一週間くらい経った朝、目を覚まして時計を見ると始業時刻から五分ばかり過ぎていた。
もううんざりして悪魔の顔とか思い浮かんで、更には馬鹿にされているような気がして、とうとう決意を固めた。
私服で出社して辞表を出した。期日までは溜め込んだ有給休暇をたっぷり充てこんだ。リンゴ嫌いの後輩が、机を片付ける私をしょぼくれた目で見つめていた。
宅急便を手配して荷物を自宅に送る用意まで済ませる。その間、辺りは喧騒。鳴り止まぬ電話の着信音、せわしない接客応対、管理職の怒号と切羽詰った表情、表情……。仲の良かった同僚も受話器を肩に挟み、髪を振り乱して何らかの資料と格闘していた。自分だけ時間がゆっくり流れているようだった。この場では私の時計だけが狂っているんだろう。私だけが浮いていた。
息をひとつ吐いて、誰にも何も言わず、誰からも何も言われず、私はフロアをあとにした。
「センパイっ!」
エントランスで私を振り返らせたのは、例の後輩である。
「何をしてる。一番忙しいときに抜け出すなんて、お前の教育係は何を教えてるんだ」
「ぼくの指導担当はセンパイです」
「……もう先輩じゃないよ」
手を後頭部にやって手櫛を通すのは、私がとぼけているときのわざとらしい癖だ。すごい寝癖がついている。今気付いた。
「センパイ、ぼくはずっと今まで――」
「ああ、えーとな、私から言おうか。聞かせてくれ。一つだけ質問に答えてほしいんだ」
後輩は明らかに動揺していた。職場を飛び出した自分の行動にでもあろうし、自分の言わんとしていたことにでもあろう。
彼と疎遠になる前に、私のほうにも聞いておかねばならないことがあった。
「いいか、イエス、それかノーでいい。君は今までにリンゴを食べたことがあるか?」
「え……、ノー、です。けど……」
「ありがとう、それでいいよ」
彼は答えたあと、放心したように目を点にし、私の真意をはかりかねているようだった。やがて真冬のチワワの如くプルプル震えだしたかと思うと、二の腕に爪を立て、腹に爪を立て、仰け反って背に爪を立て、両手の熊手で落ち葉掃きでもするように、全身を掻きむしりだした。
「か、かゆい! また発作だッ。想像しただけなのにッ!」
それ以降はもう跳ね回ったり、転げ回ったり、ヒップホップダンスのパフォーマーみたいに騒がしく悶えだした。
――ああ、やっぱり迷惑な体質だなあ。
私は踵を返し、柿の木も立派に育つくらいの年月を過ごした社屋を後にする。もうこのころには、何の感傷も湧かなくなっていた。
「うあ、センパイッ。ぼ、ぼくはっ!」
どのみち君の願いは叶わないから、安心していいよ。
○
街の真ん中を流れる大きな川を眺める。きっちり整備されて美意識の欠片もないと思ったら、そのドブ川には大きな鯉が棲んでいた。ドポンドポンと、川面に浮かび上がっては、餌と間違えて流れてくる枯葉を飲み込んでいる。よく見ると、もぐもぐしてはすぐに吐き出していた。口に入るまで餌かどうかもわからないのだな。そして吐いた枯葉を追いかけて、再び飲み込む。以下繰り返し。正真正銘のアホだ。
「百人目にして只ひとりの『ノー』の返答だ。残念だったな。契約どおり貴様はこれから地獄に落ちるのだ」
悪魔はここぞとばかりに口を開いた。コイツの声を聞くのも久し振りだ。
「そう急くなよ。少し話をしようじゃないか」
「構わんが、貴様の行く末が変わることはないぞ」
「知ってるよ」
「して、なんだ」
「なんだと言われると困っちゃうんだけど。そうだなあ、――おまえ自身は、リンゴ食べたことあるの?」
「我は悪魔である。地上の食物など口に合わぬわ。むろん食ったことはない」
「へえそうか。勿体ないな、うまいのに」
「もう思い残すことはないであろう。潔く、死への覚悟を決めたらどうだ」
「リンゴ食ったことない奴なんて信じられないけど、――まあ悪魔のお前は別として、いるもんなんだな。びっくりだよ」
「この期に及んでまどろっこしい奴だ。話を逸らしおって。今更恐れをなしたか」
「おいおい早まるなよ。残念だけど、お前は私を殺せないぞ」
「なにを言っている。あの青年は貴様の質問に対し『ノー』と答えたのだ。不正解者がひとりでも出たときには、貴様は地獄に落ちる――」
「ああ、あいつは確かに『ノー』と言ったな。妙な体質の持ち主で、生まれつきリンゴが食べられないからだ。ウソでもなければ、本当に食べたこともない」
「であれば貴様は地獄に落ちるべきだな。地獄への扉を開くのには十秒とかからん。少し待っていろ、神にでも祈りを捧げているといい――」
「だから、お前はそれができないんだって」
「なにを言っている」
「なぜならば、私の質問に答えた誰ひとりとして不正解者は居ないからだ」
「ふざけおって。我がこの指をひとつ鳴らせば、貴様は異次元に放り込まれ地獄行きだ。そうすることはた易いが、それではもう気の治まらぬ。ふざけおって! 正解と反対の答えが不正解だ。ならば質問の正解が『イエス』ならば、反対の『ノー』は不正解であろう! どこに不満があるというのだっ」
「正解と逆の答えが不正解、良し。私は不正解者を出すと殺される――」
「地獄行きだッ!」
「……良し。そして、リンゴを食べたことがある、という答え『イエス』は不正解ではないから、私は地獄に落ちない。いいか?」
「悪魔の我をたぶらかそうとするとは見上げた根性。答えるまでもないわっ」
「そして、リンゴを食べたことがない『ノー』という答え。これは不正解で、私は地獄に落ちるべきだろうか」
「リンゴを食べたことがない。明らかに不正解だ!」
「リンゴを食べたことがない、どう考えても不正解にはならないんだよ。いいか、そもそもこの質問自体に正解や不正解という概念がない」
「なんだと?」
「小学生が習うような足し算や引き算には明確な正否がある。一足す一は二にしかならないし、それ以外の答えは全て不正解だ。一足す一は二ですか? 『ノー』という答えは不正解に他ならない。既に決められたものを問う場合も、正解と不正解の境界ははっきりしている。現在の日本の首都は東京ですか、と訊ねて『ノー』と答えれば不正解になる。しかしな、窓を閉めてくれませんか、私とダンスを踊ってくれませんか、これらの質問には『イエス』『ノー』どちらを答えても、正解とも不正解ともならない。わかるか? この世の誰にさえ、正誤の判断を下すことができないからだ。
お前に質問しよう。宇宙の起源を教えてくれませんか。恐竜絶滅の原因を知っていますか。邪馬台国は九州にあったと思いますか。坂本竜馬の暗殺犯を目撃したことはありますか。ホワイト・ルームを聴いても何の感銘も受けないのですか。四次元空間は存在すると思いますか。二十二世紀にはドラえもんが量産されていると思いますか。そもそもあなたの名前を教えてくれませんか。こんなやりかたで今まで何人もの命を奪ってきたんですか! 『イエス』『ノー』で答えろ。どうだ、くそあくまっ。不正解はどこにあるっ!」
悪魔は獣のような目を見開いて、じっと私を見つめている。
「貴様の言う通りであるな」
その表情が、ほんの僅かな変化だが、怒り心頭に発す前のものに戻った。
「我も未だに小さき世界の独王であったか。一つだけ答えてやろう。まあ我は悪魔であるから、貴様の先の質問の答えも『イエス』『ノー』ではない回答で全て揃えてある。しかし、一つだけしか答えぬ」
我は悪魔であるからな。変わらぬ低い声で、何故か威張る。
「我はこの問いかけを今までに何千人と試してきた。そしてその最中命を落とすようなことがあった者は、たったのひとりもおらぬ」
しゅるしゅると音がして、ランプの口が煙を吸い込んでいる。ゆっくりと体の下のほうから、悪魔の肉体は桃色の煙と化し、細かい線となって見えなくなってゆく。
「皆それぞれまことに強運の持ち主であった。ひいては皆、知恵者であったことよ。彼らと同じく、貴様もな。地上の経済は等価交換。それは我のねぐらとする魔界とて同じこと。我の望む答えをもたらした貴様には、我としても貴様の望むものをくれてやらねばなるまい……」
ひゅるひゅるスポンと煙を吸い込んだランプは、ゲップをしてフタを鳴らす。悪魔の姿かたち、冷たく低い声、私にしか感じられなかったそれらは全て、今まで夢を見ていたかのように消えてなくなった。……
○
三ヵ月後、貯蓄を貪る真性ニートの私はネットの海を漂っていた。宝くじの当選金の交換期限についての無駄知識を一つ取得して、ふと、悪魔と出会った頃のことを思い出した。
あの日私は、年末ジャンボが当たりますように願いを込めてランプを擦ったのだ。福の神ならぬ疫病神の出現でどさくさになってしまったが、ランプを拾う少し前、くじを買っていたのだ。思い出した。
たしかくじはコートに突っ込んで、そのまま――、当選番号を確認していないじゃないかっ!
もしかすると――、淡い思いを抱きつつクロゼットをまさぐる。三ヶ月前のまま、やや埃を被ったコートの右ポケットから、くじの入った封筒が出てきた。
――二億円は当たっていなかった。予想通りである。