Neetel Inside ニートノベル
表紙

かすかなる風、ドラゴンの夏
06.ブレイキング

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 見鬼にもいろいろあり、彼岸を見通すもの、近い未来を見透かすもの、そして通じた視線から相手の瞳に魔を注ぐものといろいろある。総じて魔を操る見鬼は催眠術の真似事も可能である。なのでその日、夏臣と釘矢はお互いに催眠術をかけ合っていた。ゆくゆくは誰にかけるか、という目標が立てられており、三位に三島楓、二位に歌方幽、一位に波雲いずみの並びになっていたが、これは暗黙の了解で「ちょろさランキング」であった。口外しようものならぶち殺されるのは間違いないので、夏臣と釘矢はお互いの股間を握りしめあっているも同然であった。男の契約である。
 五円玉に糸をかけて、ゆさゆさ振ったり、お香を焚いてみたり、果ては座禅を組んで宇宙と同化してみたりもしたが、一向に真鍵釘矢は真鍵釘矢のまま、ビーカーのなかの水割りウィスキーをちびちびなめ続け、竜宮夏臣は竜宮夏臣のままアイスドールに左半身を冷やされ、右半身を男二人で換気もせずにたまった熱気に炙られていた。
 つまり退屈していた。
「俺の兄貴も目の色変わってたんすけど、なんかできたんすかね。オカルト的ななんか」
「知るかよ」釘矢は大あくびして伸びをし、身体中の骨をバキバキ鳴らしながら、
「俺やおまえ、波雲は一番一般人に近い見鬼だ……虹彩に変化が起こるのは異界にいるときだけで、あとは普通だからな。ま、一般に幽や三島みたいな弱視を伴った見鬼は力が強い。でもおまえの兄貴は視力は正常だったんだろ」
「ええ」
「じゃ、カラコンかなんか入れてたんだろ。あるいは、なにか見えてても気づかなかったバカだったとかよ」
「死人の悪口言うもんじゃないっすよ。や、べつに俺の兄貴だからいうわけじゃないすけど」
「いいんだよ。死んだらなにもできない。じゃなきゃなんでがんばってわざわざ毎朝起きて、磨きたくもねえ歯磨いて顔も洗って糞垂れて、生きていたりするんだよ? ふざけろ」
 釘矢は身体をあちこちにねじ曲げていたが、いてて、と身を折ってうめいた。夏臣はため息をつく。
「無理しちゃだめっすよ。まだ治ってないんでしょ?」
「うるせー」
「なんでみんなそんな簡単に無理したりするんですかね。俺にはよくわかんないっすわ」
「おまえは魂が女なんだよ」
「それ、女性差別でリンチされますよ、そーゆー団体のおばさんとかに」
「ふん……いててて、あーいて、くそ、おまえが催眠術読本とかゆーわけわからん本を持ってきたからこんな目に。あいってー」
「なんだかなあ」
「本格的にやべーわ。また筋伸びたかも。ちょっと保健室いってくる」
「そんなこと言って、保険医の小清水からかいにいくんでしょ。新卒いじめるのそんなに楽しい?」
 聞いたときにはもう釘矢の姿はなかった。開け放たれたままの体育倉庫の戸から赤い空が四角く見える。夏臣は重い腰をあげて、戸を閉めに立った。そこでばったりと幽に出くわした。
「お、歌方」
「……や」
 いつもは寝顔のように静かな幽の顔が、今日は少しだけ強ばっていた。幽は跳び箱に近づくと、その中に入って自分で最上段を閉じた。幽はだいたい寝るときはそうやって寝る。異界への門は原則的に丑三つ時にしか開けてはいけないので、夏臣たちジョッキー四人衆はおもに放課後から日付が変わるまでの間に寝る。寺や教会よりも規則正しくてかえって不健康である。だが誰に文句を言えることでもなかった。しいていえば神様にだが、野郎は有史以来シカトを決め込んだままだ。
 夏臣はなんとなく流れで跳び箱の上に腰掛けた。座ってから幽がでれないことに思い当たったが、まあそれもおもしろいかとそのままでいた。見えずとも圧迫感を感じるのか、幽が下からどんどん叩いてきたが無視した。放っておいたら、うなり声が響いてきた。犬か。
「なにしてるのさ。出してよ。このろくでなし!」
 べつに真実なので異論はない。夏臣はそのまま、トイレって言われたときに信じるか無視するかを虚空に尋ね続けた。空気中の塵によると無視するのがよいという。いい根性した塵である。そんなくだらない妄想をしていると、
「なにが目的? カネ? カラダ?」と幽が剣呑な調子で聞いてきた。
「要求を聞こう」
「わるいな、実は愉快犯なんだ。そのまま生き埋めになってろ」
 うがー! と跳び箱がひとしきり暴れたが夏臣は両足で最上段を押さえ込んで封じた。ここまできたら意地である。だが、願ってもない幽に対する優位である。このチャンスをむげにすることはない。いま自分はなにを幽に望むだろう、道徳と正義の許す範囲で。
 答えはすぐに決まった。
「文化祭さ、おまえヒマ?」
 跳び箱が電池を切ったように沈黙した。夏臣はよほど幽が穴を掘って逃げ出したのではないかと疑ったが、中にまだいるものとしてしゃべり続けた。
「どうせヒマだろ。俺が一緒に回ってやるよ」
「文化祭なんて楽しくない」
「なんでだよ。去年はつまんなかったのか?」
「知らない。うるさい。いかないったらいかない」
「ひきこもりかよ。じゃあずっとそこにいろ。せっかく誘ったのに」
「だって」幽はすねたように言った。「見えないんだから」
 夏臣はハッとしたがごり押しでなんとかすることにした。
「見えるもんが全部じゃねーだろ。写真部の展示にいくのはやめとこう、ってぐらいだろ、気をつけるこたァ」
「そーゆー問題かなァ……」
 幽の語尾が濁ってきた。戦況は夏臣に有利である。
「いいからいこうぜ、な、約束な」
 答えは意外に素直だった。
「……うん」



 プッシュ・プッシュ・ロール。プッシュ・プッシュ・ロール。
 幽は最近これに凝っている。龍の飛び方のひとつで、左右にある龍孔からの圧縮空気で左右への素早いスライドを二回繰り返し、その後緩やかな噴出で龍体を回転させる。もちろん竜宮夏臣には三半規管というものがあるので、こういううっかり子供を乗せたらトラウマになりそうな機動をやられるとタイヘン気分を害する。だが夏臣も、これが来るべき鎮魂の時である嵐を乗り切るための訓練であることを知っているから、我慢もするし弱音も吐かない。しかしどうも、今日の幽はPPRを頻繁に使いすぎている。まるで浮かれているようだ。おかげで夏臣はさっきから波雲いずみの駆る龍につながった風船を割り損ねている。だが大したことではない。今晩、夏臣たちの風船はひとつも破られてはいない。
 歌方幽が盲目でありながら敵の攻撃をかわすためには、相手の殺気を察知するほかにない。夏臣が弓矢で牽制したり、声をかけたりすることもあるが、それは二次的な代替策にすぎない。極端な話、相手と夏臣が同時に弓を構えた時点で夏臣は幽を守れない。同じ弓なら届く速度はほぼ同一。牽制する矢が相手を射抜くなりかすめるなりしたころには幽の首はクモノスカシラよろしく吹っ飛んでいる。
 練習なので波雲いずみは殺すつもりで挑んできたりはしない。だが、それでも漏れる微弱な敵意を幽は察知する。見えない触角でも生えているのではないかと夏臣は疑っている。いつかアタマに触れる機会があったら探ってみたいところだ。チョップしたときはなかったが、あれはデコの真上で、やはり触角といえば額の左右と相場は決まっている。
 嵐とは呼べない小降りの雨をはね飛ばして、レインコートに包まれた照る照る坊主たちは龍に乗って疾駆する。心なしか雨が降っていると龍たちの気性が荒くなる。彼らの苦手なものは、ジャンクフード、火薬のにおい、そして雨。火薬のにおいを極端に嫌うために夏臣たち防人は古めかしい弓矢なんぞで戦う羽目になっている。ジャンクフードに関しては、以前真鍵釘矢が試しにポテトとチーズバーガーを食わせたところ吐き戻したことから実験結果が出ている。釘矢はチーズがまずかったのかもと反省していたが悔やむべきはそこではないと夏臣は思う。
「はあ……はあ……」
 やや後方で波雲いずみが息を荒らげていた。夏臣はちらりと振り返る。龍に乗るのは重労働だ。彼らは夏臣たちの精気を少しずつ吸い取っているのだ。いわば夏臣たち自身も走っているに等しい。周回を重ねればばててくるのは当然……歌方幽のような化け物級のスタミナ保持者でもない限りは。なにが楽しいのかこの女、毎朝ジョギングで町内を一周するのが日課らしく、夏臣の予想では肺活量は人以上タカ以下である。
 普通の女の子が、そんな化け物や男子の夏臣に追いつけるはずもない。波雲いずみはゆっくりと速度を落とし、異界の街に立ちこめる水煙のなかに消えていった……。



 それからPPRのほかに、蛇行飛行の振れ幅を増幅させたり縮小させたりして飛翔の感覚を幽は確かなものにしていき、螺旋上昇・下降や夏臣が「稲妻飛び」と名付けた、左に一瞬のフェイントを入れてから大きく右上方へロールしながら反転飛翔する細かい技、そして商店街を通り抜ける直線でたわめた胴体を弾丸のように射出する急加速で、その晩の練習にケリをつけた。絶好調だった。龍を降りたときにかすかにハミングしていたのを夏臣は聞き逃さなかった。伊達に防人をやってはいない、相棒のことは外側だけなら探知できるようになっていた。いつかは、その心も。
 視界の端で、波雲いずみが龍から降りていないことには気がついていた。だがあえて無視していた。釘矢となにか言い争う声がしたが明瞭には聞こえなかった。波雲いずみは釘矢の怒声を振り切って、再び異界の夜へと消えた。龍に乗って。
 夏臣たち三人は終電すぎのホームに取り残された。
 幽は何事もなかったかのように守護外套の水気を払っている。夏臣は釘矢のそばに寄ってわけもなく小声で聞いた。
「どうしたんすか、喧嘩? 珍しいすね、代表が」
「さあな。あいつにも思うところがあるんだろ。好きにさせてやろうぜ」
「でも」と幽が寝顔のまま言った。
「いま終人がきたらまずいよ」
「さきなし?」
 夏臣には新出単語だった。
「ああ、竜宮には教えてなかったっけか。嵐の日にやってくる龍騎手だよ」
「えっ……てことは俺らが練習してるのって、その終人相手を想定したものなんすか?」
「そうだよ。なんだと思ってた? 終人は元管理官だったり、野良の見鬼が異界に紛れ込んで龍を手懐けたりした連中のことだ。やつらは自分だけの龍を一匹飼ってる。連中がここのジョッキーに勝てば、この土地の新たな管理官はやつらになり、波雲は……もっとも負ければの話だがな」
「…………必死になるわけだ」
「それで勝てればいいけどな」
 駅のホームに、どこか遠くから獣の叫びが木霊した……。


 ○


 翌日、日曜。学校は当然お休みだ。なのに夏臣は朝早くに目が覚めてしまって、二度寝することもできず、渋々起きてアタマをぼりぼりひっかき、信じられないものを目撃した。
 携帯のLEDが光っている。
 着信だ。
 夏臣は仰天して電話に出た。よほど天国の兄貴からのいたずら電話かと思ったが、聞こえてきたのは女の子の声だった。
「竜宮くんですか? 波雲です」
「ああ、どうも」かしこまって答えてから、それでは格好がつかないことに思い当たった。
「なんだよ? 寝てたんだけど」
「いますぐうちに来てください」
「は?」
「ご飯はだします」
「あの、そういうことじゃ……ってもしもし? もしもし?」
 夏臣は携帯を閉じて、ぼすっと枕に顔を埋めた。
「なんなんだよ、ったく」
 そう言いながらまんざらでもない夏臣は、五分で支度してチャリンコをかっ飛ばして朝靄のなかを突っ切っていった。

     



 病院の壁みたいに白い塀にチャリンコを立てかけさせて、夏臣は観音開きの門を潜って波雲邸に足を踏み入れた。丁寧に整えられた前庭、その奥に寝ている虎みたいに伸びている武家屋敷は完全に極道の親分の住処にしか見えない。実際に似たようなものである。
 格子状の木戸から勝手に入った。鍵はかかっていなかった。中はひんやりしていて、人気がない。
「おーい、来たぞー……」
 返事もない。
 来る道すがらに買ってきたアイスを溶かすのも勿体無いので、人の姿を探して廊下を歩きながら、カップを開けた。真っ黒いチョコレートにきらきらした星が散りばめられたアイスバーだ。アタリつきではない健全なシロモノ。波雲邸には確か使用人がいるはずだ。みんなで食べてもらおうと思った。我ながら気が利いている。
 すっかり迷った挙句に、夏臣はみんながいる座敷にぶち当たった。
 波雲いずみ、三島楓、歌方幽が食卓机を囲んで足を崩して座っていた。波雲は浅葱色の着物を着ており、ほかの二人は私服だった。一瞬、視線の集中砲火を喰らって、夏臣は気後れした。おう、とああ、の中間の挨拶をして、そろそろと隅っこの方に座った。積んである座布団から一枚引っ張り出して座り手の甲でレジ袋に入ったアイスを押し出した。ぷっと三島楓が吹き出した。
「誰かと思った。竜宮くんだったんだぁ」今日も楓の眼鏡はぐるぐるだ。
「アイス買ってきてくれたの? ありがとー。いただくね」
「うん」
 楓が封を開けて、それを幽と波雲に配った。波雲いずみは外国から運ばれてきた珍品を見るような眼でアイスバーを見つめ、幽は猫が受け皿に入ったミルクをなめるように慎ましくアイスを溶かし始めた。楓はニコニコして幽の指に溶けたアイスが零れたりするとティッシュで拭いてやる。夏臣はなんとなく三人と自分の間に透明な膜が張っているような気がした。
「きょふはふはっへほはっはほは、ほはへほはひはへん」
「なんて?」と夏臣は聞き返した。
 波雲は口からアイスバーを抜いた。
「今日集まってもらったのは他でもありません。ちょっとした雑事がありまして、人手が必要になったのです」
「へえ」
「なにか不満でも?」
 急なアポとか、と夏臣は言おうとして、やめ、代わりに言った。
「使用人とかじゃだめなのか? おまえんちって確か、そーゆー人たちがいるって……」
 夏臣のセリフが進んでいくうちに、座敷の雰囲気が暗色方面にグラデーションしていった。
 波雲いずみはアイスバーの裏に答えが書いてあるかのように、棒をひっくり返して眺め、夏臣の眼を見なかった。
「全員に暇をもらわれました」
「へ?」
「つまり、退職されたということです。べつに構いません。役立たずばかりでしたし。そんなに先代がよかったのなら、あの人が亡くなったときに墓の中までくっついていけばよかったのです……」
 セリフの烈しさとは裏腹に、波雲の声は沈痛だった。夏臣はすっと二本目のアイスをテーブルに滑らせた。波雲は素早くその封を破いてペロペロやり始めた。気に入ったらしい。
「なので、あなた方に手伝ってほしいのです。まんざら、三島先輩には関わりのないことでもありませんし」
 そういえば、と夏臣は幽の黒髪を梳っている楓を見た。こいつも先輩か。誰がいくつでなんなんだか、もうちょっと夏臣にも把握しきれなくなってきた。でも、大半の人間が気にしていないので、べつにいいか、とも思う。
「で、代表。俺らは何をすればいいわけ。雨漏りの修繕? 俺できないから帰るよ」
「努力しようという気持ちがまるで感じられないセリフですね。なんでもそつなくこなせるあなたらしい」
 一瞬、波雲が誰のことを言っているのかわからなかった。数拍置いて、ようやくいまのが自分を指した言葉だと気づいて、夏臣は仰天した。
「俺が? そつない? 代表、その眼鏡のレンズ砕けてるぞ」
 波雲が浴衣の袖できゅっきゅと眼鏡を拭いて、かけ直した。
「わかってないならいいです」
「いや、誤解されてるのは嫌なんだけど」
 幽がゴミ箱に向かって、ぷっと棒きれを吐き出した。
「いいじゃんべつに」カラァンといい音がして、棒はゴミ箱に入った。
「誤解のない関係なんて欺瞞だし? それより、仕事なんてさっさと終わらせて何か食べようよ。あたしソーメンがいい」
 歌方さんは安い子だねぇ、と楓が顔中を線にして笑った。波雲はじっと幽を見つめていた。そのままいった。
「実は、昨夜うちの土蔵に盗人が入ったのです」
「警察にいけよ」と反論した夏臣を波雲が視線で黙らせた。
「盗まれたのは、ほとんど価値のないものです。骨董品屋にでも持っていけば意外と稼げると思ったゴロツキの犯行でしょう」
 金持ちってやだねえ今時ゴロツキだってさ、と夏臣は楓に耳打ちした。楓はあいまいに笑った。
「いいですか、問題だったのは、虫の入った壷を割られたことだったのです。その壷には、波雲家が代々集めてきた妖虫が入っていたのです。それがすべて逃げ出してしまいました」
「自由になれて幸せだろうよ」
「街にでて繁殖でもしたらコトだよ」と楓が幽のアタマをヒザに乗せて言った。
「噛まれたりしたら一発で呪われちゃって、街のお医者さんじゃ治療できないし。ちゃんと捕まえないと」
「殺してもいいです」
「だめだめ!」
 楓が身を乗り出した。
「あの虫たち、文化祭で私たちのクラスの展示品にする予定だったんだから」
「初耳です」波雲が目を細めた。
「持ち主である私の許可は?」
「…………」
 楓が畳に三つ指を突いてへへぇーとアタマを下げた。
 体位を変えたときに楓のヒザからうたた寝していた幽がおっこちて、ゴンと音がした。波雲家の畳は結構カタい。幽は呻いたが誰も気にしなかった。
「ね、お願い、波雲さん。あの虫ってとても綺麗でしょ? 展示したら映えると思うんだ。ね?」
「まあ、ちゃんと管理してくれれば考えないことも……というか、あなた方の学級も文化祭に参加するんですか?」
 三島楓と歌方幽は正規の学生ではなく、表向きは神職に進むための盲学級、裏では呪術学級の生徒として通うスペシャルな学生である。いわば普通の授業をしている教室から渡り廊下一本渡るとホグワーツに出る感じ、と夏臣は思っている。
 楓はぶんぶんと顔が残像になるくらいに頷いた。
「するする! するに決まってるよ! だって高校生だよ? 青春だよ? ブルースプリングだよ!」三島楓はどこかで強くアタマを打ったか、とうとう終わらない残暑にシナプスをやられたのか、どっちかだ。
「あたしはめんどいからやめよーって言ったんだけどね」
 腕を組んで枕にし、とっぽいワンパク小僧みたいな格好で幽が言った。
「楓もみんなも参加したいっていうし。楽しいのかなァ。わかんないなー。家で寝てたいなー。父さんの世話もしなくっちゃなんないしさァ。やだなー。そうだ、やめよう、そうしよう」
 楓は幽を流れるように無視して、きらきらした視線を波雲に注いだ。保護欲をそそる光。
 波雲は片手を振ってそれを遮った。
「いいですよ、お貸ししましょう。勝手に捕まえて持ってってください。どの道、私には手が余る品です。呪い殺したい人も、いまは、いませんし」
 夏臣はぶるっと背筋に悪寒が走るのを感じた。だが、その言葉をよくよく吟味すれば、もう安心とも取れる。なので安心してゴロっと畳に寝そべった。テーブルの向こうで、幽が同じように伸びていた。
 波雲が立ち上がって、寝転がった夏臣の顔のそばに立った。裾から、つやつやしたくるぶしが覗いていた。
 ごっ。
 踵でアタマを蹴られて夏臣は悶絶した。瞑った視界に火花が散っている。おおおおお……と喉から怨霊のような声が出た。寝ている人の頭を蹴りつけるなど人にやる所業ではないと思った。音だけでなにがあったのかわかったのか、幽がけらけら笑った。
「さっさと虫取り網とカゴを持って、裏の林にいってください。昨夜のうちにいくつかのポイントに特殊な樹液を塗っておきました。地図は三島先輩に預けております。そのジーパンを裁断して短パン小僧にされたくなければ、とっとと働いてくるのです」
「おまえは?」
「寝ます」


 ○


「どうかしてるよな。人のアタマ蹴るかフツー? 俺はなんだ、ゴミか?」
「まあ人によってはそうかもしれないね」
 三島楓の爽やかな笑顔を夏臣はもう信じらんない。
 三人は林のなかにある獣道をずんずん進んでいった。
 夏臣は網とカゴを持ち、楓は地図と、虫たちの姿を描き記した巻物を携えている。盲目の幽はというと、楓のぬいぐるみとして立派に活躍している。幽は今日は白いワンピースを着ていて薄着だったが、もう玉の汗をかいて、悪夢にうなされているようなツラをしていた。楓は幽が心を開いてくれないと零していたが、この濃密なボディタッチからして、幽が身を引く理由もわからなくはない。
 林は入り組んだ構造をしていて、実は先頭をいく夏臣はもう迷っていた。だが、地図を携えた楓が「次は右」とか「段差になってるから気をつけて」とか指示を出してくれるので、夏臣は安心して進むことができる。
「樹液塗ったとか言ってたけど、それで虫が取れなかったらどうするよ。この林のなかを闇雲に探すのか? 俺いやだぜ、熱中症になっちゃうよ」
「ネッチュー症になっちゃうよー」
 幽がおどけて真似をした。ぎろっと夏臣が睨むとにやにや笑って楓の影に隠れた。視線には圧力があるらしいことを夏臣は信じざるを得ない。幽は、自分に向けられている視線を完全に把握するからだ。
「うーん、たぶんいると思うよ……あっ。あの木だ、樹液塗ってあるのって……」
 近づいてよく見ると、夏臣の頭四個分くらい上に、樹液が塗ってあり、そこには携帯電話みたいな虫が張りついていた。まさに妖虫だった。外殻が虹色なのだ。光の反射角が変化するたびに、プリズムが揺らめく。
「アヤしい虫だな。よし、とっ捕まえよう」
 夏臣は網を構えた。
 背中で幽がおざなりに「がんばれーまけるなーちからのーかぎりーいきてーやれー」と応援してくる。というか煽ってくる。夏臣は地面の土を蹴って幽に浴びせかけた。ひらり、っとワンピースをはためかせて幽は土を避ける。幽の得意そうなにやけ面を見たくなかったので、夏臣は虫に向き直った。
「竜宮くん、無我の境地だよ!」
 意味はわからないが楓の思いやりは伝わってきたので、夏臣はサムアップして応えた。
 網を振り上げた。
 振り上げ方がまずかった。網の先端が虫の外殻をこすり、虫は羽をはためかせて飛んでいってしまった。樹液に虫の這った跡だけが残った。
 うしろから襲い掛かる失意の気配を、夏臣はひたすら耐えた。



 それが朝一の出来事である。
 それからいくつかの樹液ポイントをめぐって何匹か回収し(虫はどれ一匹として同じカタチ、同じ鳴き声、同じ色をしているものはなかった)昼過ぎに屋敷に一旦戻り、探索で失ったエネルギーを波雲が作ったうな重(!)で補給し、嫌がる幽を引きずって楓と夏臣は林へと繰り出した。
 三島楓は弱視であり歌方幽は全盲であるが、見鬼はこの世ならざるものを見通す。ということは、幽は、木々は見えていないが虫だけは視えるということである。この事実に気づかれ、幽は意識を振り絞って、樹液に食いついていない虫をサーチするために、木登りまでさせられ、陽が沈みかけた頃、林から出てきたときには白いワンピースは無残にほつれまくっていた。おかげで虫カゴの中には一匹残らず妖虫が詰まっていたが、幽の機嫌は直らず、ふくれてそのまま座敷で寝た。
 楓はそんな幽にタオルケットをかけてやり、波雲は夕飯を片付け、夏臣はなんとなく手持ち無沙汰になって、食卓机の上の虫カゴを指で突いたりして、夜を迎えた。
「そういえば、土蔵あるんだっけ、このうち」
 楓は眠る幽の耳にかかった髪の毛をはずしてやりながら、
「うん。あ、そだ、展示にはこんなにいらないから、二ケースくらい戻してきてくれる?」
「いいけど……」
 夏臣はちらりと閉められた襖を振り返った。波雲は台所にいってしまって、ここにはいない。
「勝手に入っていいのか?」
「へいきだよ。なんか触ったり壊したりしなければ……いろいろあって面白いかもよ? いってきなよ。男の子でしょ?」
 そのセリフが決め手となった。夏臣は憤然として襖を開けて、虫カゴを揺さぶりながら部屋を出た。
 そうまで言うならいいだろう、男の子らしく、探検してやろうじゃないか。
 土蔵がどっちにあるのかわからないが、波雲か楓にそれを聞きに戻るのは探検ではないと思ったので、そのまま闇雲に薄暗い廊下を、電気をつけながら夏臣は歩いていった……。

     



 土蔵というので電気は通ってないのか、と壁をまさぐると案外あっさりと電灯のスイッチを見つけた。明かりがつくと土蔵のなかが舞い散る埃ごと見渡せるようになった。壷や巻物、小箱や農具なんかが雑然と積み重なっている。夏臣は適当な棚に虫かごを置いた。虫のつぶらな瞳と三秒間ほど見つめあったあと、戻ろうとして振り返った拍子に足下の巻物を踏んだ。足払いを食らったように重心を失った夏臣はものの見事に大きな漆塗りの箱に後頭部を強打した。このぐらいのことにはなれっこなので、いまさら巻物に当たりはしない。夏臣クラスになれば、その巻物をひもといて読んでみるくらいの気概はもてるようになる。
 この国の地図だった。ざぶとんみたいな北方は載っていない。敵国なのだから当たり前か、と夏臣は得心する。
 地図にはあちこちに名前とおぼしき字が記されていた。心林、七爪、御堂、紙島、波雲、志摩、
 霧、
「なにしてるんです?」
 波雲いずみが土蔵の入り口に立っていた。勝手に土蔵に入り込んで巻物を拝借していたにもかかわらず、波雲の眼に怒りの色はなかった。
「悪い、勝手に読んじまった」夏臣はするすると巻物を丸めて、ひょいと持ち上げた。波雲は肩をすくめる。
「かまいませんよ。べつに減るものでもありませんし。それは、各地を管理している管理官の家柄を分布させた地図なのです。もっとも何十年も前のものなので、いまはすっかり勢力図が変わってしまっていますが」
「道理で波雲の名前があったわけだな。新しいやつもあるのか?」
「仕入れようと思いましたが、やめました」
「ふうん。なんで?」
「もう私には必要ないからです」
 その言い方がどこか死人じみていたので、夏臣はいやな気持ちになった。
「……どういう意味だよ」
 波雲は夏臣の問いかけには答えずに、
「これ、今朝方うちに届いたものです」といって、丸められた用紙を広げて夏臣に見せた。梵字のようなものがつらつらと縦に書かれている。夏臣には読めない。
「なんて書いてあるんだ? 学がないから読めないぜ」
「終人からの宣戦布告状です。つまり、我々が毎晩毎晩稽古に励んでいた、その成果を発揮する機会がやってきたということです」
 夏臣の血が一瞬、ざわめいた。
「へえ。そりゃ願ってもない。とうとう殺し合いになっても致し方ない相手と走れるわけだ。歌方も喜ぶな」
「でしょうね。がんばってください」
 夏臣もバカじゃない。波雲がなにを言いたいのか、察してもらいたいのか、飲み込めた。
「おまえ、乗らないつもりか」
「怖いのです」
「あんなにがんばってたじゃないか」
「それはフリです。本当は、いやでいやで仕方がなかったのです」
「そうは見えなかったぞ」
「それは、あなたが私なんか見てなかったからです」
「なっ……」
 波雲いずみは手のひらを夏臣に差し出した。その手は、水仕事ひとつしたことがなさそうな滑らかな肌をしたその手は、ぶるぶると震えていた。武者震いではなさそうだった。
「私はもともと防人です。走るのは専門外なのです」
「部長の怪我なら、もう治りかけてるんじゃ、」
「いいえ、あの人ももう走ることはないのです」
「どういう意味だよ、さっきから、わけわかんねえぞ代表」
「真鍵釘矢と、この町に属する龍騎手たちから通達がきました。彼らはここを見捨てるそうです。私には駆人がいませんし、ほかに町を守る方もありませんし、つまり、あなたと歌方先輩だけがこの町に残った最後の龍騎手である、ということです。なにか明らかでないところがありましたか?」
 夏臣はしばらく茫然自失してその場に突っ立っていた。頭の中にゆっくりと事実が染み込んでいく音が聞こえるようだった。
 にやっと笑って、
「部長が見捨てた? 俺らを?」
「よくあることです。八百長です。その町で一番デキの悪い騎手だけ残して、ほかの騎手たちには別口の仕事を割り当てる。騎手たちは望まぬしてその才能ゆえにこの裏側の世界に引きずりこまれた者も少なくありません。八百長に乗るのは当然です」
「この仕事ってお国のためってやつじゃないのかよ」
「天秤は気まぐれなものです」
「なにいってんだかわかんねえよ、代表……」
 夏臣は手を伸ばした。指先が波雲の着物のすそをかすめた。
「もういやなのです」波雲は顔をそむけた。
「あなたの後を追いかけるのは……」
「どういうことだ? 俺のあと?」
「お兄さんしか見えてなくてわからなかったでしょうね。類稀なる二つの才能の下に、どれだけの凡才が朽ちていったか」
 夜気が入り込んでくる土蔵の入り口で、波雲いずみは夏臣を肩越しに振り返った。
「あなたはひどい人です。だからこそ、守れるでしょう」
「なにを?」
「たぶん、勝利と」寂しげに笑って、
「この街を」




 戻るに戻れず土蔵の整理をしているとき、お菓子の空き缶を取り落として中の紙片を散乱させてしまった。夏臣がひざまずいて一枚手に取ると、そこには豪華な装いでしかつめらしい文句が記されていたが、夏臣の眼には一文しか映らなかった。


 美津治市民弓道大会 波雲いずみ 三位入賞

       

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