涼宮ハルヒ的な憂鬱
第二話:彼女は憂鬱
「なはは、何その子、めっちゃおもろ」
姉貴が女の子らしからぬ大笑いする。ここはボロアパートだというのに、ご近所さんのこととか考えないのだろうか。大学生になったというのに、おそらく未だに自宅感覚なんだろうか。毎日飯をつくってくれる人が母から俺に変わったくらいの認識しかしていないに違いない。
姉貴がこんなにも大笑いしているのはなぜかと聞かれると、俺が今日一日の学校生活をそのまま話したからであった。詰まるところ言うと鈴村楓のことだ。
そりゃ、あんな自己紹介するやつ滅多にいないし、姉貴はハルヒも理解してるからウケるだろうとは思っていたが、それにしたって笑いすぎだ。なんだか鈴村に対しての笑いだけではなく、俺の不幸な境遇に対する笑いも含まれている気がして、いい気がしない。
「大学にもそんなやついないって。シュウジ、あんたランク下げてその高校行って正解だわ」
「なっ」
いまの言葉には確実に悪意がある。さすがにイラっときた。
「気分を害した。今夜はカップメン」
今夜は野菜炒めと炒飯と焼き魚でも軽くつくろうと思っていたが、急遽取りやめて高らかにカップメン宣言をする。要するに手抜きだ。俺も料理には慣れているが、それでもつくるのには手間と時間がかかる。今日は少しいろいろと疲れたし、栄養的には問題があるかもしれないが、簡単にできるカップメンに決定した。
机に座ったままの姉貴はしばらく呆然としていたが、俺が台所へと向かうとさすがに慌て出して、後を追ってくる。
「あぁ、ちょっと待ってシュウジ」
謝って来ても簡単には許してやるもんか。変な意地を持ちながら、いちおうの弁明は聞いてやろうと一度振り返ってみる。
「なんだ?」
「あー、バカにしたことは謝るからさ……」
やっぱりバカにしていたのか、この糞姉貴は。いくら自分は勉強が出来るからといって、料理の腕ではこちらが上なのだ。ちゃんとしたものが食いたければ俺の気分を取らなければいけないという上下関係を学んでもらわなければならない。
「気分が晴れないのでカップメン」
「あっー!」
二度目のカップメン宣言。姉貴の悲痛な叫びが聞こえてきたが、とりあえず無視して台所下に溜め込んでいるカップメンを漁る。ここには、俺がいない昼間でも姉貴が生きていけるように結構な量のカップメンが常備されている。
そのなかから俺はテキトーにカップヌードルを取り出し、念のため姉貴にたずねる。
「しょうゆとシーーフードどっちがいい?」
せめて味の選択くらいはさせてやろう。食にはそれなりにこだわりのある人だから。
「いやぁ、お姉ちゃんカップヌードルは大学で食べてきたから、せめてコレにしてくれない」
そう言うと姉貴は自ら台所下を慣れた手つきで漁り、そして取り出されたのは……。
U.F.O.
「ユッフォー」
頭の上に右手で花を咲かせ、アホなポーズを決められる。そして、ヘタなイントロまで歌い出した。もはや実の姉ながら行動が理解できない。
仕方ないので俺はシーフードのカップヌードルを選択して、二つ分のお湯を沸かすことにした。姉貴にとって晩飯インスタントはそれほど苦にならないようだった。ならばどうすれば俺は優位に立てるというのだろうか。
「大学でもインスタントばっか食ってるのか」
「まぁ最近はそんな感じ」
「そんな食生活してたら太るぞ」
「えー、じゃあシュウジくんがお弁当つくってよ」
「絶対やだ」
高校での授業が始まれば、自分の分をつくるついでに姉貴の分も用意できるかもしれないが、それでも弟のつくった弁当を抱えて大学にいく姉貴の姿はなんとなく嫌な気がした。
「なに、お姉ちゃんが太って子豚ちゃんになってもいいっていうの」
「別にお金あるんだからさ、学食とかで食えばいいじゃん。そっちの方が健康的だって」
「あー今日はサークルとかでいろいろと時間がなかったのよ。あ、ちなみに明日の晩は歓迎会があるから、私の分つくらなくていいわよ」
「はいはい。というか姉貴も人と関わったりするんだな」
なんだか意外だった。俺の知ってる姉貴は消極的な性格ではないが、交流の広い人でもなかったからだ。大学に入ってからというものずいぶんと活発的になったような気がする。
「あんたね、大学でボッチだと終わりよ。高校とかと比べものにならないから。講義の時、前の席で寝たフリして過ごす4年間とか絶対嫌だから。多少嫌なやつとも付き合わないといけないの」
高校とは比べものにならない、か。高校でもボッチは辛いと思うがな。
そういえば鈴村はどうやって3年間過ごすのだろうか。ハルヒをよくも知らずにあんな自己紹介して、どういう立場で過ごしていくんだろう。あー、なんで俺あいつのことばっか考えてるんだ。
まず心配すべきなのは自分の立場だろ?
○
どうしてこうなった。
鈴村とふたり、まだ慣れぬ校舎内を歩きながらしみじみとそう思う。横を歩く鈴村といえば相変わらずの無表情で、いったいなにを考えてるのわからない。それでもひとつ言えるのはこいつとの関わりが少なからず続くことになったということだ。
「視聴覚室ってどこかわかるか」
「たぶんこの階」
あ、そうですか。たぶんって言葉が引っかかったが、まだ時間には余裕もあるし、たぶん大丈夫だろう。
静かな校舎を鈴村とふたりで歩く。デートなんてもんじゃない。校内デートなんて架空の果てにあるもんだ。これは現実で、とんだ災難なのである。
○
新しい高校生活の新学期という場で、運が良いのか悪いのか。いや、たぶん悪い。俺と鈴村のふたりはクラス委員に任命された。
元はと言えば、だいたいあいつのせいだ。ほら、前の席のあいつ。
「男子のクラス委員に芝野くんを推薦しまーす」
クラス委員を決めようというHRの時間。俺の目の前で意気揚々と立ち上がり、俺を堂々と推薦したのは新谷だった。当然俺は「は!?」と一言抗議したが、クラスの連中は俺をクラス委員にするかどうかという議論よりも先に、俺の相方を決める議論を始めた。
「芝野がやるなら鈴村じゃね」
「だよな」
「先生、女子からは鈴村さんを推薦しまーす」
よくない流れだった。悪ノリに近い何かを感じた。
いきなり男子女子共々の推薦があってか、担任は少し慌てた様子だったが、一度落ち着いて黒板の前へチョークを持って立つ。
「という意見が出てるけど、君たちはどうする?」と個人の意見をたずねて来てくれた。さすがは先生。クラスの雰囲気だけで強制的に決められてたまるもんか。
「わたしは構いません」
直後、鈴村の承諾に湧き上がるクラス中の歓声。
おいおいマジかよと後ろを振り返ってみれば、いつもの喜怒哀楽のみえない表情がそこにあった。お前が引き受けたら俺が断り辛くなるじゃないか、わかってるのか、俺達は運命共同体なんだぞと視線で問いかけてみるも、まったくの無反応だ。
「芝野はどうする?」
担任からの個人意見の尊重も、いまや追い打ちと化した。
前の黒板にはいつのまにか「クラス委員:鈴村楓」と書かれている。この瞬間、間違いなく俺の返答にクラス中の注目が集まっていた。結局自分は弱い人間なんた。こういう多勢の雰囲気に流されてしまう、一般ピープルなんだ。
「やらせていただきます」
なぜか丁寧に言った自分をひどく嫌いになった。
ついでに前の席で謎のドヤ顔を決め込む新谷のこともひどく嫌いになった。
○
「ここっぽいな」
なんとか鈴村とふたり、視聴覚室へと辿り着く。
なにやら北高にはクラス委員会というものが存在して、学校中のクラス委員が集まって話し合う場があるらしい。だいたい開かれるのは放課後。当然自由な時間が食われるわけで、みんなが進んでやりたがらないのも納得がいく。クラス委員が任命された初日も、こうして会議あるわけだから、それなりの頻度で招集されるのかもしれない。
そんな面倒臭い役を俺達は半ば強制に受けさせられたわけだ。お前は嫌じゃないのかよ、鈴村。
「失礼します」
恐る恐る視聴覚室の扉を開ける。少し迷ったので、遅刻したのではないかと焦りもあったが、予想に反して室内はすっからかんであった。
「あら、いらっしゃい」
すっからかんとは言っても、人がいないわけではない。おそらく上級生であろう女生徒がひとり、机の上にプリント類をきれいに配置していた。メガネをかけた如何にもクラス委員っぽい人だ。
「あの、クラス委員会ってここで合ってますか」
「合ってるわよ。1年生?」
「あ、はい」
「そう、全クラス集まるまでもう少し時間かかると思うから、適当なところに座って待ってて」
一瞬部屋を間違えたかと思ったが、どうやらここで合っているらしい。優しい先輩だななんて思う反面、クラス委員というやつは意外と時間にルーズなやつばかりなのかとも思う。
俺は鈴村の分も椅子を引いて彼女を隣に座らせたが、鈴村からは感謝の言葉など返って来なかった。そして、鈴村は座るとすぐに胸の前で腕を組んだ。どうやら教室でもどこでもこれがデフォルトらしい。傲岸っぽくて話しかけづらいことこの上ない。
「鈴村はなんでクラス委員なんかすんなりと受け容れたんだ?」
「あなただって引き受けたじゃない」
「それはそうだけど……」
「あなたなんで引き受けたの?」
鈴村がクラス委員になったから俺もなったなんては言うわけにもいかなかった。最終的に断る権利は俺にもあったわけだし、雰囲気に飲まれたとしか言いようがない。よく考えてみれば、鈴村と組みたい男子はクラスにいくらでも居ただろうし、俺が無理にやりべきことでもなかったのかもしれない。
「俺は、クラスに馴染めるかなって」
なんとなく思いついた当たり障りのない答えを返す。その言葉自体嘘ではなかったが、こんなにアクティブに溶け込むことになるとは予定外である。クラスの意見をまとめたり指揮するのは慣れていないし、面倒臭そうなのは中学でも見てきたので知っている。
そんな普通とも言える答えでも、鈴村にとっては意外だったらしい。
ただでさえ大きな瞳を瞠目し、まるで珍しいものでもみつけたように俺を見続けた。すまん、そんなに見つめられると、どうしていいのか困る。
「はーい、全員席に着いて」
気づけばいつのまにか室内には人が集まってきていた。そろそろクラス委員会がはじまるのか、プリント配っていた人とは違う上級生が前の方で指示をし始める。
どうやら1年生は右側の席に固まらないといけないらしい。適当とは言っても、大まかな席は決まっていたようだ。そんなこと知らなかったので、俺達は2年生の真ん中の席に座ってしまっていた。
「移動しよう」
上級生に囲まれる前に立ち上がる。移動する際、喧騒の中で聞こえた鈴村の呟きが妙に耳に残った。
「わたしとは逆ね」
いったい何が逆だというのだろうか。たしかに同じだとは思わないが、逆というと反対の方向を向いてるようでおかしな気もした。鈴村の言葉が少し気がかりだったが、結局その言葉の意味を聞けないままクラス委員会ははじまった。
○
「鈴村さんだよね」
思ったよりもすんなりとクラス委員会が終わり、帰ろうかと思っていると、隣の鈴村が近くに座っていた同じ1年生の女子に話しかけられていた。
同じ中学の出身のやつなのだろうかと鈴村の意外な交友関係をみつけたつもりになっていたが、どうやら話を聞いてみると違ったようだった。
鈴村の自己紹介はクラスを越えて伝わり、鈴村自身ちょっとした有名人になっているらしい。それを聞いて鈴村に興味を持って話しかけてきたようだ。俺だって他のクラスにハルヒの自己紹介を堂々とした奴がいるなんて聞いたら、一度顔を拝みたいと思うだろう。それが美人ならなおさらだ。
「あの、メアド交換してくれない?」
随分と行動的な女子だった。しかし、この場ではメアド交換は案外おかしな行動でもないようだった。周りを見渡せば同性同士だけではなく、男女が交換しているのも目につく。もちろん交遊とかではなく、クラス委員同士の連絡のためだろう。学校を休む日などには連絡をしとかないと不便なこともあるかもしれない。
「鈴村、俺もいいか」
割と勇気出してそう言ってみたが、直後鈴村の怪訝そうな表情を見て落ち込む。
「なんで?」
「いや、クラス委員同士だから、もしものための連絡も必要かなぁ……って」
自分で言い出しておきながら自信がなくなる。たしかに女子にメアドを聞く経験なんてほとんどないが、そんなにおかしなタイミングで聞いてしまっただろうか。ケータイを取り出そうとポケットに突っ込んだ手がなかなか出せない。
「ふぅん、あなたはなんで?」
鈴村は一先ず俺のことを放置して、最初に話しかけてきた女子にも理由をたずねた。メアド交換くらい気前良く応じてやればいいのに、人との付き合いは慎重にやるタイプなのだろうか。それとも……。
「おまえケータイ持ってないのか?」
「持ってるわよっ!」
どうやら違ったらしく、随分と怒らせてしまった。しかし、こいつの怒った顔を見るのは初めてのような気もする。
「わ、わたしはただ単に鈴村さんのこと聞いて興味持って……。違うクラスだけど仲良くしたいなぁ、って。ダメかな」
鈴村は再び腕組みをし、ふぅんと息を吐いた。メアド交換にそんなに深く考えるものだろうか。
「まぁ、いいわ」
結局いいのかよ。いや、まぁ嬉しいですけど。高校入って初めてゲットした女子のメアドだし、嬉しいですけど。
「あの、わたしともいいですか」
鈴村との赤外線でのメアド交換が終わったところに、鈴村に声を掛けてきた女子から俺にもメアド交換の声が掛かる。意外な展開に少し焦ったが、とりあえずメアドでも集めているのだろうか。
「あ、あぁ、いいけど」
「わたし、前坂絵美っていいます。2組の」
「1組の芝野修治だ」
俺の名前を聞いて前坂は少し上を見て、意味ありげに「サ行」をつぶやく。さ、し、す、せ……。
「もしかして……キョンの人ですか」
「いや、まぁ、そんなポジションです」
どうやらさっきの「サ行」の作業は出席番号を確認していたらしい。
キョンの人という言い方もおかしな気がするが、キョンと言われるのはいい加減慣れてきたので、前坂の言葉にもそれとなく頷いておく。すると前坂はなんだか面白いものでもみつけたように俺と鈴村を交互に見始めた。アニメなどが好きなのだろうか。
何はともあれ、女子のメアドを2つもゲットするとはなかなかの収穫であった。案外いいものなのかもしれないな、クラス委員というやつは。
「あんまり大量に送ってきたりしないでよ」
鈴村が鞄を持って立ち上がり、帰り際毒づくようにそう言う。
「はいはい」
でも、まぁ挨拶くらいはいいだろう?
○
その夜、俺は鈴村に挨拶のメールを送ったことを深く後悔した。
それなりの勇気を振り絞ってメール(製作時間15分)を送信したのは夕飯前の19時。それからは夕飯をつくったり、アイロンかけたり、風呂に入ったりで時が過ぎ、現在時刻23時。いまだに鈴村からの返信はなかった。
代わりに受信BOXにきていたのは、いつのまにか連れ合うようになった同じクラスの押見(おしみ)からの「明日の数学の宿題範囲教えて」メールと、範囲を教える返信(制作時間30秒)をしたあとすぐに返ってきた「答えも教えて」メールの2件。もちろん後者のメールは無視した。
「うおぉ……」
なんとなくわかっちゃいたけど、それなりに心に突き刺さるものがある。やり場のない無念さに、ひとり、部屋で小さな喚声をあげた。
別に変な内容のメールなんかじゃない。要約すれば「よ・ろ・し・く」の四文字に収まるようなそんな当たり障りのないメールだ。
ただの挨拶メールだから返信する必要はないと思われたのだろうか。それともなんかの事故で届いていないとか、あるいは鈴村は滅多にケータイを開かないタイプとか。鈴村ならありえそうな気もする。
どうにか自分を納得させようと取り留めもなく理由を考えたが、無駄に時間が過ぎるだけで、余計に自分が情けなくなるばかりだった。そんなところに、突如姉貴が部屋のドアを開けて入ってくる。無断で、勝手に。
「我が弟よ」
「勝手に入ってくんな」
「別に変なことしてたわけじゃないんでしょ? 姉弟じゃないか」
確かに変なことをしていたわけではなかったが、いくら姉弟とは言えどもプライバシーというものがあるだろう。というか変なことってなんだよ。
「何の用だよ」
「南野陽子だと」
「用事を聞いてるんだよ! てか“みなみの”だろ、それは」
「知らないの? 愛称は“ナンノ”なのよ。南野陽子のナンノこれしきっ!っていうラジオがあってね……」
姉貴の博学という名のムダ知識に呆れるしかない。
ただでさえ気分が晴れないというのに、このテンションの姉貴と会話するのは精神的にこたえた。まだ未成年のくせに酒でも飲んでるんじゃないだろうか。いくらなんでもうざすぎる。
「で、なんで部屋に入ってきたんだよ」
「お姉ちゃんはお腹が空きました」
「あ、そ」
「麻生太郎じゃなくて、なんかつくってくれないかい?」
「鬱陶しい、俺はもう寝るからカップ麺でもつくればいいだろ」
「わたしはグルメなのだよ」
この前までU.F.O.で「うまい!」と連呼していたやつが言うことだろうか。もしかすると姉貴にとってのグルメは焼きそばなのかもしれない。しかし残念ながら現在、我が家のインスタント倉庫に焼きそばの類はなかった。20個ほどまとめ買いしていたというのに、1週間程度で枯渇してしまったのだ。
俺は母の偉大さというものを、この春から姉貴とふたり暮らしを始めて、ようやく分かってきたような気がする。この傍若無人に満腹を求める姉貴を、母は「寝ろ」の一言で黙らせていたのだから。
俺もそれくらい強力な言霊が使えれればいいのだが、いかんせん姉弟のあいだには絶対的な上下関係が存在した。姉貴もおそらくそれを理解しているから、しつこく俺にすがってくるのだろう。なんて狡猾で、傲慢なんだろうか。
「グルメなお姉様の舌に合う料理など、わたしめにはつくれません。どうぞお高いレストランにでも行ってきてください」
「む、今日の弟は冷たいな」
人を今日のわんこみたいに言いやがって。実際いつもこんな感じだろ、真面目にかまっていては日が暮れる。もう暮れてるけど。
「しかも、今日はずっとケータイを気にしている。これは……」
急に姉貴が右手を顎に当て、目を細め鋭くする。なんとなくそのポーズに嫌な予感がした。まさか俺が同級生の女の子からの返信を待っているなんて、そんなピンポイントなことを勘づかれたのだろうか。思い返せば姉貴は普段は鈍感なくせに、時々妙に細かいことに気づくことがあった。今回も、もしかすると……。
「さてはエロサイトからの迷惑メールに悩んでいるな。思い切ってメアドを変えればいいのに……いや、しかしこの時期にメアド変更すれば周りに怪しまれるか、それを迷ってるんだな」
とんだ迷探偵だった。幻想のなかで迷っているのは姉貴の方だよ。少しでも緊張した俺がバカだったと、呆れてため息をつく。
「総じてハズレだ。レンジのなかに朝食用の焼き魚があるから、それでも食べといてくれ」
「よし、きたこれ」
胸の前でガッツポーズを決める姉貴の背中を両手で押して、さらに最後の切札を使って部屋から追い出した。その焼き魚をいま消化してしまうと、朝食がどれだけ貧相になるのかなんて、おそらく微塵にも考えていないのだろう。
俺は最後にメールの問い合わせをして、落胆するとともに部屋の電気を落とした。なんとなく明日のことを考えると顔を合わせづらい。これでは芝野修治の憂鬱だ。
しかし、鈴村の方はそんなこと気にもしていないんだろうな。いつものように腕を小さな胸の前で組んで、授業中「黒板が見えない」と俺に文句を言うに違いない。俺は別に高身長でもないというのに、あいつは人形みたいに小さいんだ。
そんなことを考えていると突然、暗闇の中、ケータイが光った。
一瞬アラームかとも思ったが、そのメロディーは間違いなくメールのものだった。
まさかとは思いながらも、もし押見からのメールだった場合、明日散々文句を言ってやろうと、念のため心のダメージ対策を張っておく。
タイトル:無題
本文:魚おいしかったよ(ハートの絵文字)
俺はその送信相手に文句を言えるわけもなく、静かにケータイを閉じた。そして、やはりだいたいのことは勘づかれているではないだろうかと不安になる。
「くそ姉貴め」
鈴村にも振り回されて、実の姉貴にもおもちゃのように弄ばれて、自由で輝くはずだった俺の高校生活はいつのまにかとても窮屈なものなっていた。
○
昼休み。
俺は結局毎日作ることにした弁当を机の上で開いて、いつものメンバーとそれはそれは楽しいランチタイムを始めようとしていた。
もちろん姉貴の分の弁当はいくら頼まれようとも、いまだ一度も作ったことがない。それでも弁当に入りきらない余ったおかずを毎朝消化してくれるので、こちら調理班としては大助かりである。
そんな楽しいランチタイムの中、不意にある御方の名前があがった。
「鈴村さんって昼休みいつもいないよね」
と急遽鈴村の話をし始めたのは坂本。こいつとはファーストコンタクト時にキョンインパクトで一度気不味いことにはなったが、やはり席も近いこともあり、いつの間にか普通に友人と言える間柄になっていた。今ではクラスの中で一番話す相手だ。
「パンでも買いに行ってるんじゃないか」
と極めて面白味もないフツーな答えを返すコイツは昨夜の宿題メールの送り主・押見。お調子者な感じでどんな奴にでも気軽に絡むような奴だが、これまたいつの間にか俺と坂本との三人で連れ合うようになっていた。ちなみに宿題は朝早く坂本に写さしてもらったらしい。
行動を共にするようになったのはつい最近のことのはずだが、特にきっかけらしいきっかけは見当たらない。そもそもきっかけなんてあっただろうか。大まかな根本を辿ればすべて鈴村の自己紹介に行き着くような気がする。
あえてこの三人の共通点をあげるとすれば、イケてるグループにもオタク集団にも属さない中途半端なところといった感じか。俺達に限らずグループなんて似たようなやつらが集まるものだ。その方が楽しい。
「パンを買いに行ったって、あの人混みの中をか?」
「ちょっと考えにくいよね」
北高のパンショップの恐ろしさはすでに一年生のあいだで常識となっている。
4時限目の終焉を告げるチャイムとともに焼きそばパンを求め、やれラグビー部だの野球部だのの鍛えられた身体の体育会系男子がぶつかり合う様は、一度見たら忘れられない。あの中に飛び込もうものなら自分自身が食パンのようにペッタンコになるだろう。そのことはすでに押見で証明済みだ。
「1年で、しかも女子で、あの体型だ」
それは考えうる上で最悪の条件であった。
まず1年生の教室は総じてパンショップから遠い。学年があがるごとにパンショップに教室が近づくのだが、こればかりは学校側の上下社会の教育と言えるだろう。
そしてパンショップに突撃するやつは総じて野郎だ。その証拠に、もしかしたら女子のおっぱいに挟まれるかもしれないと希望を持って飛び込んだ押見は胸筋という名のおっぱいに挟まれて死にかけた。
鈴村のスペックではコッペパンと牛乳の小さな紙パックが限度だろう。
そんなパンショップの地獄を知っている1年生はたいてい弁当を持参してくるか、登校中にコンビニにでも寄って食料を調達してくる。しかし、鈴村がそのようなものを持ってきてるような様子は今までに確かめたことがない。別に常監視しているわけではないが。
「でも、鈴村ならやりかねんな」
その押見の言葉に、俺と坂本は深く頷いた。
あいつならやりかねない。何しろ常識が通じないのだから、行動も読めない。
「お、噂をすれば」
鈴村がいつのまにか教室の入り口に立っていた。右手には文庫本を持っているのが見えた。
「シバノン、お前聞いてみろよ」
「なにを」
ちなみにシバノンとはいつのまにか定着した俺のアダ名である。無理に「ン」をつけてキョンに近づけたという最高にセンスがなく、完全なる悪意が入ったアダ名だと俺は思っている。
「なにをって、昼飯どうしてるのかってさ」
「押見が聞けばいいだろ」
「いや、お前くらいしか話せるやついないって」
右側で坂本がうんうんと同意するように頷く。
これではハルヒとキョンの関係ではないか。いや、はじめからそんな扱いのような気がした。
鈴村が後ろの自分の席に座る。物珍しそうにみつめていた坂本と押見が、鈴村に一度睨まれ慌てて視線をずらした。
「し、シバノンの弁当っていつもおいしそうだよねー」
「だ、だなー。俺の母ちゃんより料理上手いと思うぞ」
「もう玉子焼きひとつしか残ってないけどな」
「明日から俺の分もつくってきてくれよ」
「断る。気持ち悪い」
「「アハハハ」」
坂本と押見が声を合わせて下手糞な笑いをする。こいつらもう少し上手い演技ができないんだろうか。文化祭で演劇をやるとしたら間違いなく道具づくり担当だな。
俺は弁当のさいごの玉子焼きを口に入れ、フタを閉める。
弁当は普通の料理とは違って時間が経って冷めてもおいしいものを入れる必要がある。あえておかずを少し凍らせておいて、弁当を開く頃には解けていてちょうどいいなんてテクニックもある。別に今日の弁当も不味いわけではないが、もう少し弁当用のおかずというものを勉強しないとな、なんてついついお母さん的なことを食後に考えてしまう。
「さて、自販にでも行くか」
そう思い、立ち上がろうとしたところに両端から制服を掴まれ、強制的に椅子へ叩きつけられる。
そして左右から顔面が近づいてきて、
「きいてくれよ」
「頼むよ、シバノン」
と小声で頼まれる。
その顔面を気持ち悪いと一喝し、両手で振り払い、俺はメンドクサイと思いつつも、一度溜息をついて、仕方なく後ろを振り返った。
「なあ、鈴村」
「……なによ」
少しの間があって、嫌そうながらも言葉が返ってきた。
鈴村の机の上には先ほど手にしていた文庫本が置かれている。本の背には見覚えのある分類番号のシールが貼られている。俺はまだ一冊も借りたことないが、学校の図書館のものだ。
「何の本読んでるんだ?」
「関係ないでしょ」
で、ですよねー。というか表紙見れば本のことなんてすぐに分かった。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。たしか中学の教科書に載っていたような気がする。なんでこんなものを……。というかあの話ってこんな文庫本として分厚くなるほどの長さがあっただろうか。鈴村は成績も良いし、意外と読書家なのかもしれない。
そんな相変わらずな鈴村の傲岸な態度に、諦めて前を向き直そうと思っていると、両端から肘で肋骨を狙ったツッコミがくる。そうじゃないだろ、飯のことを聞けと言わんばかりだ。
「いつも昼休み教室に居ないけど、飯はどうしてるんだ」
それを聞いて両端のバカ二人は「それそれ」と、口にはしないが意味深に頷く。鬱陶しい反応だ。絶対あとでジュースでも奢ってもらおう。
「関係ないでしょ」
二人の望みどおりの質問をしてみたが、返ってきた言葉は同じだった。
――関係ない。
はい、その通りでございます。
「もしかして食べてないのかー、背が伸びないぞー」
そんな天の声が何処かからか聞こえてくる。ちなみに俺の近くで聞こえるが、俺が言ったのではない。俺の背中に隠れている押見が言ったのだ。
そんな他人のコンプレックスに汚れた手で触るようなヤジを飛ばす勇気があるなら、自分で質問すればいいだろうに。どこのスネ夫だ、こいつは。俺はジャイアンじゃなくてキョンだぞ。いや、キョンでもないが。
「糞メガネに言われたくない」
「め、メガネは関係ないだろ! ――って、うがっ!」
鈴村の言葉に激昂した押見だったが、一瞬にして沈没させられる。
押見が俺の背中から顔を出した瞬間、鈴村に小さな消しゴムを投げつけられたのだ。しかも顔面クリーンヒット。この至近距離で怒りの篭ったあれは、見ているだけでも痛そうだ。
「お前が圧倒的に悪いぞ、押見」
鼻を押さえて、涙目の押見を見ても、可哀想だとはとても思えない。むしろ鈴村GJ。
「パンくらいならちゃんと食べてるわよ」
「パンって、パンショップで買ってるのか」
「そうだけど」
「おー」と左右から驚嘆の声があがる。いや敬嘆とも言えるか。
「あそこ人やばくないか、体のごつい上級生たちばかりだろ」
体に関してのことを言ったからか、少し鈴村の目が細まったが、幸運なことに消しゴムは飛んでこなかった。
「私が行く時はいつも空いてる」
空いてるって、まさか争奪が終わってから行ってるのか。授業が終わると同時に教室を出て行くくせにゆっくり歩いて向かうのだろうか。
「人空いてからだと全然いいパンないだろ」
「いちごジャムパンとかあるわよ」
「ジャムパンねぇ」
あまりに味とかにこだわらないのだろうか。それにこんな細い体型なのに毎日そんな偏った食事をして、体に悪くないのだろうかと弁当をつくる人間としては心配してしまう。それともまさか鈴村は……。
「甘党なのか? ――がっ!」
今度は俺に消しゴムが飛んできた。どうして甘党がアウトなんだ!? 女の子なら別にいいじゃないか!
「ナハハ、シバノンも当てられてやんの――って、ぐわっ!」
俺を笑う押見にもう一回消しゴムが飛ばされる。いったいいくつ消しゴムを持ってんだ、こいつは。しかし、こればかりはナイスだ。押見と当てられた数が同じでは俺の一生の恥だ。
「読書するから、黙れ」
「「「すんませんでした」」」
“喋りかけないで”じゃなくて“黙れ”なんですね。しかし、鈴村に迷惑をかけてしまったことは確かだったので三人して謝る。
「自販でも行こう」
「俺、コーラで頼む」
「僕は桃の天然水」
「ふざけんな、お前らが奢れ」
教室を出る前に一度名残惜しいわけではないが、自分の席を見返した。もうあの席にも座ることもないんだなと思うと、少し寂しい気持ちにもなる。
○
その日の5時限目は席替えだった。
もともとHRであるこの時間は、授業というよりかは自由タイムに近いような時間だ。たいていはよくわからんアンケートを書いたり、随分と先のイベントの出し物を考えたり……。
本当ならばクラス全員の意見をまとめるべきなんだろうが、こういう場に置いて口を開くのは数人程度である。それもだいたい固定メンバーだ。まとめ側のクラス委員としては意見があまり対立しなくてありがたいことだが、ときどきクラス委員の必要性に疑問を感じることもないことはない。
そして、今日のHRは担任の松坂先生曰く、
「生徒で好きなこと決めて、好きなことやって」
らしい。良く言えば生徒自治に任す、悪く言えば教師の放任とも言える。
そんなわけで先週のHRの余った時間を使って、仕方なく俺は別に教師でもないのにクラス全員が座る前で教壇に立ち、意見を聞いた。
「なんか来週のHRは生徒で自由に決めていいらしいので、なにか来週のHRでやりたいことー」
「野球!」
「サッカー!」
「ラグビー!」
「ドッヂボール!」
まずクラスの運動部男子によって出たそれらの意見は女子の圧倒的反対を受けて却下となった。男子数人のブーイングが響いたが、帰宅部の俺としてもありがたい結果である。
そもそもそんなことが50分のあいだにできるわけがない。いや待てよ、逆に50分でできることなんて何がある。そんな疑問に突き当たり、誰もがガヤガヤとするだけで意見が出ない時間がしばらく続いたが、そんな中、鶴の一声をはなったのは意外なことにも押見だった。
「芝野ー、席替えしようぜー」
悪いが、その言い方は完璧にサザエさんの中島で、磯野と野球にしか聞こえないからやめてくれ。
しかし、その意見には誰もが賛同した。
後方の席で授業中居眠りしたい奴も、仲良いの友達と近くの席で喋りたい奴も、このクラスで一番の美人の隣を狙う奴も……。いろんな理由があるだろうが、出席番号順だけ決められた現在のデフォルトの席に不満を持つものが多いのはたしかだった。
もちろん俺だってそうだ。
いまの席は教室のほぼ真ん中に位置するためか、そんな目立っているつもりはないのに授業中よく当てられる。別に真面目に授業を受けてないわけではないが、あまり当てられると緊張して仕方がないのだ。
それに後ろのあの御方がうるさいのだ。
「黒板が見えない」
と。
言っておくが俺は別に何も悪くない。ただ「さしすせそ」の順番が悪かっただけだ。もしサ行が「さすしせそ」だったら俺が鈴村の後ろで、こんなことにもならなかったはずだ。
しかし、勉強には意外と真面目に取り組む鈴村の邪魔をするわけにもいかなく、そういう時、仕方なく俺は少しのあいだ机にうつ伏せたりするが、その間に「姿勢が悪い」と教師に怒られたことは一度や二度のことではない。なんたる理不尽か。
それだけではなく、無言でシャーペンを背中に突き刺されたこともあった。
「イテッ!」
と叫びたい気持ちと感覚を堪えて、
「なんだ」
と後ろを振り返ってみると「見えない」と文句を言われた。別に一言いわれたらちゃんと対応するというのに、これではシャーペンの恐怖に怯えて常に腰を曲げて授業を受けないといけないのだろうか。こんな毎日を過ごしていては自然と猫背になってしまいそうだ。
つまるところ、何が言いたいかと言えば、席替えの案に対してはクラス委員の俺としても反対する意見がないわけで、もう一人のクラス委員でもある鈴村の方も、授業中俺に文句を言うくらいなのだから反対ではないんだろう。
横でめんどくさそうに教卓に両腕を載せている鈴村を見て、そんなことを勝手に決め付ける。少し高さのある教卓は鈴村の背に対して胸のあたりまである。もしかすると、ちょうどいい高さなのかもしれないな。
「じゃあ、来週はHRは席替えで」
白いチョークで黒板にそれなりに大きな字で「席替え」と書く。直後教室中に「よっしゃああああああああ!」とよく聞き取れない歓声が湧き上がった。
こんなイベント一喜一憂できるのだから、高校生も中学生も大して変わらないな、なんて俺はどこか少し冷めた感じでそんなことを思った。
○
人生っていうのはものすごくテキトーで単純に出来てるのだと、俺は高校1年生の春にして悟った。それも席替えというイベントによってだ。
もしも本当に神様というやつが人間の運命を決めているというのなら、それはそれはお手軽な仕事で、別に神様だなんて高尚でお偉い方がやらなくても、そこらへんの阿呆にでもできるお仕事なんじゃないだろうか、と俺は「神様ちゃんと仕事しろよ」と人生で最大の相手に喧嘩を売りたい気分にもなった。
だって、こんなこと、あまりにも出来過ぎだ。
席替えをやると言っても、その方法の一切は俺たちクラス委員に一任されていた。
いくら自由だからと好きな奴同士で席を固めてしまえば授業に集中できなくなるだろうし、そういうことも配慮し、また公平さも考えた上で俺は「くじ引き」でいいだろうという結論に至った。一応同じクラス委員の鈴村にも「どうだろうか」と訊ねてみれば、
「それでいいと思う」
大して興味もなさそうに横を向いたまま鈴村はそれに同意した。しかし、いちおう同じクラス委員としての自覚があるのか、くじの制作などはちゃんと手伝ってくれた。
俺が紙を均等に切り、鈴村が数字を書いていく。
クラス委員、はじめての共同作業です! なんてナレーションがついたところで別に嬉しいわけではないが、野球部の練習の声が聞こえてくるなか、放課後の教室で鈴村とふたりで黙々と作業するのは少し不思議な感じがした。
とりあえず、まあ、今回の席替えに関してはクラス委員の俺達は影でちょっとした苦労したわけで、優しいクラスメートのみんなは優先的に俺と鈴村にくじを引かしてくれることになったわけだが、よく考えてみればこういうのをフラグって言うんだ。
今回の席替えはくじを引くと紙に数字が書いており、その数字の席――現在の出席番号の席に移動するという何ともありきたりで単純な席替え方法である。
ありがたいことに一番最初にくじを引かせてもらうことになった俺は見事「7番」という好座席を引き当てた。7席×6列と並ぶこの教室のなかでは窓際最後尾と、隅で非常に目立たなく、風通しもいい快適な座席と言える。
そんな好座席を早速引き当てた俺に「くじ製作者として仕掛けをつくったんじゃないか」疑惑がかかったが、そんなものは無視して俺は意気揚々と黒板に書いた簡易座席表に「芝野」の二文字を白いチョークで書き込む。
「……よしっ」
それだけでちょっと満足感を俺の心のなかを満たし、神様に少し感謝したい気持ちにもなっていたが、そんなのものも束の間であった。
俺がそんな満足感に浸っている後ろで鈴村は自分の分のくじを引いていたのだ。いま思い返せば、もう少し慎重に鈴村にくじを引かせるべきだったのだ。ほら、奥の方に良さそうな番号が眠ってるぜ、なんてそんな説得したところで鈴村が言う事を聞くはずもないが。
「鈴村、何番だ?」
「6」
「鈴村がえっーと……え?」
たしかに鈴村の言った数字は聞き取れたが、それでも聞き返さずにはいられなかった。
「6番」
と鈴村は少し怪訝そうな表情をして再度数字を言った。さきほどより少し大きめの声で言われたその番号は確実に教室の全員の耳へと届いた。
おそらく鈴村だってこの番号がどこの席になるかくらい把握しているのだろう。鈴村だけじゃない、クラス全員が気づいてるはずだ。俺がさっき引いたのが「7番」、そして鈴村が引いたのが「6番」。
前後が逆じゃないだけ幸いかもしれないが、それにしたってこんなの……。
「出来過ぎだ!」
クラスのあちこちで声があがる。さきほどは冗談半分だった「くじ製作者として仕掛けをつくったんじゃないか」疑惑も、今度はそう簡単に晴れそうにはなかった。
「鈴村、紙見してくれるか」
「本当に6番よ」
左手に鈴村から受け取ったくじ、右手に白いチョークを持ったまま、しばらく黒板の前で硬直する。たしかに紙には「6」と書かれているが……。
「実は“9”だったりしないか?」
「自分で書いた字を間違えるわけないじゃない」
ですよねー。
紙には鈴村のバカみたいにキレイな字で数字が書かれている。それを本人が間違えるなんてまずありえないだろう。
一瞬鈴村が言った数字にどよめいた教室は、いつのまにかクラス委員への批判の声へと変わっていた。とても「はい、ということで次引いていこー」とできる雰囲気ではない。
「出来過ぎだ」
それは認めらざるえない。しかし、こればかり運命の女神様が悪いだろう。
「仕掛けてるだろ」
仕掛けてません。
「6番と7番しか入ってないんじゃないだろうな」
そんなことはない。確かめてくれ。
「八百長だ!」
よく意味わからずに使ってるだろ、その言葉。
あくまで俺は偶然であることを主張したが、一向に教室は静まらなかった。なんとなく騒がしいクラスの授業する教師の気持ちがわかったような気がする。
おそらくクラスの連中も早くくじを引きたいという思いもあるのだろうが、この異常な出来事を無視することもできないといった何とももどかしい状況がしばらく続く。
俺は助けを求めるように教室の空いた席に座っている担任の松坂先生へと視線を向けたが、こんな状況にもお構いなしに文庫本を熱読していた。間違いない、これは教師の責務の放棄だ。これからは先生なんてつけてやるものか、松坂と呼び捨ててやる。心の中限定だが。
今まさに1年1組芝野内閣の支持率が急降下のなか、大した指揮力もない俺は状況が鎮静化するのを待つことしかできなかったが、意外にも鈴村が大きな声を出して、教室を静かにさせた。
「仕掛けなんかしてない。全員が引けばわかることよ」
もっともな言葉だ。
しかし、俺が同じ言葉を口にしたところでこんな風に場は静まらないだろう。こればかり天性のようなものだ。彼女には人を納得させるような威厳がある。
「それに……」
しかし、最初の言葉だけでも十分教室の雰囲気は変わったはずだったが、さらに鈴村は言葉を続けた。
「私だってわざわざこんな奴の近くになんてなりたくない」
ちいさな指で俺の顔を差し、鈴村は実に堂々とそう言った。
いや、こんな奴って、なんか俺が一方的に悪いみたいじゃないか。そう勘違いされるんじゃないかと俺は心配になったが、どうやらそれがクラスの総意でもあったようだった。
「そうだな、鈴村は被害者だ」
「シバノンはストーカーだな」
「とりあえずくじ引こう」
いや、俺、鈴村より先にくじ引いたんだけど……。
それにしても俺――芝野修治はそんなにも鈴村に嫌われているのだろうか。そりゃ消しゴム投げられたり、シャーペンで刺されたり、返信来なかったりしたが……。
とても鈴村が「席替えしても芝野くんの近くがいいな」なんて願ってるとは思ってなかったし、まさか「べ、別にあんたの近くの席になんかなりたくないんだからね」というツンデレが発動したなんても思っちゃいないが、それでもなんとなく俺自身を否定されたような気がして悲しい気分になった。
しかし、まあ、俺が悪役ということになって無事に席替えが執り行えるのであれば、別にいいかと思う自分もいた。面倒なことはできるだけ早く終わったほうがいい。
「じゃあ、相田と横山でじゃんけんしてくれ」
くじの残りは出席番号の最初と最後をじゃんけんさせて、勝ったほうから引かせることに。
結局、相田と横山は5回連続あいこの末(こっちの方が偶然かどうか怪しい)、出席番号1番から引くことになった。あまりの激闘だったためか、出席番号の若いやつらは相田を讃え、横山は出席番号下位の連中にブーイングを受けるという不思議な絵図ができあがる。
そのあとは番号と名前を確認し、俺がチョークで簡易座席表に名前を埋めていく。順調に進み、無事時間内に席替えは終わった。
「はあ……」
新しい席にはじめて腰をおろす。思ったとおり、見渡しのいい座席だ。
晴れた春の日の窓際の席は、日差しが眩しかったが、かと言って窓を開ければ少し肌寒い。そんな席だった。
○
にんまりと、右隣の席の新谷は笑みを浮かべている。
結果的にいうと席替えはしたものの、俺と鈴村だけに限らず、周囲の顔ぶれは元の席順とさほど変わり映えしなかった。
鈴村の2つ前には坂本がいるし、押見の席だって前に比べれば随分と近くなった。だからといって授業中に話せるような距離ではないが。
そして右隣には新谷がいる。いままでは後ろの席で繰り広げられていた俺と鈴村の光景を、これからは左横で眺められるわけだから、彼女としては相当な当たりくじを引いたことになるのだろう。
「またよろしく」
「おう……」
決して親しくないわけではないから、気軽といえば気軽だが、それでも俺と鈴村は見世物じゃないんだぞと新谷に一言言ってやりたい。
しかし、ここまで来ると当の本人である俺でさえ、おかしく思えてくるものがある。
どうやら運命の女神様というやつは随分とイタズラ好きなようである。神様という仕事は相変わらずお手軽ではあるが、楽しそうな仕事ではある。さすがはエリート。
ところが腐れ縁とも言えるこの関係を、俺はなにを血迷ったか運命のようにも思えてきた。いっそのことならこの1年間は鈴村とお近づきなろうでないかとさえ思い始めていたのだ。背後からシャーペンで刺されるという恐怖を失った俺は彼女の傲岸さをいつしか忘れ、授業中ずっと目の前にいるその人形のような外見にだけに囚われていたのかもしれない。
「鈴村は部活とか入らないのか」
ある日の放課後。掃除が終わり、帰る準備をしている鈴村にそんなことを話しかけた。
意外にも鈴村は面倒そうな表情をしながらも、言葉を返してくれた。前までなら無視されてもおかしくなかったというのに。
「入りたいクラブがない。それにあんただって帰宅部じゃない」
「まぁ、そうだけど」
俺がクラブに入らないのはどちらかというと勉強や家事を優先したいからだった。別にクラブをやりながらでもやれないことはないだろうが、両立なんて難しいことをしてまでも打ち込みたい部活がないのも確かだった。そういう意味では鈴村と似た理由になるだろうか。
「涼宮ハルヒはなにか部活やってるの?」
「へっ?」
鈴村の口から意外なことばが出て、思わず驚く。
そりゃ、こいつがした自己紹介は忘れもしないが、それでも鈴村=涼宮ハルヒなんてイメージは俺だけじゃなく、クラス全員も薄れてきている。それもそのはずだ。鈴村はハルヒのことなんかあの自己紹介くらいしか知らないのだから、似せられるわけもない。
しかし、鈴村自身は今も似せようとしているのだろうか。いや、それなら俺なんかにこんなことを聞かなくても、自分で原作を読むなりしたほうが手っ取り早いだろう。
「あー、涼宮ハルヒはたしか全部のクラブに仮入部して、そのくせどのクラブにも入らずに、最終的にはサークルみたいなのを自分でつくってるよ」
「へー」
あたかも涼宮ハルヒが実在する人物かのような口調で俺は軽く説明した。
別に嘘を言ってるわけではない。涼宮ハルヒがSOS団をつくって、そこからストーリーははじまる。
「って、なんでそんなこと聞くんだ?」
「え? だってそういう意味で聞いたんじゃないの?」
「そういう意味?」
「私が涼宮ハルヒ的な行動しないのかって意味」
「いや、そういう意味じゃなかったんだけどな……」
もしかしたら鈴村は自分のことがハルヒキャラとしてしか周りに認識されていないとでも思っているのだろうか。
そうだとしたら、とんでもない勘違いだ。
ちっこいくせに生意気で、だけど成績優秀で美人で……。そんなキャラはもはや涼宮ハルヒとは違うひとつのキャラとして周りは認識し出している。
「じゃあ、どういう意味で聞いたのよ」
どうして俺はこうにも詰問されるのだろうか。それにさっきより鈴村の顔が怒りっぽくなっている。ハルヒ的な意味での質問じゃなかったら、不機嫌になるとでもいうのだろうか。全く以て理解し難い。
「どういう意味って、単純に鈴村に興味あって聞いたんだよ」
「なにそれ」
そんな冷たい返答をされると自分がおかしなことを言ったんではないだろうかと不安になってくる。いや、実際に変な言葉だっただろうか。いやいや、そんな疑問持つくらいいいだろう。
「というか、本当にハルヒのこと全然知らないんだな」
「知らないわよ。前にも言わなかった?」
たしかに聞いたような気もするが、それにしたってあんな自己紹介をしといてハルヒを知らないだなんて、やっぱり矛盾しているような意図が読めないというか、理解に苦しむものがある。
「私が知ってるのはさいしょの自己紹介だけ……」
そう言いながら鈴村は付き合いきれんといった感じで少し大きく見える鞄を肩に掛け、教室を出ようとした。
しかし、出る前に一度立ち止まって、振り返って俺にもう一度言葉をかけてくれた。「ばいばい」とか「また明日ね」とか、そんな可愛らしい女の子の言葉じゃなかったが、それでもその言葉は、俺の胸の鼓動は少し早まらせた。
「それと、キョンっていう名前」
その名前も最初は忘れていたがな、とは言わないことにした。
それに俺はキョンじゃないって。そして、お前もハルヒじゃないよ、鈴村。