Neetel Inside 文芸新都
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罰金ザ・デイ
激録!執着二十四時

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 執着について

 王、おう、久しぶりだな。しろいぬは死せど執着は死せず。ということでアレだぜ。いつものやつさ。

 えー、

 前提という言葉について執着している。さいきん。
 それは物語に関することであって、うーん。
 なにから話せばいいか正直わかっていない。このあいだ話した先入観についての考えも改めなきゃならなくなった。まずそこんところから片付けていこう。
 先入観は排せよというのが当事のぼくの主張であったわけだけれど、それってつまるところ理想論であって現実には不可能だよね。ぼくらは普段、雑念と茫洋と猥褻な衝動で頭のなかが一杯になっていて、虚心坦懐、真正面に物語と向き合うことなんて、修行を積んだお坊さんにだってそんなことできっこないだろうよ。
 とくに商業作品としての創作物は、価格と近似の価値をもたせるべく、エンターテインメント性を含ませねばならないという宿命から、鑑賞者は必然的にそういう姿勢をとらされているということもあるし。
 でもね、先入観を期待という言葉に置き換えると、とてつもなく肯定的な解釈ができるようになる。期待に応えることがエンターテインメントの本分だろう?
 おれを楽しませろ、という鑑賞者のわがままが消極的な期待の本質であり、この場合ひどく鑑賞者の立場が偉そうになってぼくはそういう姿勢が嫌いだったんだけど、結局のところ誰の心の内にもそういう鑑賞姿勢は備わっているわけであって、ぼくはそれを排することが出来そうにないだろうことを予感したからもう諦めたよ。
 おれをたのしませろ、からは逃れることができないしそれは当たり前の感情なんだ。ときどきオナニーのネタ探しに二、三時間もかけてしまうくそったれの自分の性欲みたいに切って切り離せない類のものだ。こうなったらそれをひっくるめて愛してやるしかない。性格の嫌な奴は最終的に仲間になるのだ。それは物語の法則だ。
 さきほど消極的な期待、という言い方をした。消極的が終局まで行き着くところがぼくが昔から憎み続け、これからも戦い続けなくてはならない悪の本質である。
 おれをたのしませてみろ、までは至って健全だ。少なくとも今ではそういう言葉遣いを自分に許せるようになった。しかしながら、当然いまだに許せない言葉遣いもある。
「なんだよこれつまんねーじゃねーか!」
 これだけはいただけない。創作物はふつうどんなものであっても、鑑賞して楽しめるようにできているのである。作者が鑑賞者の存在を意識していようと、いまいと、それが物語の体裁を保っている限り、面白くない物語などこの世に誕生しない。
 趣味に合わない物語は、もちろんある。しかしながらそういう類の物語にめぐりあった場合にも、この言葉を放るには適さない。いわんやどんな種類のどんな性質の物語にも適そうはずがない。
 物語に対する先入観もしくは期待とはつまるところある形式での我執の顕現であり、自分の見識の狭さをそのまま表しているものと知るのが良かろう。倫理道徳社会通念さえこの際余分なものとなる。世界は広いのだ。児ポ法反対。
 したがってこの世につまらない物語など存在しない。
 消極的な鑑賞姿勢は排すべきである。消極的な先入観しか抱けないのだとしたらなんとしてもその物語を積極進取の気概で己が心身に刻み込むべきである。積極的に期待せよ、この物語は面白そうだぞ、面白いに違いない。そうでなければおれがその面白さに気付けないだけである。そう思わせる要素が、すでに見え隠れしているようなきもする……。
 どうにか理由をつけて面白いと言ってあげてください。行間を読むという便利な言葉もあるじゃないか。

 閑話休題。

 さー、言い訳じみた訂正は済んだぞ! ここからは『前提』について。これは主に鑑賞者が物語と接するとき、その解読に役立つ便利機能のこと。デスクトップに貼り付けたショートカットアイコンばりに役に立つぞ(情弱めいた例)!
 知人にライトノベル愛好家がいる。毎週末足しげく本屋に通ってはライトノベルを買いあさり普段から目を近くして口元を緩めつつ物語に没頭している。正直言ってその姿は傍から見ると気持ち悪い。が、恥も外聞もなく内向的な世界を構築し続ける彼の雄姿は、ぼくの目に鮮やかに刻み付けられているわけである。
 彼の机上にほったらかされていた二、三冊の文庫を手にとってぱらぱらと読み流してみると、最近の傾向というか、なんだかおれの知ってるライトノベルとはずいぶん毛色が違うんだなあと年甲斐もなくしみじみしたわけであるが、そもそもぼくは杉井光が銀賞受賞してから数年間の電撃大賞受賞作品と杉井作品しかチェックしていなかったミーハーライトノベラーであるから、そんな偉そうなことが言える資格もなかったのである。嗚呼。
 流し読みながら読んでみた感想は、伝えるのに必要と思われる情報がずいぶん省略されてる気がするなってことと、しかしながらそういう手法なくしてはキャラなり世界設定なりの属性主張を偏重した夢の世界は表現できないんだろうなってこと。楽しみ方に型がありそうだなと。誰が読んでも楽しめるとは、言いづらいのかねと。ぼくもがんばったら楽しめるだろうけど、それには根気と忍耐と執念が要るに違いない。まるで新しく輸入されたどこぞの国の伝統的なスポーツを眺めてるみたいだった。
 スポーツにはルールがあって、ルール違反にはペナルティがある。面白くない(と感じてしまう)物語を見つけたときは、そのルールを理解できていない自分が、観客席でひとりぼっちに取り残されている状態であるよ。
 じゃ何か。物語には、なかんずく小説にはルールなぞいう縛りがあるのかや。
 あるとおもう。ルールというか、セオリーというか、常套手段というかそういう物語伝達についての不文律はあるんじゃないの? だってぼくらはどこかで読んだことのあるような物語でしか感動したことがないじゃないですか。どこかで読んだような物語に憧れてここまで来たんでしょう。
 特化洗練された物語媒体の一分野としてライトノベルがあるとしたら、ついていけない潮流の落伍者たちがぼくであったり大人たちであったり、いつまでたってもケータイ小説は高名な文学賞を受賞できやしないわけです。なるほどまさしく土俵が違うってこと。
 ライトノベルやケータイ小説の前提は、世代に特有の共通感覚だと、言い切るには材料が足りなすぎるのでそういううんこたれな先入観しかもちえないんですが。とにかく読んでみようと思って買ってはみた恋空は、積んでますしかもかなり下の階層に埋もれています。
 ライトノベルの前提を、一応はぼくは心得てますから、ライトノベルを楽しむことができます。
 前提は不文律であることが多く、不文律であるからにはあとから身につけることは難しい性質をしているのでしょう。
 その前提を心得ないひとには、まったく未知のスポーツか、言語か、ときたま知っている言葉が聞こえるような気がしてもやっぱり気のせいだったのかとか思ってしまうことがままあるんでしょうね。この物語はおれは知らない、といって後回しにしてしまうんでしょう。そいつはおれだ! 嗚呼。

 ここから余談。

 ここで、あらゆる前提を網羅する必要はないということを書くと、つまり自分が生きている間に目の当たりにする小説の内何割かは理解できないまま死んでしまうことになるということを暗に示すことになりますが、もうそればっかりは、仕方のないことと言うほかないんじゃないですか。
 われわれが個人毎にあたえられた時間には限りがあり、しかもそれを有効に使えるかどうかという話は、深く考えるまでもなく日常的に理解しているはずでしょう。
 つまりぼくらは、物語媒体としての小説を、選別する必要に迫られるわけです。それを、もう、しようのないこととして、受け入れることに決めました。おつかれさま。ごくろうさんです。疲れたよぼくは。だからすべてを愛するのさ。
 ぼくは、消極的な先入観を自覚して、この物語はつまらない、と思ってしまうことさえも受け入れる。しゃーない。
 でもね、本当の害悪はそこにはないと信じる。ならば悪は、声のデカイやつだ。いつも決まっている。やかましい声で負の印象を吹聴する目立ちたがり屋のことだ。
 ネタバレとはつまり物語の印象を吹聴する行為であって、それはたとえ、この映画面白かったよ、とかそういう肯定の印象さえもネタバレと同義なのだ。先入観はそういった肯定の印象からも形成されてゆく。だからぼくはこれまで、ヒット作とかランキング一位とか、そういう類のメジャーな作品のあれこれを、それだけの理由で嫌ってきたのだ。
 なるべくなら物語との出会いは、いつも突発的な偶然であってほしい。遅刻遅刻と慌てながら、曲がり角で転校生とごっつんこであってほしい。でもねー創作物には、流行とか、勢いとか、旬とかいった類のプラスの要因もあるしね、その奔流に呑まれながら同じ時間を過ごした人々と会話する、もしくは後々めぐり合うことってのも、また一興。それを知っていることは財産になるんですよね。
 みんな正解だって。心配すんな。もちろんおれだってそうだ。
 
 









































       

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