた?」
 顔を上げると、幽霊がにやっと笑って、肩越しに夏臣を振り返っていた。夏臣は怯えるのを忘れて、その笑顔に見とれた。
「俺……」
「君、急に大声あげて川に飛び込んじゃったんだよ」
 夏臣は少しだけ冷静さを取り戻し、少女が何か握っているのに気づいた。
 それは手綱のように見えた。しかし、自分が乗っているのは馬ではないことだけは間違いない。
「もうびっくりしちゃった。いきなり逃げるんだもん。わたし、もしかしてなんか物凄い格好で出歩いてるんじゃないかと思って慌てちゃったよ。うん、わたし服着てる?」
 夏臣は呆けたまま答えた。その質問の不自然さも気づかぬままに。
「着てる」
「服は透けてない? なんも見えてない?」
「見えない」
 少女は片手を胸に当てて、ほっと安堵の息をついた。
「よかったァ。お嫁にいけなくなっちゃうかと思った」
 はは、と短く笑ってから、
「ま、こんな眼じゃあ元からそーゆーのはむずかしいんだけどね」
 夏臣はハッとした。
 そうだ、さっきから何かおかしい。自分が何を着てるかだって?
 そんなものは見ればわかるのに――
 夏臣は少女の碧い瞳をまじまじと見つめた。少女の瞳は、夏臣の左耳の外側を見ていた。
「うん、見えないんだ、わたし。子どもの頃に事故にあっちゃってさ――っとと」
 ぐうん、と夏臣と少女のまたがっているものがうねった。ばしゃあん、と川の水が大きな花を咲かせる。
「うわァッ!」
 夏臣は慌てて手元にあったものを掴んだ。銀色のさらさらした繊維――たてがみのようなもの。
 少女がくすりと笑った。
「しっかり掴まっててね。氷菓って気が荒いんだ。根はいいヤツだと思うんだけど」
「氷菓……?」
「うん、この子の名前」
「この子……って……ぎゃっ!」
 そのとき、また揺れが来た。しかも縦の揺れで、慣れない衝撃に夏臣は泡を食ってたてがみよりもしっかりしたものに飛びついた。
 少女は夏臣の手が腰に回っても平気な顔で手綱を振るっていた。
「まったくもう。妬いてるのかなァ。君をからかって遊んでるよ」
「ま、待ってくれよ、こいつは一体……」
 氷菓というのはとことん夏臣が気に食わなかったらしい。ただし、今度は揺れなんていう生易しいものではなかった。
 氷菓は力強いうねりをひとつ川にぶつけ、鳥のような狼のような甲高い鳴き声をあげた。
「あ、こら氷――」
 ふわり、と。
 少女の制止もなんのその。
 風に飛ばされる綿毛のように柔らかく、夏臣と少女を乗せた氷菓は空に舞い上がった。
 夏臣はもう声を出したくても出せなかった。
 陽光と水のシャワーが少しだけ弱まった。ジオラマのような町が眼下に広がる。
 自分の家を探す余裕があればよかったが、夏臣にできたのはより強く少女にしがみつくことだけだ。
 高度を増すたびに強くなる風で恐怖心がむくむくと巨大化していく。いま手綱を放して少女が自殺したら自分も死ぬのだ。死ぬのだ――
「だいじょうぶ」
 まるで、夏臣の心の声が聞こえたように。
 少女は優しく囁いた。
「この子は賢い龍だから」
 賛辞を受けて嬉しかったのか。
 キシャアアアアア、と二人を乗せた銀色の龍が太陽に向かって吼えた。あまりの大音量に夏臣の鼓膜は破れてしまいそうだった。
 それでも聞き逃しはしなかった。夏臣は滑りそうになる両手を強く強く少女の腹の前で組み直した。
「龍……って、あんた、何者なんだ」
「幽霊」
 夏臣の顔が青くなったのは少女には見えなかったろうに、それでも彼女はすぐに言葉を継ぎ足した。
「うそうそ、ごめん。あんまり爪立てないで。おなかに刺さってる」
「あ、悪い……」
 慌てて指先から力を抜こうとしたが、緊張ですっかり固くなっていて、あまりうまくはいかなかった。
 そんなことどうでもいい。
 夏臣は噛み付きそうな顔を少女の肩から出した。
「どういうことなんだよ。龍に乗れるなんて普通じゃないっていうか、そもそも龍って」
 いきなり唇を塞がれた。
 夏臣の心臓は、その日二度目の時間停止に襲われた。
 冷たい人差し指でおしゃべりを止めた少女は、めしいた碧い眼をまっすぐ夏臣に向けて、笑った。
「ねえ、もしまた会うことがあったら、そのときはもっと長話してあげる。でも今は、楽しんでみない? こんな機会、滅多にないんだから」
 風に揺れて、少女の首元の鈴がちりんちりんと鳴っている。
 どうしてそれが恐ろしいものに聞こえたろう。その澄んだ固い音は、夏臣の心に染み入って、絡まった思考の糸をほぐしてくれるようだった。
 唇を押さえられた夏臣はこくんと素直に頷いた。よし、と少女は悪戯小僧のような顔になる。
「じゃ、お楽しみといきますか」
 そういって手綱に手を戻す。よく見れば少女は鞍にまたがっていて、足もきちんと鐙におさまっていた。夏臣はずいぶんぞんざいに乗せられていたことに気づいて、いまさらゾッとした。
 なあ、おい――――。
 声をかける間もなく、少女が手綱をぴしんと打った。
 一声鳴く氷菓。たてがみを逆立てて、狼のように突き出た鼻先を、いまとなっては小さな小さな地上へ向ける。
 地上?
 夏臣はごくりと生唾を飲み込んだ。
 その身体がガタガタ震えていることに少女は気づいているはずだが何も言わない。
 きっと前を向いているその顔は笑っているのだろう。ひまわりのように。
「約束してあげる。最ッ高に気持ちイイ――って!」
 眼を閉じることさえできなかった。
 真っ逆さまに、二人を乗せた銀の龍は、地上目がけて文字通り落下していった。風を切りたてがみをひるがえらせ鯰のようなヒゲをぶるぶるぶると震わせて、







「ぎゃああああ――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」







 長い長い悲鳴を道連れに、銀の龍は空を下り、その果てに広がる美津治川に着水した。
 なにかが爆裂したような轟音が町中に響き渡り、大きな大きな水柱が高く高く伸び上がった。









 かかった虹は、龍に似ていた。

     


 二度目の覚醒はあっさりしていた。気絶も慣れてくると回復が速くなる。
 夏臣は自分が土と草の上に寝転がっていることをぼんやりと感じた。ごおおおおと耳元が騒がしいのは、すぐ側にあの川が流れているからだろう。
 むくりと起き上がってぐるりと首をめぐらした。
 少女はどこへもいくことなく、膝から下を水の中に沈めて碧い瞳を太陽にさらしている。
「おい、アンタ」
 少女は首を動かさずに、ん? と鼻を鳴らしてこっちを向いた。
「ああ生きてたんだ。よかったよかった。うーん、やっぱり直滑降は素人には刺激が強すぎたね、耐重装束もなかったし。でもブラックアウトしちゃうなんて……君って乗り物苦手?」
「てめえ……」
 夏臣はわなわなと固めた拳を振るわせた。
「なにが車酔いだ、あんなの心構えなしに喰らったら誰でもオチるに決まってるだろ、殺す気か!!」
 まぁまぁ、と少女はのんきなまま。耳を肩に預けて気持ちよさそうに陽を浴びている。
「でもスカッとしなかった?」
「締め落とされるときのアブナイ快感がな」
「じゃあいいじゃん?」
 すうっと肺に空気を満たして、
「いいわけね――――――――――だろ――――――が―――――――!!!!」
 夏臣は吼えて少女にぐあっと詰め寄った。
「あんなあぶねーマネしやがって! もし俺がおまえから手を離したり、あの龍から振り落とされたらどうするつもりだったんだ? あの高さから水に落っこちたら俺の身体なんか電車に轢かれたみてえにコナゴナだぞ、たぶん!」
「うえっ……ヤな想像ぉ」
 目を塞いでベロを出した少女を見て、夏臣のエンジンがどんどんギアをあげていく。このアマはもし本当に夏臣に言葉通りの悲劇が起こっていたらどうするつもりだったのか。
 仕方ないでは済まないのだ。こいつにとっては赤の他人の命かもしれないが俺にとってはたった一つの残機でワンナップキノコはどこを掘っても出てきやしない。
 夏臣には嫌いな言葉がある。
 なんとかなるだろう、だ。
 そしてまさにそのセリフを白い少女は夏臣に言ってのけた。
「なんとかなったじゃん」
 ぷうっと頬を膨らませて、拗ねる横顔がまた夏臣の神経を逆なでする。
「そもそもなあ、なんなんだよ龍って……今時ドラゴンもねえだろうが」
「えっとね、七つのビー玉を集めたら突然でてきあ痛ッ」
 夏臣のチョップが炸裂した。
「んなわけあるかァ! どこ製のビー玉だよ、量販店じゃ売ってねえぞ絶対!」
「あうう……」
 ひっ叩かれた頭を少女は涙目で押さえている。
「た、確かにビー玉なんて集めてないし、呼んでも願い事はあんまり叶えてくれないけど、あれはホントに龍なんだよ。作り物じゃないよ。すごかったでしょ?」
「すごいもなにもショックがデカすぎてどうにも反応ができねえ……」
 ただでさえ夏臣は生気のない女の子を見て自律神経を失調したばかりである。
 そこに銀の龍の背に乗って女の子と高度百三十余メートルから直滑降して失神もすれば感情回線のひとつやふたつ焼ききれる。
 いま、冷静に振舞っているのは半ばヤケクソであった。
 ついさっきまでは仲間はずれにされたイベントのことを考えていたのだ。弁当片手に幽霊やら前世やら怨念やらを信じるか信じないかの境界線の上に立っていたのだ。
 それがどうだ?
 ヘンな女にヘンな龍。それが夏臣の世界を木っ端微塵にぶち壊してしまった。いまこの瞬間も、リアルな夢を見ているよう。
 夏臣は自分の穏やかな世界に荒々しく入門してきた少女をきっと睨んだ。
「こうなったら覚悟してもらうぜ」
 その不穏な声音にびくっと少女が肩を震わせた。顔を斜め前で固定し、人気のない対岸に無力な視線が飛んでいる。
「な、なに? なにする気? い、言っとくけどわたし強いからね? 闇雲パンチには自信あるよ?」
「はあ? なに言ってんだ。あの龍のこと、おまえのこと、説明してもらわなくっちゃ今夜は眠れねえよ。やっぱりおまえもあれも俺の夢なのかもしれないけど、それならそれで話のネタになるくらいのリアリティある説明をくれよ」
「夢って君ねえ……急に逃げたと思ったら今度は人を幻扱いして、なんて失礼な人なんだろ」
 夏臣の不遜っぷりに少女は引きつった笑いを浮かべていた。それでも愉快そうではあったけれど。
「いいよ。眼が覚めなかったらなんにも言わないで帰ろうと思ってたけど、気合一発、覚醒した君にご褒美だ」
 ざばあと水から引き抜かれた細い足は、玉の雫をきらきら輝かせて少女を飾る。
 夏臣は一瞬なにもかも忘れて見惚れてしまった。
 ちりん。
 首の鈴を鳴らしたかと思うと、今度はくんくんと鼻をひくつかせ、少女は迷いない足つきでゆるい傾斜になった芝生の上に腰を下ろした。またちりんと鈴を鳴らし、正確に夏臣のいる方へ向かってちょいちょいと手を招く。
 ははあ。夏臣はようやく合点がいった。
 視覚のないものは他の五感が発達していると聞く。
 少女は首の鈴の音と、きっと犬にも負けない嗅覚で周囲を把握しているのだ。
 草のカーペットに座ると、じんわりと地熱が伝わってきて暖かかった。ずぶぬれになったり高空に連れ去られたりして心臓をいじめたため、夏臣の体温は下がっていた。もちろん肝も冷えていた。十分すぎるほどにだ。
 少女は膝を抱えて瞼を閉じた。
 かと思うとパチッと開いた。夏臣が身構えて耳を傾けると、
「ねえ、君の名前ってなんだっけ?」
 スパァ――ン、と再びチョップが炸裂した。
「い――――ったいったら! パンパンパンパン叩かないでよ、バカになったらどーすんの!」
「もうバカだろ! ああもう、なんなんだおまえ、名前なんかどうでもいいんだよ今は!」
「よくない!」
 頬を赤く染めた少女は、そうして見ると幽霊にも人形にも見えなかった。黙っていれば儚げな美人なのに、ムキになって歯をむき出すと、たいていの男ならこんな娘が欲しいなあと思わせるかわいらしさが出てくる。
 けれど夏臣はどうしてか気づいてくれない。自分がもう何一つ彼女ことを恐れていないということを。
「言葉には言霊があるんだから! 名前がなかったらね、ちゃんとこの世にいられないの、消えちゃうの!」
「そんなふわふわ人間が消えてたら孤立死なんかこの世から無くなるんだよ、名前なんかなくったって生きていけるっての! バカバカしい、くだらなくってアクビが出るわ!」
 べつに名前制度に文句なんてなかった。なのにどうしてか夏臣は少女の言葉に逆らいたくなって仕方が無かった。
 ああ言えばこう言う、いまなら何を言われても、太陽が東から昇って西へ沈むことだって反論できるかもしれない。
「このわからず屋……!」
 ぷるぷると少女は小刻みに震えて、いまやその紺碧の瞳は涙で濡れていた。
 夏臣はちょっとギョッとした。
「い、いやその」
「あのね、この国は元々言霊の幸ふ国、善いことを言うと善いことが起こって、悪いことを言うと悪いことが起こる国なの!」
 言われている、とされている、そんな言葉で締めくくらずに、少女は完全に言い切った。
 どうだ、とばかりにふんと鼻を鳴らす。
 どうだもなにもない。
 その自信ありげな態度に再びむくむくと夏臣の天邪鬼が膨れ上がった。
「じゃあ俺を幸せにしてみやがれってんだよ! いくぞ、ハイ俺は幸せです――――っ!」
 ざあざあと、川のせせらぎ。
 みんみん、とセミの鳴き声。
 ぎりぎりと歯を噛み締める少女と、にやにやと笑う夏臣。
「どうだ、空から札束は降って来ないし、見ろよあのヘリ、皇護軍のだ。まだ北の冷戦は終わってねえって証拠だ」
「このバカっ!」
「な、なんだと!」
「俺なんて一人称じゃ曖昧すぎて意味ないんだよ! ちゃんと自分の名前で言わなきゃダメ!」
 鼻息がかかりそうな距離で喚かれたので夏臣はのけぞった。舌打ちをひとつして、
「わかったよ、まったく。竜宮夏臣は幸せです――――あっ」
 ぎりぎりと歯を噛み締める夏臣と、にやにやと笑う少女。
 少女はふっと心が滲むような笑顔になって、手を差し出した。
「わたしは幽。歌方幽。やっと名乗ってくれたね」
 してやられた。
 夏臣は顔が熱くなるのを感じた。いったいどこからが素面で、どこまでが罠だったのだろう。
 少女の碧い瞳からは美しさしか感じられず、そこでは善も悪も強い光でかき消されてしまうのだ。
 震えないように一度ぎゅっと握ってから、自分の腰の方に差し出された手を夏臣は握って位置を直した。
 痛いくらいに冷たいけれど、気持ちいい。真夏のアイスみたいな手の平だった。
「夏臣なんて偉そうな名前」
「そういうおまえは、」
 やっぱり幽霊みたいじゃないか、と言おうとして、夏臣はやめた。
 べつに言霊なんて信じたわけじゃない。ただ、何を言っても恥の上塗りというか、自分がムキになっていると思われるだけだろうと思っただけ。
 だからこう言った。
「昔うちにいた猫と同じ名前だ」
 猫の名前と聞いて、幽は猫のように笑う。そんな幽が夏臣には眩しい。
 これが二人の馴れ初めだが、ここで終わっていれば実に幸せな出会いだったと言えるだろう。
 災いはすぐにやってきた。

     



「ねえ、なにから聞きたい?」
 改めてそう聞かれると夏臣は言葉に詰まってしまう。けれどあんなに勢いこんで喚き散らしたのだから時間をくれと言っては格好がつかない。ちょっと考えてから、
「あれは……生き物なのか?」
「シーラカンスとかの末裔とか恐竜の生き残りってこと?」
「そう」
「違う違う」
 幽は手のひらを振って見せた。
「龍はたしかに生きてるけど、爬虫類とか両生類とかじゃないよ」
「じゃ、なんだよ」
「しいていうなら白血球?」
 夏臣の顎がかくんと落ちた。
「は?」
「え?」
「え、じゃねーよ。話が飛びすぎだろ。白血球ってあれか、血管の中の……」
 記憶の底から、うろ覚えの単語に赤血球やら血小板やらがくっついて浮かび上がってきた。
 幽は手の平をあわせて嬉しそうに頷く。
「そうそう。その白血球。言うなら、龍脈っていう血管の中を綺麗にする仕事をしてくれてるのね、あの子たちは」
「リューミャク」
「小学校の頃、クラスで風水とか詳しい子いなかった? 大地には龍脈っていう気の流れがあってね、龍は普段はそこにいるの。さっきみたいにこっちに呼び出すことって、あんまりしないんだけど……ついてきてる?」
「ギリギリ」
「よかった。なんかわたしって話下手って言われるからさあ。そんなことないよね?」
 幽はじろじろと夏臣に見られていることに気づかずに得意気である。
「龍のことは、まあ、いいや。それで、おまえはなんでそんなこと知ってるんだ?」
 夏臣は喋りながら自分の考えを組み立ててみる。
 たしか先週、なにかの番組でやっていた。イタコと脳科学の教授の討論会。
 夏臣はものすごい剣幕で怒鳴りあう二人の専門家が口走る用語を聞き流していただけだったが、ふうんと思って耳に残ったセリフがあった。
 いわく、イタコは立派な職業である。昔は目の見えない女の人は神職に就くしきたりだった。科学に彼女たちの働く権利を奪う資格はない、とかなんとか。
 幽も盲目である。
「なあ、おまえって」
 幽は夏臣の言葉を聞いていなかった。焦点の合わない目を虚空へ向けて、くんくんとなにかを嗅いでいた。そして眉をひそめて、
「やば」
 と言った。そのとき、
「何をしている」
 二人が振り向くと、和服を着た男が立っていた。
 白髪まじりの長い髪に、鋭い眼光。頬には斜めに一筋の傷が走っている。退役した名家の軍人、といった風貌だ。突然の来訪者に夏臣は身体を強張らせた。
 よく今時の若者を見つけては絡んでくる軍人がいる。この和服の男もそういったタイプだろう。
 夏臣は立ち上がって、男の前に立ちはだかった。
「なんだよおっさん、俺たちなんにも迷惑はかけてないだろ」
 声の代わりに足が震えていた。
 見れば男は決して優男ではなかった。背は夏臣よりも頭ひとつ高く、和服の袂から覗く胸板には引き締まった筋肉が覗いている。取っ組み合いになれば勝負にもならないだろう。
 柄ではないことはわかっていた。
 それでも、夏臣のうしろには目の見えない女の子がいたのだ。
「夏臣、あのさ」
 気まずそうな幽に夏臣は小声でささやき返す。
「いいから、俺が時間稼ぐからおまえその間に逃げろ。人通りの多いところまでいけば大丈夫」
「いや、ちがくて」
「いちにのさん、で走れよ。いいか、いち、にの」
「その人は――――」





「さんっ!」

「父さんなの!」





 勢いよく踏み出した一歩が草を滑り、夏臣は盛大にスッ転んだ。
 和服の男が冷めた目で大の字に伸びた夏臣を見て、汚らしいものに触られたように顔をしかめた。
 夏臣は顎をあげて、逆さになった幽を見上げた。
「へ?」
 幽は手を組んで、もじもじしている。
「えっと……たぶん、氷菓に乗ってるところを見て……きたの?」
 最後は父への問いかけ。和服の男はゆっくりと頷いた。
 つまり、あれか。
 自分はいま、ものすごく恥ずかしい勘違いをしてしまったのか。
 ほっと一息。
 あほらしい。
 起き上がってパンパンとズボンについた草と虫を払うと、夏臣は真っ赤になった顔を二人から背けた。
「い、いきなり呼びかけられたもんだから……」
「構わん。気にしていない」
 偏見なく見聞きすれば、幽の父の声は穏やかで激昂とは程遠い。子どもを叱るときに怒鳴るのではなく、正座して静かに正しきを説き聞かせるタイプに思えた。
 消え去りたいほどの恥ずかしさに襲われる。どうしていつも自分はこうなのだ。カッとなると見境がなくなってわけもわからなくなってしまう。昔からそうだ。治したくても治せない鬱陶しいこの気質。
 さすがにこのザマでは幽も呆れ返ったろう。めんどうくさいやつと思われたに違いない。
 せっかく珍しく人と話ができたというのに、なにもかも台無しだ。
 夏臣は素直に男に道を譲った。父親が迎えに来たのだ。聞きたいことはまだあったが、空気を読まずに質問攻めにするわけにもいかない。
 和服の男は幽に歩み寄っていく。幽はぼうっとしてあらぬ方を向いていた。照れているにしては、無機質な無表情だった。
 すっと男が幽の頬を撫でた。
 幽は逃げるように顔を背ける。
 男の手は一瞬、空中で置き所なく彷徨った。開かれた指がゆっくりと折り曲げられる。
 あっという暇さえなかった。
 ブンッと男の振るった拳は鈍い音を立てて、目を瞑った幽の横顔を思い切り殴り飛ばした。ぴっと飛んできた雫を夏臣が拭うと、手の甲が赤くなっていた。
 カッとなった。
「てめ、なにしやが」
 今度は一歩踏み出すことさえできなかった。
 気がついたときには仰向けに倒れていた。
 口からどくどくと血が涌いてきて口の端から零れ落ちる。なにが起こったのかよくわからないくせに、身体が震えて立ち上がれなかった。
 丸い空に和服の男が覆いかぶさってきた。皿のような目玉に夏臣の顔が映っている。犬歯が一本、根元から折れているのが見えた。
「今日貴様が見たものはすべて夢幻だ。貴様は暑さにやられて蜃気楼を見たのだ。誰に言っても信じてはもらえないことを覚えていてどうする。それは夢と変わらない。私もこれも夢だったのだ。何もかも忘れて眠ってしまえ。それがおまえのためでもある」
 まるで考えていたセリフを読み上げたかのような抑揚のない声。
 言い終わると、男はおや、と自分の拳を見た。
 拳に歯が一本突き刺さっている。あまりじろじろ見たことはないが、それは自分の歯だと夏臣は直感でわかった。確か歯というものは牛乳かなにかに沈めてすぐ歯医者へもって行けばくっつけてくれるという。
 いまならまだ間に合うかもしれない。ここに鏡がなくてよかった。こんなつまらないことで永久歯を一本なくすなんて夏臣には耐えられない。
 男は拳に刺さった歯をつまみぬくと、吸殻でも捨てるように気軽に川へ向かってその歯を放り投げた。
 ぽちゃん、と。
 軽くて小さいものが、水に落ちた音。
 そのとき夏臣の中で何かが壊れた。
 夏臣は身体を丸め、頭を抱え、かき氷でも食べたあとのような呻き声を高く長く喉の奥で鳴らし、嗚咽した。
 涙を流して震え続ける。赤ん坊のように。
 和服の男は歯茎を見せて、笑いとも怒りともつかない顔になった。
「くだらん……」
 嫌悪のあまり逃げるようにして、男は背を向けて気絶した娘の下へ歩み寄ろうとする。
 だが、何かが足を掴んでいた。振り向くと、ガタガタ震えていたガキが両腕でしっかりと自分の足を掴んでいる。
 ガキの顔は恐怖で引きつり、まるで相手と目を合わせたら殺されるとばかりに、揺れる瞳で砂利を見つめている。はあはあと息を荒くさせた同性にまとわりつかれている不快感が男の背筋を電撃のように貫いた。思わず胃の中身をまるごと吐き戻しそうになる。
 なんて気持ちの悪い生き物なのだろう。力もなく覚悟もないくせに、ただ負けるときを引き伸ばすためにしがみつく。
「放せ、貴様、放さんかっ!」
 頭といわず背中といわず蹴りつける。だがガキは放れようとしない。それどころかますます強くしがみついてくる。男の全身が総毛立った。
「この毒虫がッ!」
 全力で靴の爪先を腹に叩き込むと、ガキはぎゅっとカエルの潰れるときのような声をあげて、両手をやっと開いた。
 それきり動かなくなったガキを気味悪そうに振り返りながら、男はぐったりした娘の身体を背負う。
 大切な商売道具には、まだ死なれるわけにはいかないのだ。
 男は二、三歩歩いてから、娘を背中から降ろした。心臓に胸を当てて息を整えると、娘の長い髪に目を落とした。
 そして束になった美しい黒い髪を引きずって、夕暮れの町の中に消えていった。







 夏臣は一人きり、川辺にうずくまったまま、せせらぎを聴いていた。
 指を口の中に突っ込むと、ぽっかりと歯の連結が途絶えている箇所があるのがわかった。
 後悔と焦りがどっと襲ってくる。血の味が口いっぱいに満ちていて、嫌気がさした。
 もしこのとき、夏臣が歯を欠くことがなければ、血の恐怖に苛まれなければ、彼は今日のことをただの白昼夢か妄想として自分の心に決着をつけてしまっていたかもしれない。幽の父親の言うとおりに。
 夏臣は名前を呼ばれたことがほとんどなかった。外では名字で呼ばれるし、それも事務的なものばかり。
 家の中では父には「おい」母には「ねえ」。たまに電話などで親戚に兄のことを誉めそやすとき、母が「あれ」というと必ずそれはデキの悪い弟のことを言っているのだ。
 あれは上の子に似なかったから――――。
 邪馬都の人間の謙遜する精神、自分の息子もよそ様から見たらあれで済むもの。くそくらえだ。
 だから、なのか。
 少女の声が耳から離れなかった。
 鼓膜が自分の名を呼ぶ声に餓えているように、それは何度も何度も気が狂いそうになるほど繰り返された。
 鈴の鳴るような、澄んだあの声。




 夏臣――夏臣――夏臣――――――――




 そうだ。
 俺はそんなような、偉そうな名前だった。
 夏草を握り締め、せせらぎにまどろみながら。
 竜宮夏臣は自分の名前を思い出した。
 口の中は血だらけで、折れた歯は鋭く痛むし、一人で帰る道のりを思うと泣きそうになった。
 それでも忘れられない。
 なかったことにして、時間を飛ばすなんてできない。
 こんな気持ちを、夢だなんて思えるはずがなかったのだ。
 瞬きするたびに日が暮れていく。芝生を夕刻の風が渡っていく。
 夏臣はせせらぎを聴いている。

       

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